東漢時代367 献帝(四十九) 杜襲 趙儼 繁欽 197年(5)

今回で東漢献帝建安二年が終わります。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
馬日磾の喪(霊柩)が京師に至りました献帝興平元年194年参照)
朝廷が議論して馬日磾に礼を加えようとしました(特別な礼を用いて葬事を行おうとしました)
しかし孔融がこう言いました「馬日磾は上公の尊によって、髦節(符節)を持つ使者になったのに(以上公之尊秉髦節之使)、意を曲げて姦臣に媚び、制御されることになりました(曲媚姦臣為所牽率)。王室の大臣がどうして脅されたことを口実にできるでしょう(豈得以見脅為辞)。聖上(陛下)は旧臣を哀矜(憐憫)しているので追按を忍びませんが(遡って追究することができませんが)、礼を加えるのは相応しくありません。」
朝廷はこれに従いました。
 
元兗州刺史金尚の喪(霊柩)も京師に至りました。
献帝は詔を発して百官に弔祭させ、子の金瑋を郎中に任命しました。
 
[十五] 『三国志魏書一武帝紀』本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
曹操が舞陰に還った時、南陽、章陵の諸県がまた叛して張繍に協力しました。
曹操曹洪を派遣して撃たせましたが、利がなく、曹洪は引き返して葉(地名)に駐屯しました。
曹洪はしばしば張繍劉表に侵犯されます。
 
冬十一月、曹操が再び張繍を撃つため、南征して宛に到りました。
この時、淯水に臨んだ曹操は、本年春に亡くなった将士を祀り、むせび泣いて涙を流しました(歔欷流涕)。それを見て士衆が皆、感慟(哀痛感動)しました。
 
劉表の将鄧済が湖陽(県名)を拠点にしていました。
曹操はこれを攻略して鄧済を生け捕りにします。湖陽の民は曹操に降りました。
 
曹操は更に舞陰を攻めて下しました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
韓暹と楊奉が下邳におり、徐州揚州の間を寇掠(侵犯略奪)しました。
韓暹と楊奉は軍が飢餓に苦しんでいたため、呂布に別れを告げて荊州を訪ねようと欲します。
しかし呂布はこれに同意しませんでした。
 
楊奉劉備呂布との間に宿憾(過去の怨恨)を抱いていると知り、個人的に劉備と連絡を取り、共に呂布を撃とうとしました。
劉備は同意したふりをします。
 
楊奉が軍を率いて沛を訪ねました。劉備楊奉を招いて入城させます。
しかし飲食して半ばにも至らない時に、席上で楊奉を縛って斬りました。
 
韓暹は楊奉を失って孤立したため、十余騎と共に并州に帰りましたが、杼秋令張宣に殺されました。
資治通鑑』胡三省注によると、杼秋県は、西漢時代は梁国に属しましたが、東漢になって沛国に属しました。
 
胡才、李楽は河東に留まりましたが、胡才は怨家に殺され、李楽は病死しました。
郭汜はその将伍習に殺されました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
潁川の人杜襲、趙儼、繁欽(『資治通鑑』胡三省注によると、殷民七族に繁氏がいました。西漢には御史大夫繁延寿がいました)が乱を避けて荊州に行きました。
劉表は三人とも賓客に対す礼で遇します。
 
繁欽がしばしば奇(特異な才能)劉表に示しました。
杜襲が諭して言いました「吾(私)が子(汝)と共に来たのは、ただ身を全うして時を待とうと欲したからだ。どうして劉牧を撥乱の主(乱を平定する主)とみなし、長く身を委ねようと思うだろう(豈謂劉牧当為撥乱之主而規長者委身哉)。子(汝)がもしも能を示して止めないのなら、吾(私)の徒(仲間)ではない。吾(私)は子(汝)(関係を)絶つ。」
繁欽は慨然(感慨の様子)として言いました「謹んで命を受けることを請います。」
繁欽の最後の言葉は「請敬受命」です。「あなたの命を受けることを請う」とも、「天命を受けることを請う」とも解釈できると思います。前者なら繁欽が杜襲の言葉に従っていますが、後者なら「それが天命なら、絶交されても仕方がない」という意味にもとれます。
三国志魏書二十三和常楊杜趙裴伝』によると、杜襲はこの後、南の長沙に移り(繁欽と別れたようです)曹操が天子を迎えて許に都を置いてから郷里に帰りました。曹操は杜襲を西鄂長に任命しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
曹操が許に都を置いてから、趙儼が繁欽に言いました(二人とも荊州にいます)「曹鎮東は必ず華夏を匡済(救済)することができる。吾(私)は帰する所を知った。」
趙儼は還って曹操を訪ねました。
曹操は趙儼を朗陵長に任命します。
 
繁欽に関しては詳しい記述がありません。『三国志魏書二十一王衛二劉傅伝』の注に「繁欽は字を休伯という。(略)丞相曹操の主簿になり、建安二十三年218年)に死んだ」とあるので、後には曹操に仕えたようですが、いつのことかはわかりません。
 
資治通鑑』に戻ります。
陽安都尉江夏の人李通の妻の伯父が法を犯しました。
資治通鑑』胡三省注によると、曹操が汝南から二県を分けて陽安都尉を置きました。
 
趙儼が犯人(李通の妻の伯父)を捕らえて裁き、大辟(死刑)の判決を下しました。
当時、生殺の柄(権利)は牧守(州郡の長)に決定権があったため、李通の妻子が号泣して李通に命請いをしました(李通は郡の都尉なので県令趙儼の上になります)
しかし李通は「曹公と戮力(協力)しているのだから、義において、私情のために公事を廃してはならない(不以私廃公)」と言い、趙儼が法令を用いて阿らない姿勢を称賛しました。
この後、李通は趙儼と親交を結びます。
 
 
 
次回に続きます。