東漢時代367 献帝(四十九) 杜襲 趙儼 繁欽 197年(5)
朝廷が議論して馬日磾に礼を加えようとしました(特別な礼を用いて葬事を行おうとしました)。
しかし孔融がこう言いました「馬日磾は上公の尊によって、髦節(符節)を持つ使者になったのに(以上公之尊秉髦節之使)、意を曲げて姦臣に媚び、制御されることになりました(曲媚姦臣為所牽率)。王室の大臣がどうして脅されたことを口実にできるでしょう(豈得以見脅為辞)。聖上(陛下)は旧臣を哀矜(憐憫)しているので追按を忍びませんが(遡って追究することができませんが)、礼を加えるのは相応しくありません。」
朝廷はこれに従いました。
元兗州刺史・金尚の喪(霊柩)も京師に至りました。
献帝は詔を発して百官に弔祭させ、子の金瑋を郎中に任命しました。
曹操は更に舞陰を攻めて下しました。
しかし呂布はこれに同意しませんでした。
劉備は同意したふりをします。
しかし飲食して半ばにも至らない時に、席上で楊奉を縛って斬りました。
胡才、李楽は河東に留まりましたが、胡才は怨家に殺され、李楽は病死しました。
郭汜はその将・伍習に殺されました。
劉表は三人とも賓客に対す礼で遇します。
杜襲が諭して言いました「吾(私)が子(汝)と共に来たのは、ただ身を全うして時を待とうと欲したからだ。どうして劉牧を撥乱の主(乱を平定する主)とみなし、長く身を委ねようと思うだろう(豈謂劉牧当為撥乱之主而規長者委身哉)。子(汝)がもしも能を示して止めないのなら、吾(私)の徒(仲間)ではない。吾(私)は子(汝)と(関係を)絶つ。」
繁欽は慨然(感慨の様子)として言いました「謹んで命を受けることを請います。」
繁欽の最後の言葉は「請敬受命」です。「あなたの命を受けることを請う」とも、「天命を受けることを請う」とも解釈できると思います。前者なら繁欽が杜襲の言葉に従っていますが、後者なら「それが天命なら、絶交されても仕方がない」という意味にもとれます。
『資治通鑑』に戻ります。
趙儼は還って曹操を訪ねました。
曹操は趙儼を朗陵長に任命します。
繁欽に関しては詳しい記述がありません。『三国志・魏書二十一・王衛二劉傅伝』の注に「繁欽は字を休伯という。(略)丞相(曹操)の主簿になり、建安二十三年(218年)に死んだ」とあるので、後には曹操に仕えたようですが、いつのことかはわかりません。
『資治通鑑』に戻ります。
陽安都尉・江夏の人・李通の妻の伯父が法を犯しました。
趙儼が犯人(李通の妻の伯父)を捕らえて裁き、大辟(死刑)の判決を下しました。
当時、生殺の柄(権利)は牧守(州郡の長)に決定権があったため、李通の妻子が号泣して李通に命請いをしました(李通は郡の都尉なので県令・趙儼の上になります)。
しかし李通は「曹公と戮力(協力)しているのだから、義において、私情のために公事を廃してはならない(不以私廃公)」と言い、趙儼が法令を用いて阿らない姿勢を称賛しました。
この後、李通は趙儼と親交を結びます。
次回に続きます。