東漢時代331 献帝(十三) 界橋の戦い 192年(1)

今回は東漢献帝初平三年です。五回に分けます。
 
東漢献帝初平三年
壬申 192
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』はここで「袁術が将・孫堅を派遣して襄陽で劉表を攻撃させたが、孫堅が戦没した」と書いていますが、『資治通鑑』は前年に書いています(前年参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
董卓が牛輔を派遣し、兵を率いて陝に駐屯させました。
牛輔は校尉北地の人李傕、張掖の人郭汜、武威の人張済に歩騎数万を指揮させ、分派して中牟で朱儁を撃たせました。
朱儁が破れたため、李傕等はその機に陳留潁川の諸県を侵し、通った場所でことごとく殺虜(殺すか捕えること)して一人も残しませんでした(所過殺虜無遺)
 
荀淑桓帝建和三年149年参照)には荀彧という孫がおり、若い頃から才名がありました。
かつて何顒が荀彧に会って常人ではないと思い、「王佐の才だ(王佐才也)」と言いました。
 
天下が乱れてから、荀彧が父老に言いました「潁川は四戦の地です(潁川は平地なので四面から攻撃を受ける土地だという意味です)。速やかに避難するべきです(宜亟避之)。」
しかし郷里の人は多くが郷土を懐かしんで去ることができませんでした。荀彧は宗族だけを率いて韓馥を頼りに行きます。
 
荀彧が冀州に入った時、既に袁紹が韓馥の位を奪っていました。袁紹は荀彧を上賓の礼で待遇します。
ところが荀彧は、袁紹では最終的に大業を定めることはできないと判断し、曹操に雄略があると聞いたため、袁紹から去って曹操に従いました。
曹操は荀彧と話をして大いに悦び、「わしの子房だ(吾子房也)」と言って奮武司馬に任命しました。
子房は西漢高帝に仕えた張良の字です。『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は挙兵した時に奮武将軍になりました献帝初平元年・190年)。そこで荀彧を奮武司馬にしました。
 
本年、荀彧の同郷の人で潁川に留まった者の多くが李傕、郭汜等に殺されました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁紹が自ら出征して公孫瓉を防ぎました。両軍は界橋の南二十里の地で戦います。
 
公孫瓉は三万の兵を率いており、士気が盛んで勢いがありました(其鋒甚鋭)
袁紹は麴義に命じ、精兵八百強弩千張を統率して先登(先鋒)にしました。
後漢書袁紹劉表列伝上(巻七十四上)』は「令麴義領精兵八百強弩千張以為前登(麴義に命じ、精兵八百強弩千張を統率させて先登にした)」と書いており、『三国志魏書六董二袁劉伝』には「紹令麴義以八百兵為先登彊弩千張夾承之」とあります。
資治通鑑』は『三国志』とほぼ同じで、「領精兵八百先登強弩千張夾承之」としています。
「夾承」が何を意味するのかよくわかりません。「精兵八百の陣に千張の強弩が置かれた」のだと思いますが、精兵八百の左右に千人の弩兵を置いたのかもしれません。
 
公孫瓉は麴義の兵が少ないのを見て軽視し、騎兵を放って疾駆させました。
麴義の兵は楯の下に伏して動かず、公孫瓉の騎兵との距離が十数歩を切った時、一斉に発しました(弩を発したのだと思います。原文「未至十数歩一時同発」)讙呼(叫び声)が地を動かし、公孫瓉軍が大敗します。
公孫瓉が置いた冀州刺史厳綱(『資治通鑑』胡三省注によると、「劉綱」と書くこともあります)が斬られ、袁紹軍は)甲首(兵の首)千余級を獲ました。
 
麴義は更に追撃して界橋に到りました。
公孫瓉が兵を集めてから引き返して戦いましたが、また破れます。
麴義は公孫瓉の営に至って牙門を抜きました(牙門に建てられた旗を抜いたのだと思います。牙門は大将の旗が建てられた門で、この旗を「牙旗」といいます。または、「牙門を抜いた」というのは本陣を落としたという意味かもしれません。原文「抜其牙門」)
公孫瓉の残った兵衆は皆逃走しました。
 
以前、兗州刺史劉岱と袁紹、公孫瓉は連和しており、袁紹は妻子を劉岱がいる所に住ませていました。
公孫瓉も従事范方を派遣し、騎兵を指揮して劉岱を助けさせました。
公孫瓉が袁紹軍を撃破した時(前年、公孫瓉が袁紹を攻めて冀州諸城の多くが公孫瓉に帰順した時だと思います)、公孫瓉が劉岱に対して袁紹の妻子を送るように伝え、同時に范方にもこう命じました「もし劉岱が袁紹の家(家族)を送らなかったら騎(騎兵)を率いて還れ。わしが袁紹を平定してから劉岱に兵を加えよう。」
 
劉岱は官属と討議しましたが、連日決定できませんでした。
ちょうど東郡の人程昱に智謀があると聞いたため、程昱を招いて意見を求めました。
程昱はこう言いました「もしも袁紹という近援を棄てて公孫瓉という遠助を求めたら、これは越に人を借りて溺れた子を救うというものです(目の前で子が溺れているのに、わざわざ遠くの越人(越人は泳ぎが得意です)に助けを借りるのと同じです。原文「假人於越以救溺子之説也」)。公孫瓉は袁紹の敵ではありません。今は袁紹軍を破りましたが、最後は袁紹の擒になります(雖壊紹軍,然終為紹所禽)。」
劉岱はこれに従いました。
范方が騎兵を率いて帰りましたが、到着する前に公孫瓉が敗れました。
 
[] 『三国志魏書一武帝裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。
曹操が頓丘に駐軍しました。
資治通鑑』胡三省注によると、頓丘は東郡に属す県です。
 
この時、于毒等が東武陽を攻撃しました。
しかし曹操は兵を率いて西の山に入り、于毒等の本屯(拠点)を攻めました。
 
曹操は東郡太守で、東武陽は東郡の治所です。『資治通鑑』胡三省注によると、于毒等は当時、魏郡を侵しており、西山(西の山です。山名ではありません)に駐屯していました。
 
諸将が皆、兵を還して武陽を救うように請いましたが、曹操はこう言いました「孫臏は趙を救うために魏を攻め(東周顕王十六年353年参照)、耿弇は西安を走らせようとして臨菑を攻めた光武帝建武五年29年参照)。賊に我々が西行していると知らせてから、(賊が)還ったら武陽は自ずから(包囲が)解かれる(使賊聞我西而還武陽自解也)。還らなかったら我々がその本屯を敗ることができる。(いずれにしても)虜が武陽を攻略できないのは間違いない(虜不能抜武陽必矣)。」
曹操は西に向かいました。
果たしてそれを聞いた于毒は武陽を棄てて還りました。
 
そこで曹操は眭固を邀撃し、また、匈奴の於扶羅を内黄で撃ち、どちらも大破しました。
資治通鑑』胡三省注によると、内黄は魏郡(東郡の西に位置します)に属す県です。陳留に外黄があります。
 
於扶羅について『武帝紀』の裴松之注を元に書きます(既述した内容を含みます)
於夫羅(於扶羅)は南単于の子です。霊帝中平年間に漢朝廷が匈奴の兵を徴発した時、於夫羅が兵を率いて漢を助けましたが、本国(匈奴)で反乱が起きて南単于が殺されました。於夫羅はその衆を率いて中国に留まります。
ちょうど天下が撓乱(混乱)したため、於夫羅は西河の白波賊と合流し、太原や河内を破って諸郡を侵していました。
 
 
 
次回に続きます。