東漢時代358 献帝(四十) 遷都 196年(3)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時、曹操は許に居り、天子を迎え入れようと謀りました。
資治通鑑』胡三省注によると、許県は潁川郡に属します。献帝が遷都してから許昌に改名されます。
 
諸将のある者は天子を迎え入れることに躊躇し、多くの人がこう考えました「山東がまだ定まっておらず、また、韓暹、楊奉は功を負って恣睢(放縦横暴)なので、すぐには制御できません(負功恣睢未可卒制)。」
しかし荀彧がこう言いました「昔、晋文公が周襄王を納れたので、諸侯が景従(影のように従うこと)し、漢高祖が義帝のために縞素(喪服)を着たので(喪に服したので。原文「為義帝縞素」)天下が帰心しました。天子が蒙塵(流亡)してから、将軍は最初に義兵を提唱しました(首唱義兵)。ただ、山東が擾乱(動乱。混乱)していたので、遠くに赴く余裕がなかったのです(未遑遠赴)。今、鑾駕(天子の車)が旋軫したので(「軫」は車の後ろの横木です。「旋軫」は車を返すことです)、東京は榛蕪(草木が茂って荒廃した様子)となっていますが、義士が存本の思(根本を存続させようという思い)を持ち、兆民(万民)が感旧の哀(往事を懐かしむ悲哀の気持ち)を抱いています。誠にこの時に乗じ、主上を奉じて人望に従うのは大順です(奉主上以従人望大順也)。至公(最も公正な態度)を持って天下を服すのは大略です(秉至公以服天下大略也)。弘義を抱えて英俊を招くのは大徳です(扶弘義以致英俊大徳也)(大順、大略、大徳があれば)四方に逆節(の者)がいたとしても、何ができるでしょう(其何能為)。韓暹、楊奉がどうして憂慮するに足りるでしょうか(安足恤哉)。もしもすぐに決定しなかったら、豪傑に生心させてしまい(他の豪傑に天子を迎え入れるという考えを抱かせてしまい)、後になって考慮しても及ばなくなります(手遅れになります)。」
 
資治通鑑』は荀彧の言葉しか載せていませんが、『三国志武帝紀』では荀彧と程昱が献帝を迎え入れるように曹操に勧めています。
 
曹操は揚武中郎将曹洪に兵を率いさせ、西に向かって天子を迎えさせました。
しかし衛将軍・董承と袁術の将・萇奴等が険阻な地形によってこれを拒んだため、曹洪は進めなくなりました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代に中郎将がおり、東漢時代になって三署、虎賁、羽林中郎将に分けました。献帝建安年間以後は群雄が争ってそれぞれ官職を設け、中郎将にも「揚武」等の名号がつけられるようになりました。
 
三国志武帝紀』は曹洪を西に派遣したことを正月に書いています。しかし『三国志魏書十荀彧荀攸賈詡伝』では献帝が雒陽に入ってから荀彧が曹操に天子を迎え入れるように勧めています。『資治通鑑』は『荀彧荀攸賈詡伝』に従っています(胡三省注参照)
 
楊奉は兵馬が最も強いのに党援が少なかったため、議郎董昭が曹操の名義で書を作って楊奉に送りました「私(曹操)と将軍は(天下に)名が聞こえ、義を慕っており、赤心(忠心)を推進してきました(聞名慕義便推赤心)。今、将軍は万乗(天子)を艱難から抜いて(助け出して)旧都に還らせました。翼佐(補佐)の功は世を超えており、並ぶ者がいません(超世無疇)。何と素晴らしいことでしょうか(何其休哉)。しかし今は群凶が華夏を乱し(群凶猾夏)、四海がまだ安寧になっていません。神器(天子)は至重であり、事は輔佐する大臣にかかっています(事在維輔)。必ず賢才を集めて王軌(王の道。王朝の秩序)を清めるべきであり、誠に一人だけで建てられるものではありません。心腹と四支(四肢)は実に恃頼(依存)し合っており、一物でも備わらなかったら闕(欠。欠陥)ができます。将軍は内主となるべきです。私は外援になります。今、私には糧があり、将軍には兵がいます。有と無が互いに通じれば、相済(助けあうこと)するに足ります。死生契闊(勤苦)を共にしましょう(相與共之)。」
 
書を得た楊奉は喜悦して諸将軍に言いました「兗州諸軍曹操軍)は近く許におり、兵も糧もある。国家(朝廷。皇帝)は依仰するべきだ曹操を頼るべきだ)。」
 
諸将軍は共に上表して曹操を鎮東将軍にし、父の爵位である費亭侯を継がせました(これは『資治通鑑』の記述です。『三国志武帝紀』は六月に書いています)
資治通鑑』胡三省注によると、曹操の祖父曹騰が費亭侯に封じられ、養子の曹嵩が爵位を継ぎました。今回、曹操が曹嵩の跡を継ぎました。
 
韓暹が功を誇って横暴だったため、董承がこれを患いて秘かに曹操を招きました。
曹操が兵を率いて雒陽に向かいます。
 
曹操は京都に到着して守衛してから、韓暹や張楊の罪を上奏しました。
韓暹は誅殺を懼れ、単騎で楊奉に奔ります。
献帝は韓暹や張楊に車駕を輔佐した功があったため、詔を発して一切を不問としました。
 
辛亥(十八日)献帝曹操節鉞(符節と斧鉞)を与え、司隸校尉尚書事にしました。
後漢書孝献帝紀』は「鎮東将軍・曹操が自ら司隷校尉を領し、尚書の政務を主管した(自領司隷校尉尚書事)」と書いています。
 
曹操は賞罰を明確にするため、罪を犯した尚書馮碩、侍中臺崇(「壺崇」とも書きます。『孝献帝紀』の注によると、金天氏(少昊)の裔孫(子孫)を臺駘といい、その後代が臺を氏にしました)等を誅殺して、功績がある衛将軍董承、輔国将軍・伏完等十三人を列侯に封じました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、誅殺されたのは尚書・馮碩と議郎侯祈、侍中・壺(臺崇)の三人です。
封侯されたのは衛将軍董承、輔国将軍伏完、侍中(□は文字が不明です)、种輔(种輯)尚書僕射鍾繇尚書郭溥、御史中丞董芬、彭城相劉艾、馮翊韓斌、東郡太守楊衆、議郎羅卲、伏徳、趙蕤の十三人です。
 
また、射声校尉沮儁献帝興平二年195年参照)に弘農太守の官位を追贈して死節を敬いました。
 
当時は雒陽が破壊されていたため、董昭等が曹操に許への遷都を勧めました。
以下、『資治通鑑』から曹操と董昭の会話です。
曹操が董昭を招いて並んで座り、「今、孤(私)はここに来たが、どのような計を施すべきだ?」と問いました。
董昭が言いました「将軍は義兵を興して暴乱を誅し、(京師に)入って天子に朝見し、王室を輔翼(補佐)しました。これは五霸の功です。但し、下にいる諸将は(此下諸将)、人が異なれば意見も異なるので、必ずしも服従するとは限りません(人殊意異未必服従。今、ここに留まって匡弼(匡正補佐)しても、事勢が不便なので、駕(皇帝の車)を移して許に行幸させるしかありません(惟有移駕幸許耳)。もちろん、朝廷が播越(流亡)して旧京に還ったばかりなので、遠近が跂望(踵を上げて遠くを望むこと。強く希望すること)して一朝に安定を得ることを望んでいます(冀一朝獲安)。今また駕を移したら、衆心を満足させることはできないでしょう(不厭衆心)。しかし非常の事を行う者だけが非常の功を立てられるのです(夫行非常之事乃有非常之功)。将軍が利の多い計を考慮することを願います(願将軍算其多者)。」
曹操が言いました「これ(遷都)は孤(私)の本志(本意)だ。しかし楊奉が近く梁におり、その兵は精鋭だと聞く。孤の累(害)になるのではないか?」
董昭が言いました「楊奉は党援が少ないので、その心は(曹操)頼っています(原文「心相憑結」。「憑結」は頼って関係を結ぶことです)。鎮東費亭の事曹操を鎮東将軍に任命して費亭侯を継がせたこと)も全て楊奉が定めました。すぐに使者を派遣し、厚礼を贈って謝意を伝えることで(厚遺答謝)その意を安んじるべきです。そこで『京都には糧がないので、車駕を暫く魯陽に行幸させたい。魯陽は許に近いので、転運(輸送)が若干容易になり、縣乏(欠乏)の憂が無くなる』と説けば、楊奉の為人は勇猛ですが知慮が少ないので(勇而寡慮)、必ず疑われることはありません。双方の使者が往来している時間があれば、計を定めるのに足りるので(比使往来足以定計)楊奉がどうして累(害)に為るでしょう(奉何能為累)。」
曹操は「善(よし)」と言ってすぐに使者を派遣し、楊奉を訪ねさせました。
 
庚申(二十七日)、車駕が轘轅(関)を出て東に向かいました。許に都が遷されます。
己巳(中華書局『白話資治通鑑』は「己巳」を恐らく誤りとしています)献帝曹操の営を行幸し、大将軍に任命して武平侯に封じました。
 
以前、献帝が西に遷ってから、朝廷が日に日に混乱しましたが、許に遷都してから、宗廟社稷の制度が始めて建てられました(許に宗廟社稷が建てられました)
 
以下、『三国志武帝紀』の注からです。
献帝が曹陽で敗れた時、黄河を船で東下しようとしましたが、侍中太史令王立がこう言いました「昨年の春から太白(金星)が牛斗(牛宿と斗宿)で鎮星(土星)を犯し、天津を過ぎました。熒惑(火星)もまた逆行して北河を守っており、犯すことはできません(原文「太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也」。黄河を渡ってはならないという意味のようですが、詳しくは分かりません)。」
王立の進言によって献帝は北に渡河せず、軹関から東に出ました(軹関の場所が分かりません。また、実際には曹陽で敗れた献帝黄河を北に渡っています)
王立は宗正劉艾にこう言いました「以前、太白が天関を守り、熒惑と会いました。金と火が交わって会うのは革命の象です。漢祚(漢の帝位)が終わるのでしょう。晋と魏に必ず興る者がいます。」
王立は後にもしばしば献帝にこう言いました「天命には去就(取捨。変動)があり、五行は常に盛んなわけではありません。火に代わる者は土です。漢を継承するのは魏です。天下を安んじることができる者は曹姓です。ただ曹氏に委任すればいいだけです。」
これを聞いた曹操は人を送って王立にこう伝えました「公が朝廷に対して忠であるのは知っている。しかし天道とは深遠なので、多言しないことを望む(幸勿多言)。」
 
 
 
次回に続きます。