東漢時代330 献帝(十二) 管寧、邴原、王烈 191年(7)

今回で東漢献帝初平二年が終わります。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
公孫度の威が海外に行われ、中国の人士で乱を避けた者の多くが帰順しました。
北海の人管寧、邴原、王烈が皆、公孫度を頼りに行きます。
 
管寧は若い頃、華歆と友人になりました。
かつて華歆と共に畑を耕した時(鋤菜)、その地に金(黄金)があるのを見つけましたが、管寧は鋤を振るい続けて顧みようとせず、瓦石を見つけた時と違いがありませんでした。
一方の華歆は金を手に取ってから投げ捨てました(黄金に心を動かされました)
人々はこの出来事から二人の優劣を知りました。
 
邴原は遠くに遊学に行き、八九年してから帰りました。
遊学中の邴原は酒を飲まなかったため、師友(師や友人)が米肉を贈ります。
すると邴原はこう言いました「本来は酒を飲めるのですが、(酒は)思いを乱して学業を廃すため(荒思廃業)、これを断っていたのです。今、遠くに別れるので、一宴を設けても差し支えありません(可一飲燕)。」
邴原は師友と共に坐って酒を飲み、終日酔いませんでした。
 
管寧と邴原は操尚(高尚な節操。または節操と志向、理想)によって称えられており、公孫度は館舎を空にして迎え入れました(虚館以候之)
 
管寧は公孫度に会ってから、山谷に廬(家。小屋)を建てました。
当時、難を避けた者の多くは郡の南に住んでいましたが、管寧だけは北に住み、故郷に帰るつもりがないという意志を示しました(示無還志)
後に管寧に従う者が徐々に増え、旬月(一月足らず)で邑(村)が形成されました。
 
管寧は公孫度に会うといつも経典だけを語り、世事には言及しませんでした。
山に還ったら『詩』『書』に専念し(専講詩書)、祭祀について習い(習俎豆)、学者以外は会いませんでした。
そのため公孫度は管寧を賢人とみなして安心し、民はその徳によって教化されました(度安其賢,民化其徳)
 
邴原は性格が剛直で、公正な評論によって事象を正しました(不合理な事象を批難しました。原文「清議以格物」)
公孫度以下の者が心中で不安になります。
管寧が邴原に言いました「潜龍とは姿を見せないことで徳を成すものだ(潜龍以不見成徳)。言がその時ではなかったら、全て禍を招く道になる(言非其時皆招禍之道也)。」
管寧は秘かに邴原を逃げ帰らせました。
公孫度はこの事を聞きましたが、追いかけませんでした。
 
王烈は器業(才能学識)が常人を越えており、若い頃から名聞(名声)が邴原や管寧よりも上で、教え諭すことに長けていました。
郷里に居た頃、牛を盗んだ者がいました。牛の主がこれを捕えると、盗んだ者は謝罪してこう言いました「刑罰は甘んじて受けますが、王彦方(彦方は王烈の字です)には知らせないでください(刑戮是甘,乞不使王彦方知也)。」
これを聞いた王烈は人を送って謝し、布一端(「端」は長さの単位です)を贈りました(原文「烈聞而使人謝之遺布一端」。牛の主人に謝罪して盗人を釈放させ、盗人に布を贈ったのだと思われます)
ある人が王烈に理由を問うと、王烈はこう言いました「盗(盗人)は私がその過ちを聞くことを懼れた。これは悪を恥じる心があったからだ。既に悪を恥じることを知っているのなら、善心が生まれるだろう(既知恥悪則善心将生)。だから布を与えることによって、善になるように勧めたのだ。」
 
後にある老父が路で剣を無くしました。
道を歩いていた者が剣に気づき、傍で見守ります。
日が暮れてから、老父が戻って来て剣を探し出しました。
老父はこれ(知らない者が剣を見守っていた事)を不思議に思い、王烈に報告します。
王烈が人を送って剣を見守っていた者を探させたところ、以前、牛を盗んだ者でした。
 
是非曲直を争って王烈に判決を求めようとした者がいても、ある者は道に就いてから思い直して帰り、ある者は王烈の廬(家)を眺め見て帰り、皆、直(実直誠実)を互いに推進して(相推以直)王烈に聞かれないようにしました。
 
公孫度が王烈を長史に任命しようとしましたが、王烈は辞退し、商賈(商人)になることで自分の身を貶めたため(為商賈以自穢)、任官から免れられました。
 
[二十] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、長沙である人が死んで一月経ってから活き返りました(死経月復活)
 
 
 
次回に続きます。