東漢時代363 献帝(四十五) 張繍背反 197年(1)
丁丑 197年
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曹操は散兵を集めて舞陰まで引き還しました。
于禁が言いました「今は賊(敵)が後ろにおり、いつでも追いついてくる(追至無時)。先に備えを為さなかったらどうして敵を迎えられるのだ(不先為備何以待敵)。それに、公は聡明なので、中傷誹謗が通用するはずがない(譖訴何縁得行)。」
曹操は悦んで于禁にこう言いました「淯水の難では吾(私)でも狼狽したのに、将軍は乱の中でも整えることができ、暴を討って塁を堅めた。(将軍には)動かすことができない節がある。たとえ古の名将でも、どうして越えられるだろう(有不可動之節,雖古名将何以加之)。」
曹操が諸将に言いました「吾(私)は張繍等を降したが、すぐにその質(人質)を取ることを怠ったため(失不便取其質)、このようになってしまった。吾(私)は敗れた理由が分かった。諸卿はこれを観ていろ。今から後に再び敗れることはない。」
曹操は軍を率いて許に還りました。
荀彧と郭嘉が答えました「劉・項の不敵(劉邦と項羽の力が対等ではなかったこと。「敵」は「匹敵」の意味です)は公も知っていることです。漢祖(劉邦)はただ智が項羽に勝っていたので、項羽は強くても、最後は禽(虜)になったのです。今、袁紹には十敗(十の短所)があり、公には十勝(十の長所)があるので、たとえ袁紹が強くても、何も為すことができません(無能為也)。
袁紹は礼が繁多で儀が多いのに対し(繁礼多儀)、公は状態を自然に任せています(体任自然)。これは道が勝っているのです。袁紹は逆によって動いていますが、公は順を奉じて天下を率いています(袁紹が兵を動かしたら叛逆になりますが、公は天子を奉じて天下を率いているので、道理に順じています)。これは義が勝っているのです。桓・霊以来、政が寛において失われています(綱紀が弛緩しています。原文「政失於寛」)。袁紹は寛によって寛を救おうとしているので整いません(寛容によって弛緩した政治を救おうとしているので整いません。原文「以寛済寛故不攝」)。公は猛によってこれを糾しているので(正しているので)、上下が制を知っています。これは治が勝っているのです。袁紹は外見は寛容ですが内心は疑い深いため(外寛内忌)、人を用いても疑っており、信任しているのは親戚や子弟だけです。公は外見は易簡(簡易)ですが内は機明(英明)で、人を用いても疑うことなく、才能があって相応しい人材なら遠近を隔てずに用いています(唯才所宜不間遠近)。これは度(度量)が勝っているのです。袁紹は策謀が多いのに決断は少なく、事に遅れて(機会を逃して)失敗しています(多謀少決失在後事)。公は策を得たらすぐに行い、臨機応変で極まることがありません(応変無窮)。これは謀が勝っているのです。袁紹は高議揖讓(高明な議論と礼節)によって名誉を収めているので、士の中でも好言飾外の者(口が達者で外を飾っている者)が多く帰しています。公は至心(誠心)によって人を遇し、虚美を為さないので、士の中でも忠正遠見で実がある者が皆、役に立ちたいと願っています(皆願為用)。これは徳が勝っているのです。袁紹は人が飢寒しているのを見たら恤念(憐憫、同情)して顔色に表しますが(形於顔色)、見えないことに対しては、考慮が及ばないこともあります(慮或不及)。公は目前の小事に対しては疎かにすることがありますが、大事に至っては四海に接し(天下に行き届き)、(人々に)加える恩は皆その望を越えているので、たとえ見えないことでも考慮が行き届かないことはありません(慮無不周)。これは仁が勝っているのです。袁紹の大臣は権を争い、讒言によって惑乱しています。公は道によって下を御しており、浸潤(讒言)が行われません。これは明が勝っているのです。袁紹は是非を知ることができませんが、公は是とすることなら礼をもって進め(推奨し)、不是(非)とすることなら法をもって正しています。これは文(規律)が勝っているのです。袁紹は虚勢を為すことを好み、兵要(用兵の要)を知りません。公は少によって衆に克ち、用兵は神のようなので、軍人(将兵)が信頼し(恃之)、敵人がこれを畏れています。これは武が勝っているのです。」
曹操が笑って言いました「卿の言葉のようであるなら、孤(私)はどのような徳によって堪えられるだろう(どのような徳があれば卿の言葉の通りになれるだろう。私には徳が足りない。原文「如卿所言孤何徳以堪之」)。」
荀彧もこう言いました「先に呂布を取らなかったら、河北はまだ容易に図ることができません。」
曹操が言いました「その通りだ(然)。しかし吾(私)が惑うのは(躊躇するのは)、袁紹が関中を侵擾(侵犯)し、西は羌・胡を乱し、南は蜀漢を誘うことを恐れているのだ。そうなったらわしは兗・豫だけをもって天下の六分の五と対抗することになる。如何するべきか(為将柰何)?」
荀彧が言いました「関中の将帥は十を数え、一つになることができません(莫能相一)。ただ韓遂と馬騰が最強ですが、彼等は山東が争っているのを見て、必ずそれぞれ衆を擁して自分を保ちます。今、もし恩徳によって慰撫し、使者を派遣して連和すれば、たとえ久しく安んじることはできなくても、公が山東を安定させるまで動かないようにすることができます(比公安定山東足以不動)。侍中・尚書僕射・鍾繇は智謀があるので、彼に西事を属せば(委ねれば)、公は憂いがなくなります。」
次回に続きます。