東漢時代348 献帝(三十) 呂布敗退 195年(3)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝裴松之注含む)』と資治通鑑』からです。
呂布の将薛蘭と李封が鉅野に駐屯しました。
曹操がこれを攻めたため、呂布が薛蘭等を救いに行きましたが、薛蘭等が敗れて呂布は逃走しました。
曹操が薛蘭等を斬ります。
 
曹操は乗氏(地名)に駐軍しました。
陶謙が既に死んだため、曹操は先に徐州を取ってから戻って呂布を平定しようとしました。
しかし荀彧が反対して言いました「昔、高祖は関中を保ち、光武は河内を拠点にしました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西漢高祖が天下を取った時は蕭何に関中を守らせました。東漢光武帝が河北を経営した時は寇恂に河内を守らせました。二人ともこれを王業の根本にしました)。皆、根を深くして本を固めることで天下を制し(深根固本以制天下)、進めば敵に勝つに足り、退けば堅守するに足りたので(進足以勝敵退足以堅守)、たとえ困敗があっても、最後は大業を完成できたのです(終済大業)。将軍は元々兗州を首事(開始)とし、山東の難を平らげました曹操は兗州牧になってから兵を進めて黄巾等を撃ちました。『資治通鑑』胡三省注は「当時、山東はまだ完全に平定されていないので、荀彧は誇張している」と解説しています)。百姓で帰心悦服しない者はいません。そもそも河済は天下の要地です(『資治通鑑』胡三省注によると、河済は兗州の領域を指します。東南は済水に接し、西北は黄河に接しています)。今、(兗州は)残壊(破壊)されたとはいえ、なお容易に自分を保つことができ(猶易以自保)、しかもここは将軍の関中河内でもあります。先に定めないわけにはいきません(不可以不先定)
今回、既に李封と薛蘭を破りました。もし兵を分けて東に向かい、陳宮を撃ったら、陳宮は必ず西を顧みることができなくなります(必不敢西顧)。その間に熟麦を収穫し、食糧を節約して穀物を蓄えれば(約食畜穀)、一挙して呂布を破ることができます。呂布を破ったら、南の揚州(『資治通鑑』胡三省注によると劉繇を指します)と結び、共に袁術を討って淮泗に臨むことができます。
もし呂布を捨てて東に向かおうとしたら、留める兵を多くしたら用いる兵が不足し、留める兵を少なくしたら民が皆、城を保たなければならないので樵采(柴刈り)ができなくなり、呂布が虚に乗じて寇暴(侵犯略奪)し、民心がますます危うくなり、ただ鄄城(『資治通鑑』は「甄城」としていますが誤りです)、范、衛を全うできるだけで(『資治通鑑』胡三省注によると、衛は濮陽です)、その外は自分のものではなくなります(其余非己之有)。これは兗州が無くなるということです(是無兗州也)。もし徐州を平定できなかったら、将軍はどこに帰るのでしょう(当安所帰乎)
しかも、陶謙は死にましたが、徐州はまだ容易に亡ぼせません(未易亡也)。彼等は往年の敗(敗戦。失敗)に懲りているので、懼れて結親(団結。親しく交わること)し、互いに表裏(一体)になります。今、東方は皆、既に麦を収穫したので、必ず堅壁清野(城壁を固めて郊外に何も残さないこと)して将軍を待ちます。これを攻めても抜けず、奪おうとしても獲る物がなかったら(攻之不抜略之無獲)、十日も出ることなく、十万の衆が戦わずに自ら先に困窮します。しかも以前、徐州を討った時、威罰を実行したので(殺戮を行ったので)、その子弟は父兄の恥を念じており、人々は必ず自ら守りを為して降心がありません。よって、たとえこれを破ることができたとしても、やはり領有はできません(就能破之尚不可有也)。物事には元から『これを棄ててあれを取る(棄此取彼)』という選択があるものです(『三国志魏書十荀彧荀攸賈詡伝』を元にしました。原文は「夫事固有棄此取彼者」です。『資治通鑑』は「夫事故有棄此取彼者」ですが、「故」は恐らく「固」の誤りです)。大によって小に換えるのは可です(大を選んで小を棄てるのは正しい選択です。原文「以大易小可也」)。安によって危に換えるのは可です(安全を選んで危険を棄てるのは正しい選択です。原文「以安易危可也」)。一時の形勢を量って、根本が安定しないことを患いる必要がないのなら可です(その時の形勢を考慮して、根本に危険が無いのなら正しい選択です。原文「権一時之勢,不患本之不固可也」)。今はこの三者に利が無いので、将軍が熟慮することを願います(惟将軍熟慮之)。」
曹操は東征を中止しました。
 
呂布陳宮と共に一万余人を率いて再び東緡から来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、東緡は山陽郡に属す県で、春秋時代の緡邑です。
 
曹操の兵は全て麦の収穫に出ていたため、残った者は千人にも及ばず(原文「不能千人」。『三国志集解』によると「能」は「及」です)、屯営も堅固ではありませんでした。
曹操は婦人にも陴(城壁の低い部分)を守らせ、全ての兵を動員して呂布軍を防がせます。
 
屯営の西には大隄(堤防)があり、その南は樹木が茂って幽深としていました。
呂布は埋伏を疑い、(左右の者に)曹操は詐術が多い。伏兵の中に入ってはならない曹操多譎勿入伏中)」と言いました。
呂布は軍を率いて南十余里の場所に駐屯します。
 
翌日、呂布が再び来ました。
曹操は隄の裏に兵を隠し、半分の兵を隄の外に出します。
呂布が更に進軍すると、曹操は軽兵に挑戦させました。
両軍がぶつかってから(既合)、伏兵が全て隄に登り、歩騎が並進(『資治通鑑』では「並追」ですが、『武帝紀』裴松之注では「並進」です。『資治通鑑』の誤りです)して呂布軍を大破します。
曹操軍は鼓車を獲得し、呂布を追撃して営に至ってから引き返しました。
 
呂布が夜の間に逃走したため、曹操は再び定陶を攻めて攻略し、兵を分けて諸県を平定させました。
 
呂布は東に奔って劉備を頼りました。
張邈は呂布に従い、弟の張超に家属を率いて雍丘を守らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、雍丘は陳留郡に属す県で、かつての杞国です。
 
呂布が初めて劉備に会った時、非常に尊敬してこう言いました「私と卿は同じ辺地の人だ(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。呂布は五原の人、劉備は涿郡の人で、どちらも辺境の地です)。布(私)は関東が兵を起こして董卓誅殺を欲したのを見た。しかし布(私)董卓を殺して東に出ると、関東諸将には布(私)を安んじる者がなく、皆、布(私)を殺そうと欲した。」
呂布劉備を帳内に招いて婦人の床の上に坐らせ(坐婦牀上)、婦人に命じて劉備を拝させ(令婦向拝)、酒宴を開いて飲食し(酌酒飲食)劉備を弟と呼びました(名備為弟)
劉備呂布の語言に常が無いのを見て(原文「語言無常」。言葉に一貫性が無い、または道理が無いという意味だと思います)、外見は同調しましたが(外然之)、内心では悦びませんでした。
 
 
 
次回に続きます。