東漢時代361 献帝(四十三) 呂布 196年(6)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
袁術呂布が自分の害になることを畏れ、自分の子のために求婚しました袁術の息子と呂布の娘の婚姻を求めました)
呂布はこれに同意します。
 
呂布との同盟が成立した袁術は将紀霊等を派遣し、歩騎三万を率いて劉備を攻撃させました。
劉備呂布に救援を求めます。
 
諸将が呂布に言いました「将軍は常に劉備を殺そうと欲していました。今なら袁術の手を借りることができます。」
しかし呂布はこう言いました「それは違う(不然)袁術がもしも劉備を破ったら、北は泰山諸将と連なり(連合し。『資治通鑑』胡三省注によると、泰山諸将は臧霸、孫観、呉敦、尹礼等を指します)、わしは袁術の包囲の中にいることになってしまう。救わないわけにはいかない。」
呂布は歩騎千余を率い、駆けて救援に赴きました。
 
朱霊等は呂布が来たと聞いて、皆、兵を収めて戦いを止めました。
呂布は沛城西南に駐屯し、鈴下(門卒、侍衛、僕役)を派遣して朱霊等を招きます。
朱霊等も呂布を招いたため、呂布は朱霊等の営を訪ね、劉備と共に飲食しました呂布劉備を連れて朱霊等の営を訪ね、宴に参加しました)
呂布が朱霊等に言いました「玄徳(劉備の字)は布(私)の弟だ。諸君が原因で困苦しているので救いに来た。布()の性(性格)は合闘(人と人を闘わせること)を喜ばず、解闘(人と人の闘いを解決させること)を喜ぶのだ(不喜合闘,喜解闘耳)。」
呂布は軍候(軍官)に命じて戟を営門に立てさせ、弓を引いてから顧みてこう言いました「諸君は布(私)が戟の小支(戟の横に出た部分)を射るのを観よ。中ったらそれぞれ兵を解くべきだ。中らなかったら留まって決闘すればいい。」
呂布が一矢を放つと、正に戟の支に命中しました。
朱霊等は皆驚き、「将軍には天威(天賦の神威)があります(将軍天威也)!」と言いました。
 
翌日、再び歓会してから、それぞれ兵を退きました。
 
[二十] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。
劉備が兵を集めて一万余人を得ました。
呂布はこれを嫌い、自ら兵を出して劉備を攻めます。
劉備は敗走して曹操に帰順しました。
曹操劉備を厚遇して豫州牧にしました。
三国志武帝紀』は「呂布劉備を襲って下邳を取った。劉備曹操に)来奔した」としていますが、下邳は呂布の拠点で劉備は小沛に居たはずなので、恐らく「小沛」の誤りです。
 
ある人が曹操に言いました「劉備には英雄の志があるので、今、早く図らなかったら、後に必ず患になります。」
曹操がこれを郭嘉に問うと、郭嘉はこう言いました「確かにその通りです(有是)。しかし公は義兵を起こして百姓のために暴を除き、誠心誠意、信義によって俊傑を招いてもまだ彼等が至らないことを懼れています(推誠杖信以招俊傑猶懼其未也)。今、劉備には英雄の名があります。困窮によって我々に帰したのにこれを害したら、賢才を害したという名(悪名)を為すことになってしまいます(以窮帰己而害之是以害賢為名也)。そのようになったら(如此)、智士は自ら疑いを抱き、心を変えて他の主を選ぶでしょう(回心択主)。公は誰と天下を定めるのでしょうか。一人の患を除くことで四海を失望させるのは(除一人之患以沮四海之望)、安危の機(要)なので、考慮しないわけにはいきません(不可不察)。」
曹操は笑って「君はこれを得た(君は道理を得ている。良く理解している。原文「君得之矣」)」と言うと、劉備の兵を増やして糧食を与え、東の沛(小沛)に至って散兵を集めさせ、呂布を図りました呂布に対抗しました)
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』裴松之注が引用している『魏書』が元になっています。『程郭董劉蒋劉伝』裴松之注にはもう一つ、全く別の説も書かれています。
郭嘉曹操に言いました「劉備には雄才があり、甚だ衆心を得ています。張飛関羽は皆、万人に匹敵し、彼のために命を捨てています(為之死用)。嘉()がこれを観るに、劉備は最後には人の下にならず、その謀は測ることができません。古人にこういう言葉があります『一日敵を放ったら数世の患になる(一日縦敵数世之患)』。早く手を打つべきです(宜早為之所)。」
当時、曹操は天子を奉じて天下に号令し、英雄を招懐(懐柔)して大信を明らかにしていたため、郭嘉の謀に従うことができませんでした。
後に曹操劉備を派遣して袁術を邀撃させた時(後述します)郭嘉と程昱が共に車に乗って駆けつけ、曹操を諫めて「劉備を放ったら変を為します(放備変作矣)」と言いましたが、劉備はすでに去っており、兵を挙げて叛しました。曹操郭嘉の言を用いなかったことを後悔しました。
 
また、『三国志魏書一武帝紀』では程昱が曹操にこう言っています「劉備を観るに、雄才があってしかも甚だ衆心を得ているので、最後は人の下になりません。早くこれを図った方がいいでしょう。」
しかし曹操はこう答えました「今は英雄を収めている時だ。一人を殺して天下の心を失ってはならない。」
 
以下、『資治通鑑』からです。
以前、劉備豫州に居た時、陳郡の人袁渙を挙げて茂才にしました(「茂才」は西漢時代の「秀才」です。東漢光武帝の諱秀を避けて「茂才」になりました)
劉備が敗走してから、袁渙は呂布に留められました。
呂布が袁渙に劉備を罵辱する書信を書かせようとしましたが、袁渙は拒否し、呂布が再三強制しても同意しませんでした。
激怒した呂布が兵器で袁渙を脅して言いました「これを為せば生き、為さなかったら死ぬ(為之則生,不為則死)!」
袁渙は顔色を変えず、笑って応じました「渙()が聞くに、徳だけが人を辱めることができます。罵ることで人を辱めるとは聞いたことがありません(渙聞唯徳可以辱人不聞以罵)。もしも彼が元から君子なら、将軍の言を恥とすることはありません。彼がもし小人なら、将軍の意を繰り返すので呂布を真似て劉備呂布を罵るので)、辱はこちらにあり、彼にあるのではありません(使彼固君子邪,且不恥将軍之言。彼誠小人邪,将復将軍之意,則辱在此不在於彼。。そもそも、渙()が他日(過日)、劉将軍に仕えていたのは、今日将軍に仕えるているのと同じようでしたが、もしも一旦にしてここを去り、また将軍を罵ったら、それが許されますか(且渙他日之事劉将軍,猶今日之事将軍也,如一旦去此,復罵将軍,可乎)?」
呂布は慚愧して止めました。
 
 
 
次回に続きます。