東漢時代362 献帝(四十四) 賈詡と張繍 196年(7)

今回で東漢献帝建安元年が終わります。
 
[二十一] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
張済が関中から兵を率いて荊州界内の南陽に入り、穰城を攻めましたが、流矢に中って死にました。
資治通鑑』胡三省注によると、穰県は南陽郡に属す県です。
 
荊州の官属が皆、祝賀しましたが、劉表はこう言いました「張済は窮したからここに来たのに、主人劉表に礼がなく(礼遇してもてなすことができず)、交鋒(戦闘)をもたらしてしまった。これは牧(私。荊州劉表の意ではない。牧は弔は受けるが賀は受けない。」
劉表は人を送って張済の衆を受け入れさせました。
張済の衆はそれを聞いて喜び、皆、劉表に帰心しました(実際には張繍が張済の衆を率いました。劉表に附くのは少し後の事です。下述します)
 
張済の死後、張済の族子(祖父の兄弟の曾孫。または同族で自分より一世代下の者。なお、「族子」は『資治通鑑』の記述で、『三国志武帝紀』では「従子」です。「従子」には「甥」の意味もありますが、ここでは恐らく「族子」と同義ですに当たる建忠将軍張繍が代わってその衆を統率し、宛に駐屯しました。
 
以前、献帝長安を出てから、宣威将軍賈詡が印綬を朝廷に返上し、華陰の段煨を頼りに行きました。
賈詡はかねてから名が知られていたため、段煨の軍に望まれ(敬慕され)、段煨の賈詡に対する礼奉(礼敬。礼遇)も甚だ周到でした。
 
しかし賈詡は秘かに張繍に帰順することを謀りました。
ある人が言いました「段煨が君を待遇して厚いのに、君はどこに行くのだ。」
賈詡が言いました「段煨の性は多疑なので(疑い深いので)、詡(私)を嫌う気持ちを抱いている(有忌詡意)。礼は確かに厚いが、久しく頼ることはできない(不可恃久)。やがて図られることになるだろう。私が去れば(彼は)必ず喜び、また私が(彼のために)外で大援と結ぶことを望むので、必ず我が妻子を厚く遇すだろう。張繍には謀主がいないから、(彼も)(私)を得ることを願っている。こうすれば必ず(私の)家と身を共に全うできる。」
こうして賈詡は張繍に会いに行きました。
張繍は子孫の礼を用いて賈詡を厚遇します。
段煨も張繍の家族を善視(善く世話を視ること)しました。
 
賈詡は張繍を説得して劉表に附かせました。
張繍はこれに従います(上述の「張済の衆が劉表に帰心した」というのは恐らくこの時の事です)
 
賈詡が劉表に会いに行きました。劉表は客礼で遇します。
しかし賈詡は退出してからこう言いました「劉表は平世なら三公の才だ。しかし彼は事の変化を見ず(不見事変)、疑いが多くて決断しないので(多疑無決)、何も為すことができない(無能為也)。」
 
劉表は民を愛して士を養い、従容(沈静な様子。または堂々とした様子)として自分を保ちました。境内には事がなく、関西や兗豫の学士で劉表に帰した者は千を数えます。
そこで劉表は学校を建てて経術を講明(講義解説)し、元雅楽河南の人杜夔に命じて雅楽を作らせました。
音楽が備わってから、劉表が庭でそれを観ようとしましたが、杜夔はこう言いました「今、将軍は号が天子ではありません。楽を編集して庭で演奏するのは相応しくないのではありませんか(合楽而庭作之無乃不可乎)。」
劉表は中止しました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の音楽には四品(四種類)がありました。
一は「太予楽」で、郊廟の式典や陵殿(陵園の宮殿)に上った時に奏でる音楽です。二は「周頌雅楽」で、辟雍饗射(射術を競う儀式)六宗(六神)社稷の音楽です。三は「黄門鼓吹」で、天子が群臣と宴を開いた時に奏でる音楽です。四は「短簫鐃歌」で軍楽です。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
平原の人禰衡は若い頃から才辯(才識と弁舌の能力)がありましたが、勝気が強く、剛強かつ傲慢でした(尚気剛傲)
孔融曹操に禰衡を推薦しましたが、禰衡は曹操を罵って辱しめました。
資治通鑑』胡三省注によると、曹操が禰衡を召して鼓吏にしたため、禰衡が曹操を罵りました。
 
曹操は怒りましたが、孔融にこう言いました「禰衡のような豎子(小者)を孤(わし)が殺すのは雀や鼠を殺すようなものだ。しかしかねてからこの者に虚名があることを顧みると、遠近の者が孤には彼を容れることができなかったと言うようになるだろう。」
そこで曹操は禰衡を劉表に送りました。
 
劉表は礼を用いて禰衡を迎え入れ、上賓にしました。
禰衡は劉表の美を称える言葉で口を満たしましたが、左右の者を譏貶(誹謗。風刺)することを好んだため、左右の者が劉表の実際の欠点を利用して讒言しました「禰衡は将軍の仁が西伯西周文王)でも越えられないと称えています(西伯不過也)。ただ、(将軍は)決断ができないので、最後に成功できないのは必ずこれが原因になると思っています(唯以為不能断,終不済者必由此也)。」
この言葉は劉表の短所を指摘していましたが、禰衡が今まで劉表に対して語ってきたことではなかったため(其言実指表短而非衡所言也)劉表(禰衡が陰で自分の短所を嘲笑していると思い)怒って禰衡を江夏太守黄祖に送りました。黄祖が性急だったからです。
黄祖も禰衡を善く遇しましたが、後に禰衡が衆前で黄祖を辱めたため、結局殺してしまいました。
 
以下、『資治通鑑』胡三省注からです。
曹操が禰衡に怒りを抱いて劉表に送ったのは、劉表が寛和で士を愛していたので、許容できるかどうかを観るのが目的だった。劉表が禰衡に怒りを抱いて黄祖に送ったのは、黄祖が性急で許容できないことを知っており、直接死地に置くことを欲したからだ。二人とも目論見があって計謀を用いたが(挟数用術)劉表の方が浅かった。
 
 
 
次回に続きます。