東漢時代368 献帝(五十) 曹操と張繍 198年(1)

今回は東漢献帝建安三年です。五回に分けます。
 
東漢献帝建安三年
戊寅 198
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹操が許に還りました曹操張繍を討伐していました)
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』はここで「初めて軍師祭酒を置いた」と書いています。
資治通鑑』では二年前献帝建安元年・196年)郭嘉が司空祭酒(または「司空軍祭酒」)になっています。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、曹操がまた張繍を撃とうとしましたが、荀攸が諫めました「張繍劉表は互いに頼って強くなっています(相恃為強)。しかし張繍は遊軍(客軍。外地の兵)を率いて劉表の食糧を頼りにしており(仰食於表)劉表(長期にわたっては)供給できないので、必ず乖離することになります(勢必乖離)。軍を緩めてそれを待った方がいいでしょう。(そうすれば張繍を)誘って到らせることができます。もしも急いで攻めたら、彼等は必ず援け合うようになります(其勢必相救)。」
曹操はこれに従わず、穰で張繍を包囲しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、朝廷が謁者僕射裴茂(『資治通鑑』胡三省注によると、伯益の後代が𨛬郷に封じられたため𨛬を氏にしました。後に解邑に改封されたため、「邑」を除いて「衣」に換えました)を派遣し、関中諸将の中郎将段煨等に詔を発して李傕を討伐させました。李傕の三族が皆殺しにされます。
孝献帝紀』の注によると、李傕の首は許に届けられ、詔によって高く掲げられました。
また、『資治通鑑』胡三省注は「董卓の党はここにおいて尽きた(全滅した)」と解説しています。
 
段煨を安南将軍に任命し、郷侯に封じました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』本文と裴松之注および資治通鑑』からです。
袁紹詔書を得る度に、自分にとって不利な内容が書かれていることを患いました。そこで天子を自分の近くに移そうと欲し、使者を送って曹操に「許下(許都一帯)は埤湿(低地で湿度が高いこと)であり、雒陽は残破(破壊)されているので、都を鄄城に移して富裕な地域に就くべきだ(以就全実)」と説得しました。
しかし曹操はこれを拒否します。
 
田豊袁紹に説きました「徙都(遷都)の計に従えさせることができなかったので(既不克従)、早く許を図って(許攻略を計画して)天子を奉迎し、動く時は詔書に託して海内に号令するべきです。これが上策というものです(此算之上者)。そうしなかったら、最後は人に捕えられることになり、後悔しても意味がありません(雖悔無益也)。」
袁紹は従いませんでした。
 
ちょうどこの頃、袁紹に叛して逃亡した兵が曹操を訪ね、こう伝えました「田豊袁紹に早く許を襲うように勧め、もし天子を挟んで(擁して、脅迫して)諸侯に号令すれば(若挾天子以令諸侯)、四海を指麾(指揮)して定めることができると言いました。」
曹操は穰の包囲を解いて引き還しました。
それを見た張繍が衆を率いて追撃します。
 
五月、劉表が兵を派遣して張繍を援け、安衆(地名)に駐屯しました。険要な地を守って曹操軍の退路を断ちます。
曹操は道を阻まれたため、営を連ねて徐々に前進しました。
 
曹操が荀彧に書を送りました「賊が来て吾()を追撃し、日に数里を進軍しているが、吾(私)が策すに(計るに)、安衆に至ったら必ず張繍を破ることができる(破繍必矣)。」
曹操が安衆に至ると、張繍劉表が兵を合わせて険要を守りました。曹操は前後から敵の攻撃を受けます。
曹操は夜の間に険阻な地を穿って地道を造り、遁走したふりをしました。全ての輜重を先に通らせ、奇兵を設けます。
夜が明けると張繍劉表曹操が遁走したと思い、全軍を出して追撃しました。
そこで曹操が奇兵を放ち、歩騎が夾攻(挟み撃ち)して大勝しました。
 
後日、荀彧が曹操に問いました「前回、賊が必ず敗れると予測しましたが、なぜですか(前策賊必破何也)?」
曹操が言いました「虜(敵)は我が軍が帰るのを阻止し、我々を死地に置いた(虜遏吾帰師而與吾死地)。だから吾(私)は勝つと知ったのだ(吾是以知勝矣)。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。『兵法』には「帰る軍を阻止してはならない(帰師勿遏)」「死地に置いたら生きる(置之死地而後生)」とあるので、張繍劉表に追い詰められた曹操は逆に大勝できました。

張繍曹操を追撃した時、賈詡が止めて「追ってはなりません。追ったら必ず敗れます」と言いました。
しかし張繍はこれを聴かず、兵を進めて交戦した結果、大敗して還りました。
賈詡が城壁に登って張繍に言いました「改めて速く追うべきです。再び戦えば必ず勝てます(促更追之,更戦必勝)。」
張繍が謝って言いました「公の言を用いなかったからこのようになってしまった。今既に敗れたのに、どうしてまた追撃するのだ?」
賈詡が言いました「兵勢には変があります(戦の形勢は一定ではありません)。速やかに追うべきです。」
張繍はかねてから賈詡の言を信じていたため、散卒を集めて改めて追撃しました。曹操軍と合戦し、果たして勝って帰還します(『資治通鑑』胡三省注は「小さな戦勝」と書いています)
 
張繍が賈詡に問いました「繍(私)が精兵を率いて退く軍を追った時、公(あなた)は必ず敗れると言った。敗卒を率いて勝った兵を撃った時、公は必ず克つと言った。全て公の言の通りになったが、それは何故だ(悉如公言何也)?」
賈詡が言いました「これは容易に分かることです(此易知耳)。将軍は用兵を善くしますが、曹公の敵ではありません。曹公の軍は退いたばかりだったので、(曹公が)自ら後を断つのは間違いありませんでした。だから必ず敗れると分かったのです。曹公は将軍を攻めてから失策が無く、力もまだ尽きていないのに、一朝にして(兵を)率いて退きました。これは国内に異変があったからに違いありません(必国内有故也)。既に将軍を破ったら、曹操自身は)必ず軽軍(軽装の部隊)で速く進み、諸将を留めて後を断たせるはずです。(曹操)諸将は勇(勇猛)ですが将軍の敵ではないので、敗兵を用いたとしても戦えば必ず勝てたのです。」
張繍は感服しました。
 
秋七月、曹操が許に還りました。
 
 
 
次回に続きます。