東漢時代361 献帝(四十三) 呂布 196年(6)
呂布はこれに同意します。
しかし呂布はこう言いました「それは違う(不然)。袁術がもしも劉備を破ったら、北は泰山諸将と連なり(連合し。『資治通鑑』胡三省注によると、泰山諸将は臧霸、孫観、呉敦、尹礼等を指します)、わしは袁術の包囲の中にいることになってしまう。救わないわけにはいかない。」
呂布は歩騎千余を率い、駆けて救援に赴きました。
朱霊等は呂布が来たと聞いて、皆、兵を収めて戦いを止めました。
呂布が朱霊等に言いました「玄徳(劉備の字)は布(私)の弟だ。諸君が原因で困苦しているので救いに来た。布(私)の性(性格)は合闘(人と人を闘わせること)を喜ばず、解闘(人と人の闘いを解決させること)を喜ぶのだ(不喜合闘,喜解闘耳)。」
呂布は軍候(軍官)に命じて戟を営門に立てさせ、弓を引いてから顧みてこう言いました「諸君は布(私)が戟の小支(戟の横に出た部分)を射るのを観よ。中ったらそれぞれ兵を解くべきだ。中らなかったら留まって決闘すればいい。」
呂布が一矢を放つと、正に戟の支に命中しました。
朱霊等は皆驚き、「将軍には天威(天賦の神威)があります(将軍天威也)!」と言いました。
翌日、再び歓会してから、それぞれ兵を退きました。
劉備が兵を集めて一万余人を得ました。
曹操がこれを郭嘉に問うと、郭嘉はこう言いました「確かにその通りです(有是)。しかし公は義兵を起こして百姓のために暴を除き、誠心誠意、信義によって俊傑を招いてもまだ彼等が至らないことを懼れています(推誠杖信以招俊傑猶懼其未也)。今、劉備には英雄の名があります。困窮によって我々に帰したのにこれを害したら、賢才を害したという名(悪名)を為すことになってしまいます(以窮帰己而害之是以害賢為名也)。そのようになったら(如此)、智士は自ら疑いを抱き、心を変えて他の主を選ぶでしょう(回心択主)。公は誰と天下を定めるのでしょうか。一人の患を除くことで四海を失望させるのは(除一人之患以沮四海之望)、安危の機(要)なので、考慮しないわけにはいきません(不可不察)。」
曹操は笑って「君はこれを得た(君は道理を得ている。良く理解している。原文「君得之矣」)」と言うと、劉備の兵を増やして糧食を与え、東の沛(小沛)に至って散兵を集めさせ、呂布を図りました(呂布に対抗しました)。
郭嘉が曹操に言いました「劉備には雄才があり、甚だ衆心を得ています。張飛や関羽は皆、万人に匹敵し、彼のために命を捨てています(為之死用)。嘉(私)がこれを観るに、劉備は最後には人の下にならず、その謀は測ることができません。古人にこういう言葉があります『一日敵を放ったら数世の患になる(一日縦敵数世之患)』。早く手を打つべきです(宜早為之所)。」
後に曹操が劉備を派遣して袁術を邀撃させた時(後述します)、郭嘉と程昱が共に車に乗って駆けつけ、曹操を諫めて「劉備を放ったら変を為します(放備変作矣)」と言いましたが、劉備はすでに去っており、兵を挙げて叛しました。曹操は郭嘉の言を用いなかったことを後悔しました。
しかし曹操はこう答えました「今は英雄を収めている時だ。一人を殺して天下の心を失ってはならない。」
以下、『資治通鑑』からです。
袁渙は顔色を変えず、笑って応じました「渙(私)が聞くに、徳だけが人を辱めることができます。罵ることで人を辱めるとは聞いたことがありません(渙聞唯徳可以辱人不聞以罵)。もしも彼が元から君子なら、将軍の言を恥とすることはありません。彼がもし小人なら、将軍の意を繰り返すので(呂布を真似て劉備も呂布を罵るので)、辱はこちらにあり、彼にあるのではありません(使彼固君子邪,且不恥将軍之言。彼誠小人邪,将復将軍之意,則辱在此不在於彼。)。そもそも、渙(私)が他日(過日)、劉将軍に仕えていたのは、今日将軍に仕えるているのと同じようでしたが、もしも一旦にしてここを去り、また将軍を罵ったら、それが許されますか(且渙他日之事劉将軍,猶今日之事将軍也,如一旦去此,復罵将軍,可乎)?」
呂布は慚愧して止めました。
次回に続きます。