東漢時代347 献帝(二十九) 皇甫酈 195年(2)

今回は東漢献帝興平二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
李傕は校尉に塢門を監督させ、内外を隔絶しました。
献帝の)侍臣が皆、飢色を浮かべていたため、献帝が米五斗と牛骨五具を求めて左右の者に下賜しようとしました。
しかし李傕は「朝晡(朝と夕方)に飯を献上しているのに、米を使って何をするのだ(朝晡上飰,何用米為)」と言うと、腐って臭いがする牛骨を与えました。
献帝は大怒して詰問譴責しようとします。
しかし侍中楊琦が諫めて言いました「李傕は自ら悖逆(叛逆の罪)を犯していることを知っており、車駕を転じて(移して)池陽黄白城(『資治通鑑』胡三省注によると、池陽県は馮翊に属します。黄白城はかつて曲梁宮といいました)行幸させようと欲しています。臣は陛下がこれを忍ぶことを願います。」
献帝は諫言に従いました。
 
司徒趙温が李傕に書を送りました「公は以前、王城を屠陷(攻略虐殺)し、大臣を殺戮しました。今は(郭汜と)睚眥の隙(目を見開いて怒る程度の些細な対立)を争って千鈞の讎(重大な仇)と成しており、朝廷が和解させようと欲しても詔命が行われず、しかもまた乗輿を黄白城に転じようと欲しています。これは誠に老夫には理解できないことです(所不解也)。『易』においては、一回目は『過』といい、二回目は『渉』といい、三回目にも改めなかったら頂まで滅ぼして凶となります(原文「一為過再為渉,三而弗改滅其頂,凶」。『易大過』の「過渉滅頂,凶」が元になっています。本来は「川を強引に渡り、頭まで水没して凶」という意味ですが、趙温は「過」と「渉」を「一回目と二回目の過失」という意味に解釈して引用しています)。双方共に早く和解するべきです(不如早共和解)。」
李傕は激怒して趙温を殺そうとしました。
しかし弟の李応が諫めたため、数日経ってから考えを改めました。
資治通鑑』胡三省注によると、李応はかつて趙温の掾でした。
 
李傕は巫覡(巫は女、覡は男です)による厭勝の術(禍を抑える方術)を信じ、常に三牲(豚牛羊)を使って省門(宮門)の外で董卓を祭っていました。
李傕は献帝に対して常に「明陛下」、または「明帝」と言い、献帝に郭汜の無状(善行がない様子。悪行)を語りました。献帝が李傕の意に従って応答していたため、喜んだ李傕は天子の歓心をよく得られていると信じました。
 
閏月己卯(中華書局『白話資治通鑑』によると、「閏五月初九日」です)献帝が謁者僕射皇甫酈(『資治通鑑』胡三省注によると、「皇甫麗」とも書きます)を派遣し、李傕と郭汜を和解させようとしました。
 
皇甫酈はまず郭汜を訪ねました。
郭汜は献帝の命に従います。
皇甫酈は次に李傕を訪ねましたが、李傕は受け入れようとせず、こう言いました「郭多(『資治通鑑』胡三省注によると、郭汜の一名を「郭多」といいます)は盗馬の虜(馬泥棒)に過ぎない。どうしてわしと同等になろうと欲するのだ(何敢欲與吾等邪)(わしは)必ずこれを誅殺する(必誅之)。君が観るに、我が方略と士衆は郭多を処理するのに足りていないか(足辦郭多否邪)?郭多はまた公卿を劫質した(脅迫して人質にした)。彼の行為がこのようなのに、君がもし郭多を利そうと欲するのなら、李傕に膽がある事を自ら知ることになるだろう(この部分は『三国志魏書六董二袁劉伝』の裴松之注を元にしました。原文は「而君苟欲利郭多,李傕有膽自知之」です。『資治通鑑』では「而君苟欲左右之邪」ですが、「苟」の意味が分かりません。「左右之」は「郭汜を助ける」という意味です)。」
皇甫酈が言いました「近くにおいては、董公の強は将軍も知っていたことです。しかし呂布が恩を受けながら逆にこれを図り、斯須の間(わずかな間)に体と首が別れました(身首異処)。これは勇があっても謀がなかったからです。今、将軍の身は上将になり、国の寵栄を受けていますが(荷国寵栄)、郭汜が公卿を質(人質)にしているのに対して、将軍は主を脅かしています(脅迫しています)。罪はどちらが軽く、どちらが重いでしょう(誰軽重乎)。張済と郭汜には謀があります。(李傕に仕える)楊奉は白波賊の帥に過ぎませんが、それでも将軍が為していることが是ではない(正しくない。原文「所爲非是」)と知っています。将軍は楊奉を寵(寵信)していますが、彼はやはり(将軍のために)尽力しようとはしません(ここも『三国志魏書六董二袁劉伝』の注を元にしました。原文は「猶不肯尽力也」です。『資治通鑑』では「猶不為用也(やはり用いることはできない)」です)。」
李傕は叱咤して皇甫酈を追い出しました(呵之令出)
 
退出した皇甫酈は省門(宮門)を訪ねてこう報告しました「李傕は詔を奉じようとせず、辞語は不順でした(恭順ではありませんでした)。」
献帝は李傕に聞かれることを恐れて、急いで皇甫酈を去らせました。
 
李傕が虎賁王昌を派遣して皇甫酈を呼び出し、殺そうとしましたが、王昌は皇甫酈の忠直を知っていたため、皇甫酈を去らせてから還って李傕に「追撃しましたが及びませんでした(追之不及)」と報告しました。
 
辛巳(十一日)、車騎将軍李傕を大司馬に任命し、位を三公の右(上)にしました。
 
後漢書孝献帝紀』では「五月壬午」に李傕が自ら大司馬になっています。
資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』に従って「閏月(閏五月)辛巳」としています。
 
 
 
次回に続きます。