東漢時代355 献帝(三十七) 公孫瓉 195年(10)

今回で東漢献帝興平二年が終わります。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
公孫瓉は劉虞を殺してから幽州の地を全て有し、志気がますます盛んになりました。自分の才力に頼って百姓を慈しまず、過(人の過失)は記憶しても善(善行、長所)は忘れ、睚眦(些細な怒り)にも必ず報います。
衣冠の善士(優れた世族、士人)で名が公孫瓉の右(上)にある者は必ず法を使って害し、才能があって優秀な者は必ず抑困(抑圧)して窮苦の地に居させるようにしました。
ある人がその理由を問うと、公孫瓉はこう言いました「衣冠(士人)は皆、自分がその職分(能力)によって尊貴になるのは当然だと思っており、人の恵みに感謝することがない(衣冠皆自以職分当貴,不謝人恵)。」
公孫瓉が寵愛したのは多くが商販、庸児(庸人)の類で、彼等と兄弟になり、あるいは婚姻を結び、いたる所で侵暴(侵犯暴虐)したため、百姓がこれを怨みました。
 
劉虞の従事漁陽の人鮮于輔(『資治通鑑』胡三省注によると、鮮于氏は子姓から生まれました。西周武王が箕子を朝鮮に封じ、その支子(嫡長子以外の子)仲が于を食邑にしたため、鮮于を氏にしました)等が州兵を合わせて統率し、共に仇に報いようと欲しました。燕国の人閻柔には以前から恩信(恩徳信義)があったため、鮮于輔等が閻柔を烏桓司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、護烏桓校尉には二人の司馬がおり、秩六百石でした)に推します。
閻柔は胡漢数万人を誘って招き、公孫瓉が置いた漁陽太守鄒丹と潞北(『資治通鑑』胡三省注によると、潞県は漁陽郡に属します)で戦って鄒丹等四千余級を斬りました。
 
烏桓峭王も種人(族人)および鮮卑七千余騎を率い、鮮于輔に従って南下しました。劉虞の子劉和と袁紹が派遣した将麴義を迎え、合計十万の兵で共に公孫瓉を攻撃し、鮑丘(『資治通鑑』胡三省注によると、鮑丘(水)は川の名です。潞水ともいいます)で破って二万余級を斬首します。
この後、代郡、広陽、上谷、右北平がそれぞれ公孫瓉に任命された長吏を殺し、鮮于輔や劉和と兵を合わせました。
公孫瓉軍は連戦連敗します。
 
これ以前にある童謠が流行りました「燕は南垂(南界)、趙は北際(北界)。中央は合わず大きさは礪(砥石)のよう。ただこの中だけが世を避けられる(燕南垂趙北際,中央不合大如礪,唯有此中可避世)。」
 
公孫瓉は易(地名)の地がこれに当たると考え、鎮(拠点)を易に遷しました。
資治通鑑』胡三省注によると、易県は涿郡、または河間に属しました。易京(公孫瓉の拠点。下述します)は易城の西四五里の地に造られ、易水がその南を流れます。
 
公孫瓉は十重の塹(堀)を造り、塹の内側に京(土丘)を築きました。京の高さは全て五六丈あり、更にその上に楼を築きます。
中塹(中心の堀)に造った京だけは高さが十丈もあり、公孫瓉自らここに住みました。鉄で門を造り、左右の者を去らせ、七歳以上の男は門に入れないようにして姫妾だけと生活します。
文簿書記(文書や報告書)は全て縄を使って上に引き上げられました。
また、婦人に大声を出す練習をさせ、数百歩離れていても声が聞こえるようにして教令(命令)を伝達しました。
公孫瓉は賓客を疎遠にしたため、親信する者がいなくなり、謀臣や猛将がしだいに乖離していきました。
 
この後、公孫瓉はほとんど攻戦しなくなりました。
ある人が理由を問うと、公孫瓉はこう言いました「わしは昔、塞表(塞外)で畔胡(謀反した胡人)を駆逐し、孟津で黄巾を掃討した。まさにその時は、一度指揮を出すだけで天下を平定できると思っていた(謂天下指麾可定)。しかし今日に至っても兵革(戦争)はまだ始まったばかりだ。これを観ると、(天下の情勢は)わしが決することではない(非我所決)。兵を休めて農耕に尽力し、凶年(不作)から救った方がましだ。兵法においては、百楼は攻めないものだ。今、我が諸営の楼(櫓)は数十重もあり、積穀(貯蓄した穀物は三百万斛に上る。この穀物を食べ尽くすだけの時間があれば、天下の事(情勢の変化)を待つのに足りるはずだ。」
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
南匈奴単于於扶羅(持至尸逐侯単于が死に、弟の呼廚泉が立って平陽に住みました。
資治通鑑』胡三省注によると、平陽県は河東郡に属します。
 
 
 
次回に続きます。