東漢時代328 献帝(十) 劉備登場 191年(5)
献帝は東に帰りたいと思っていたため、劉和を董卓から逃れさせ(原文「使和偽逃董卓」。董卓を騙して長安から逃れさせたのだと思います)、秘かに武関を出て劉虞を訪ねさせました。劉虞に兵を率いて迎えに来させようとします。
『後漢書・劉虞公孫瓚陶謙列伝(巻七十三)』では劉虞が田疇を長安に派遣しており、それを受けて献帝が劉和を武関から出して、劉虞を訪ねさせています。しかし『三国志・魏書八・二公孫陶四張伝』には、この時、劉虞が田疇を派遣したという記述はありません。
『三国志・魏書十一・袁張涼國田王邴管伝』を見ると、田疇は確かに劉虞の使者として長安を訪ねたことがありますが、使命を終えたら駆けて幽州に還っており、到着した時には、劉虞が既に死んでいました。劉虞が死ぬのは献帝初平四年(193年)の事なので、時間が合いません(本年は初平二年・191年です)。
本文に戻ります。
書を得た劉虞は数千騎を派遣して劉和に合流させることにしました。
この時、公孫瓉が袁術の異志を知って劉虞を止めましたが、劉虞は聞き入れませんでした。
この後、劉虞と公孫瓉の対立がますます深くなりました。
袁術が孫堅を派遣して董卓を攻撃させ、孫堅がまだ還らなかったため、袁紹が会稽の人・周昂を豫州刺史に任命し、孫堅の陽城を襲って奪わせました(孫堅はこれ以前に袁術によって豫州刺史に任命されていました(領豫州刺史)。『資治通鑑』胡三省注によると、陽城は潁川郡に属す県で、孫堅は陽城を拠点にしていました)。
孫堅は兵を率いて周昂を撃ち、走らせました。
孫堅は言葉を発して涙を流しました。
周㬂は字を仁明といい、周昕(丹陽太守)の弟です。
以前、曹操が義兵を興した時、人を送って周㬂を要請しました。周㬂は兵衆を集合させて二千人を得て、曹操の征伐に従い(前年、周昕が曹操に兵四千余人を与えています。周㬂が曹操に従ったのはこの頃ではないかと思います)、軍師になりました。
『資治通鑑』に戻ります。
公孫瓉は自分の将帥である厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経(『資治通鑑』胡三省注によると、「単」の音は「善」と同じです。周の卿士・単襄公の後代です)を兗州刺史に任命し、郡県の守令を改めて全て置きなおしました。
身長は七尺五寸もあり、手を垂らしたら膝よりも下にとどき(垂手下䣛)、顧みたら自分の耳が見えました(顧自見其耳)。
劉備は大志を抱いており、言葉は少なく、喜怒を表情に出しませんでした。
かつて公孫瓉と共に盧植に師事したため、公孫瓉を頼りました。
常山の人・趙雲は本郡(冀州)に推挙されましたが(『資治通鑑』は「常山趙雲為本郡将吏兵詣公孫瓉」ですが、意味が通じません。『三国志・蜀書六・関張馬黄趙伝』をみると「為本郡所挙」とあります。『資治通鑑』は「所挙」が抜けています)、吏兵を率いて公孫瓉を訪ねました。
公孫瓉が言いました「貴州(汝の州)の人は皆、袁氏に従うことを願っていると聞いたが(『資治通鑑』『関張馬黄趙伝』とも「皆願袁氏」ですが、胡三省注が「『皆願従袁氏』とするのが正しい」と解説しています)、君はなぜ独り迷って反すことができたのだ(君何独迷而能反乎)?」
趙雲が言いました「天下は訩訩(喧噪、混乱の様子)としており、誰が是であるのか(正しいのか)分かりません(未知孰是)。民には倒縣の厄(転倒、覆滅の災難)があるので、鄙州(我が州)は論議して仁政が存在している所に従うことにしました。袁公を軽視して明将軍に親しもうとしたのではありません(公孫瓉にも仁政がなければ去るつもりです。原文「不為忽袁公私明将軍也」)。」
東漢時代 劉備登場
次回に続きます。