東漢時代363 献帝(四十五) 張繍背反 197年(1)

今回は東漢献帝建安二年です。五回に分けます。
 
東漢献帝建安二年
丁丑 197
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、曹操張繍を討って淯水に駐軍しました(これは『資治通鑑』の記述です。『三国志武帝紀』は「宛に到った」としています。宛県は南陽郡に属し、淯水は宛の東を流れます)
張繍は衆を挙げて曹操に投降しました。
 
曹操が張済の妻を納れたため(姫妾にしたため)張繍曹操を恨みました。
また、曹操張繍の驍将胡車児に金を与えました。
張繍はそれを聞いて疑い懼れ、投降したことを後悔して曹操軍を襲撃しました。
曹操張繍と戦いましたが、曹操の長子曹昂および弟の子曹安民が殺され、曹操も流矢に中って敗走しました。
三国志武帝紀』の注によると、曹操が乗っていた馬は絶影といいました。流矢に中って頰と足に怪我を負います。流矢は曹操の右臂(右腕)にも命中しました。
曹昂は馬に乗ることができなくなったため、曹操に馬を進めました。そのおかげで曹操は禍から逃れられましたが、曹昂は害に遭いました。
 
本文に戻ります。
校尉典韋張繍と力戦しました。左右の者がほとんど死傷し尽くし、典韋も数十の傷を負います。
張繍の兵が前に進んで縛ろうとしましたが、典韋は両脇に二人を挟んで撃殺し、目を見開いて大いに罵ってから死にました(繍兵前搏之,韋双挟両人撃殺之,瞋目大罵而死)
 
曹操は散兵を集めて舞陰まで引き還しました。
資治通鑑』胡三省注によると、舞陰県は南陽郡に属します。
 
張繍が騎兵を率いて追撃し、曹操軍を襲いましたが、曹操はこれを撃破しました。
張繍は敗走して穰に還り、再び劉表と連合しました。

当時、曹操の諸軍が大いに混乱していましたが、平虜校尉泰山の人于禁だけは衆兵を整えて帰還しました。
道中で青州兵が人を劫掠(侵犯、略奪)しているところに遭遇しました。于禁青州兵の罪を譴責して攻撃します。
青州兵は逃走して曹操の下に向かいました。
 
于禁は到着するとすぐ曹操に謁見しようとはせず、まず営塁を建てました。
ある人が于禁に言いました「青州兵が既に君(あなた)を訴えました。速やかに公を訪ねて弁明するべきです。」
于禁が言いました「今は賊()が後ろにおり、いつでも追いついてくる(追至無時)。先に備えを為さなかったらどうして敵を迎えられるのだ(不先為備何以待敵)。それに、公は聡明なので、中傷誹謗が通用するはずがない(譖訴何縁得行)。」
于禁はゆっくり塹()を掘って営を構え終わってから、入謁して曹操に詳しく状況を述べました。
曹操は悦んで于禁にこう言いました「淯水の難では吾()でも狼狽したのに、将軍は乱の中でも整えることができ、暴を討って塁を堅めた。(将軍には)動かすことができない節がある。たとえ古の名将でも、どうして越えられるだろう(有不可動之節,雖古名将何以加之)。」
曹操于禁の前後の功を記録して益寿亭侯に封じました。
 
曹操が諸将に言いました「吾()張繍等を降したが、すぐにその質(人質)を取ることを怠ったため(失不便取其質)、このようになってしまった。吾()は敗れた理由が分かった。諸卿はこれを観ていろ。今から後に再び敗れることはない。」
 
曹操は軍を率いて許に還りました。
 
三国志武帝紀』の注によると、旧制においては、三公が兵を指揮することになったら、皆、入朝して天子に謁見し、(勇士が)戟を交えて首を挟みながら前に進みました。
曹操張繍を討伐する際も、天子に朝覲(朝見)しました。この時、旧制が恢復されましたが、その後、曹操が朝見することはなくなりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
袁紹曹操に書を送りましたが、辞語が驕慢でした。
曹操が荀彧と郭嘉に問いました「今から不義を討つつもりだが力が敵わない。如何するべきだ?」
荀彧と郭嘉が答えました「劉項の不敵劉邦項羽の力が対等ではなかったこと。「敵」は「匹敵」の意味です)は公も知っていることです。漢祖(劉邦)はただ智が項羽に勝っていたので、項羽は強くても、最後は禽()になったのです。今、袁紹には十敗(十の短所)があり、公には十勝(十の長所)があるので、たとえ袁紹が強くても、何も為すことができません(無能為也)
袁紹は礼が繁多で儀が多いのに対し(繁礼多儀)、公は状態を自然に任せています(体任自然)。これは道が勝っているのです。袁紹は逆によって動いていますが、公は順を奉じて天下を率いています袁紹が兵を動かしたら叛逆になりますが、公は天子を奉じて天下を率いているので、道理に順じています)。これは義が勝っているのです。桓霊以来、政が寛において失われています(綱紀が弛緩しています。原文「政失於寛」)袁紹は寛によって寛を救おうとしているので整いません(寛容によって弛緩した政治を救おうとしているので整いません。原文「以寛済寛故不攝」)。公は猛によってこれを糾しているので(正しているので)、上下が制を知っています。これは治が勝っているのです。袁紹は外見は寛容ですが内心は疑い深いため(外寛内忌)、人を用いても疑っており、信任しているのは親戚や子弟だけです。公は外見は易簡(簡易)ですが内は機明(英明)で、人を用いても疑うことなく、才能があって相応しい人材なら遠近を隔てずに用いています(唯才所宜不間遠近)。これは度(度量)が勝っているのです。袁紹は策謀が多いのに決断は少なく、事に遅れて(機会を逃して)失敗しています(多謀少決失在後事)。公は策を得たらすぐに行い、臨機応変で極まることがありません(応変無窮)。これは謀が勝っているのです。袁紹は高議揖讓(高明な議論と礼節)によって名誉を収めているので、士の中でも好言飾外の者(口が達者で外を飾っている者)が多く帰しています。公は至心(誠心)によって人を遇し、虚美を為さないので、士の中でも忠正遠見で実がある者が皆、役に立ちたいと願っています(皆願為用)。これは徳が勝っているのです。袁紹は人が飢寒しているのを見たら恤念(憐憫、同情)して顔色に表しますが(形於顔色)、見えないことに対しては、考慮が及ばないこともあります(慮或不及)。公は目前の小事に対しては疎かにすることがありますが、大事に至っては四海に接し(天下に行き届き)(人々に)加える恩は皆その望を越えているので、たとえ見えないことでも考慮が行き届かないことはありません(慮無不周)。これは仁が勝っているのです。袁紹の大臣は権を争い、讒言によって惑乱しています。公は道によって下を御しており、浸潤(讒言)が行われません。これは明が勝っているのです。袁紹は是非を知ることができませんが、公は是とすることなら礼をもって進め(推奨し)、不是(非)とすることなら法をもって正しています。これは文(規律)が勝っているのです。袁紹は虚勢を為すことを好み、兵要(用兵の要)を知りません。公は少によって衆に克ち、用兵は神のようなので、軍人将兵が信頼し(恃之)、敵人がこれを畏れています。これは武が勝っているのです。」
曹操が笑って言いました「卿の言葉のようであるなら、孤(私)はどのような徳によって堪えられるだろう(どのような徳があれば卿の言葉の通りになれるだろう。私には徳が足りない。原文「如卿所言孤何徳以堪之」)。」
 
郭嘉がまた言いました「袁紹は北の公孫瓉を攻撃しているところなので、(我々は)その遠征に乗じて東の呂布を取ることができます。もし袁紹が寇を為して呂布がそれを援けたら、深い害になります。」
荀彧もこう言いました「先に呂布を取らなかったら、河北はまだ容易に図ることができません。」
曹操が言いました「その通りだ(然)。しかし吾(私)が惑うのは(躊躇するのは)袁紹が関中を侵擾(侵犯)し、西は羌胡を乱し、南は蜀漢を誘うことを恐れているのだ。そうなったらわしは兗豫だけをもって天下の六分の五と対抗することになる。如何するべきか(為将柰何)?」
荀彧が言いました「関中の将帥は十を数え、一つになることができません(莫能相一)。ただ韓遂馬騰が最強ですが、彼等は山東が争っているのを見て、必ずそれぞれ衆を擁して自分を保ちます。今、もし恩徳によって慰撫し、使者を派遣して連和すれば、たとえ久しく安んじることはできなくても、公が山東を安定させるまで動かないようにすることができます(比公安定山東足以不動)。侍中尚書僕射鍾繇は智謀があるので、彼に西事を属せば(委ねれば)、公は憂いがなくなります。」
曹操は上表して鐘繇を侍中司隸校尉に任命し、符節を持って関中諸軍を監督させました。また、特別に科制(法令制度)の拘束を受けないという特権を与えました(特使不拘科制)
 
鐘繇は長安に到着すると馬騰韓遂等に書を送って禍福を述べました。
馬騰韓遂はそれぞれ子を派遣して入侍させました(自分の子を人質として朝廷に仕えさせました)
 
 
 
次回に続きます。