東漢時代331 献帝(十三) 界橋の戦い 192年(1)
壬申 192年
董卓が牛輔を派遣し、兵を率いて陝に駐屯させました。
かつて何顒が荀彧に会って常人ではないと思い、「王佐の才だ(王佐才也)」と言いました。
天下が乱れてから、荀彧が父老に言いました「潁川は四戦の地です(潁川は平地なので四面から攻撃を受ける土地だという意味です)。速やかに避難するべきです(宜亟避之)。」
しかし郷里の人は多くが郷土を懐かしんで去ることができませんでした。荀彧は宗族だけを率いて韓馥を頼りに行きます。
本年、荀彧の同郷の人で潁川に留まった者の多くが李傕、郭汜等に殺されました。
袁紹が自ら出征して公孫瓉を防ぎました。両軍は界橋の南二十里の地で戦います。
公孫瓉は三万の兵を率いており、士気が盛んで勢いがありました(其鋒甚鋭)。
『後漢書・袁紹劉表列伝上(巻七十四上)』は「令麴義領精兵八百強弩千張以為前登(麴義に命じ、精兵八百・強弩千張を統率させて先登にした)」と書いており、『三国志・魏書六・董二袁劉伝』には「紹令麴義以八百兵為先登彊弩千張夾承之」とあります。
「夾承」が何を意味するのかよくわかりません。「精兵八百の陣に千張の強弩が置かれた」のだと思いますが、精兵八百の左右に千人の弩兵を置いたのかもしれません。
公孫瓉は麴義の兵が少ないのを見て軽視し、騎兵を放って疾駆させました。
麴義の兵は楯の下に伏して動かず、公孫瓉の騎兵との距離が十数歩を切った時、一斉に発しました(弩を発したのだと思います。原文「未至十数歩一時同発」)。讙呼(叫び声)が地を動かし、公孫瓉軍が大敗します。
麴義は更に追撃して界橋に到りました。
公孫瓉が兵を集めてから引き返して戦いましたが、また破れます。
麴義は公孫瓉の営に至って牙門を抜きました(牙門に建てられた旗を抜いたのだと思います。牙門は大将の旗が建てられた門で、この旗を「牙旗」といいます。または、「牙門を抜いた」というのは本陣を落としたという意味かもしれません。原文「抜其牙門」)。
公孫瓉の残った兵衆は皆逃走しました。
公孫瓉も従事・范方を派遣し、騎兵を指揮して劉岱を助けさせました。
公孫瓉が袁紹軍を撃破した時(前年、公孫瓉が袁紹を攻めて冀州諸城の多くが公孫瓉に帰順した時だと思います)、公孫瓉が劉岱に対して袁紹の妻子を送るように伝え、同時に范方にもこう命じました「もし劉岱が袁紹の家(家族)を送らなかったら騎(騎兵)を率いて還れ。わしが袁紹を平定してから劉岱に兵を加えよう。」
劉岱は官属と討議しましたが、連日決定できませんでした。
ちょうど東郡の人・程昱に智謀があると聞いたため、程昱を招いて意見を求めました。
程昱はこう言いました「もしも袁紹という近援を棄てて公孫瓉という遠助を求めたら、これは越に人を借りて溺れた子を救うというものです(目の前で子が溺れているのに、わざわざ遠くの越人(越人は泳ぎが得意です)に助けを借りるのと同じです。原文「假人於越以救溺子之説也」)。公孫瓉は袁紹の敵ではありません。今は袁紹軍を破りましたが、最後は袁紹の擒になります(雖壊紹軍,然終為紹所禽)。」
劉岱はこれに従いました。
范方が騎兵を率いて帰りましたが、到着する前に公孫瓉が敗れました。
曹操が頓丘に駐軍しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、頓丘は東郡に属す県です。
この時、于毒等が東武陽を攻撃しました。
諸将が皆、兵を還して武陽を救うように請いましたが、曹操はこう言いました「孫臏は趙を救うために魏を攻め(東周顕王十六年・前353年参照)、耿弇は西安を走らせようとして臨菑を攻めた(光武帝建武五年・29年参照)。賊に我々が西行していると知らせてから、(賊が)還ったら武陽は自ずから(包囲が)解かれる(使賊聞我西而還武陽自解也)。還らなかったら我々がその本屯を敗ることができる。(いずれにしても)虜が武陽を攻略できないのは間違いない(虜不能抜武陽必矣)。」
曹操は西に向かいました。
果たしてそれを聞いた于毒は武陽を棄てて還りました。
於夫羅(於扶羅)は南単于の子です。霊帝中平年間に漢朝廷が匈奴の兵を徴発した時、於夫羅が兵を率いて漢を助けましたが、本国(匈奴)で反乱が起きて南単于が殺されました。於夫羅はその衆を率いて中国に留まります。
次回に続きます。