東漢時代377 献帝(五十九) 孫策の進撃(下) 199年(5)

今回も東漢献帝建安四年の続きです。
 
[十一(続き)] 孫策が盛兵して(兵を集結して)豫章を攻略しようとしました。椒丘に駐軍します。
資治通鑑』胡三省注によると、椒丘は豫章南昌県から数十里離れています。
 
孫策が功曹虞翻に言いました「華子魚(子魚は華歆の字です)は以前から名声があるが(自有名字)、私の敵ではない。もし門を開いて城を譲らなかったら、金鼓が一震してから(攻撃を開始してから)、傷害を避けることはできない(金鼓一震不得無所傷害)。卿は彼の前で孤の意(私の意思)を詳しく説明せよ(卿便在前具宣孤意)。」
 
虞翻は華歆に会いに行ってこう言いました「私が聞いたところでは(竊聞)、明府(あなた)と鄙郡(私の郡。会稽)の故王府君(王朗。孫策に敗れました)は中州(中原)で等しく名が知られており(斉名中州)、海内が尊重しています(海内所宗)(私は)東垂(東の辺境)にいましたが、常に瞻仰(尊崇。敬慕)を抱いていました(雖在東垂常懐瞻仰)。」
華歆が言いました「孤(私)は王会稽(会稽太守王朗)に及びません。」
虞翻がまた言いました「豫章の資糧や器仗(武器)、士民の勇果(勇敢果断)に詳しくありません。鄙郡と比べてどちらが勝っているでしょう(孰與鄙郡)?」
華歆が言いました「(我が郡が)大きく及びません(大不如也)。」
そこで虞翻が言いました「明府(あなた)が王会稽に及ばないと言ったのは謙光の譚です(謙遜の言葉です。「謙光」は謙遜して美徳を示すことです)。しかし精兵が会稽に及ばないというのは、あなたの言葉の通りです(実如尊教)。孫討逆孫策は智略が世を超え(卓越しており)、用兵は神のようであり、以前、劉揚州劉繇を走らせたのは、君(あなた)も自ら見たことです。南に向かって鄙郡を定めたのも、君(あなた)が聞いたことです。今、(あなたは)孤城を守ろうと欲していますが、自ら資糧を量って既に不足していることを知っています(物資が会稽より劣っていることを自分でも理解しています)。早く計を為さなければ、後悔しても及びません(悔無及也)。今、大軍が既に椒丘に駐軍しました。僕(私)はここを去って還ります(僕便還去)。明日の日中に迎檄孫策を迎え入れる檄文)が到らなかったら、君(あなた)に別れを告げることになります(與君辞矣)。」
華歆が言いました「久しく江表におり、常に北に帰ることを欲していました。孫会稽が来たら、私はすぐに去ります。」
その夜、華歆が檄を作りました。
 
明旦(翌朝)、華歆が官吏に檄を持たせて派遣し、孫策を迎え入れました。
孫策が進軍すると、華歆は葛巾(葛布の頭巾。武装をしていないことを示したのだと思います)で出迎えました。
孫策が華歆に言いました「府君の年徳名望は遠近が帰すところです。策(私)はまだ幼いので(策年幼稚)、子弟の礼(子弟が年長者に対して用いる礼)を修めるべきです。」
孫策は華歆に拝礼し、上賓として礼遇しました。
 
三国志魏書十三鍾繇華歆王朗伝』の裴松之注は、華歆が降る際の別の説を載せています。
孫策が揚州を奪取し、盛兵して豫章を攻略しようとしました。
一郡が大いに恐れ、官属が華歆に郊外まで迎えに出るように請います。
しかし華歆は「その必要はない(無然)」と指示しました。
孫策が徐々に進軍すると、官属が兵を発すように告げましたが、華歆はこれも聴きませんでした。
孫策が到ると一府の官員が皆、閣(官署)を訪れ、外に出て避難するように請いました。
華歆は笑ってこう言いました「今、孫策が)自ら来ようとしているのに、どうして急いで避けるのだ。」
暫くして門下の者が報告しました「孫将軍が至りました。」
華歆は孫策に会見を求めました。孫策は華歆に会いに行って共に坐り、久しく談議して夜になってから別れて去りました。
義士はこれを聞いて皆、長く嘆息し、自ら心服しました。
資治通鑑』胡三省注は「この説はあまりにも人情(世情)から離れているので(太不近人情)採用しなかった」と書いています。
 
[十二] 『三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注と『資治通鑑』からです。
孫策が豫章を分けて廬陵郡を置き、孫賁を豫章太守に、孫輔を廬陵太守に任命しました(『三国志呉書一孫破虜討逆伝』は献帝建安元年196年)に書いています)
ちょうど僮芝献帝建安三年198年参照)が病を患ったため、孫輔が兵を進めて廬陵を取り、周瑜を留めて巴丘を鎮守させました。
資治通鑑』胡三省注によると、この巴丘は廬陵郡に属す県のようです。
 
孫策は皖城を攻略してから、袁術の妻子を撫視(世話を視ること)しました。
豫章に入ってからは劉繇の喪(霊柩)を収めて運び(收載劉繇喪)、その家族を善遇しました。
士大夫はこれを称賛しました。
三国志魏書六董二袁劉伝』によると、袁術の死後、妻子が廬江太守劉勳を頼りましたが、孫策が劉勳を破り、袁術の妻子を引き取りました。(後に)袁術の娘は孫権の宮に入り、袁術の子袁燿は(呉で)郎中になりました。袁燿の娘も孫権の子孫奮に嫁ぎました。
 
会稽の功曹魏騰がかつて孫策の意に逆らったため、孫策が魏騰を殺そうとしました。衆人が憂い恐れましたが、為す術がありません。
しかし、孫策の母呉夫人が大井戸に身を寄せて孫策にこう言いました「汝は江南を造ったばかりで、事がまだ完成していません(原文「其事未集」。「集」は「安定」「成功」の意味です)。賢人を優遇して士人を礼遇し、過ちを忘れて功績を記録するべき時です(方当優賢礼士,捨過録功)。魏功曹は公において尽規しました(「尽規」は力を尽くして計策を練ること、または力を尽くして諫言することです)。汝が今日、彼を殺したら、明日には人が皆、汝に叛すでしょう。吾(私)は禍が及ぶのを見るのが忍びないので、先にこの井戸の中に身を投じます。」
大いに驚いた孫策はすぐに魏騰を釈放しました。
 
以前、呉郡太守会稽の人盛憲が高岱を孝廉に挙げました。
盛憲に代わって許貢が呉郡を領しに来ると、高岱は盛憲を連れて営帥許昭の家に避難しました。
 
献帝興平二年195年)に丹陽都尉朱治が呉郡を占拠しており、当時、呉郡太守だった許貢は厳白虎を頼りました。盛憲が許昭の家に避難したのは興平二年195年)よりも前の事です。
高岱については『三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注に記述があります。別の場所で紹介します。

東漢時代 高岱


当時、烏程の鄒佗(または「鄒他」)や銭銅、前合浦太守嘉興の人王晟等がそれぞれ一万余人や数千人の衆を集めており、孫策に帰順しませんでした。
孫策は兵を率いてこれらを撲討(討伐)し、全て破りました。
 
銭銅は銭が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、彭祖の裔孫(後裔)孚が周の銭府で上士になったため、官名を元に銭を氏にしました。
また、嘉興県は本来、長水と言いましたが、秦が由拳に改めました。その後、呉の孫権黄龍四年232年)に由拳県で嘉禾が生えたため禾興に改名し、更に後に呉帝孫皓が父の名を避けて嘉興県にしました孫皓の父は孫和といい、「和」は「禾」と同音で、左半分が「禾」なので、改名されたのだと思われます)
 
孫策の母呉氏が言いました「王晟と汝の父は升堂見妻の分(堂に登ってそれぞれの妻に会うという関係)がありました。今、その諸子兄弟が皆、梟夷(誅殺)され、ただ一老翁が残っているだけです。どうして恐れるに足りるでしょう(何足復憚乎)。」
孫策は王晟を処刑せず、他の者を全て族誅しました。
 
孫策は更に自ら兵を進めて厳白虎を攻めました。
厳白虎は塁壁を高くして堅守し、弟の厳輿を派遣して和を請わせます。
孫策はこれに同意しました。
そこで厳輿が単独で孫策に会って直接盟を結ぶことを請いました。
双方が会見してから、孫策が白刃を抜いて席(座席)を切りました。
厳輿の体が動きます(動揺したためです)
孫策が笑って言いました「卿は坐して跳躍することができ、勦捷(敏捷)が常ではない(人並みではない)と聞いていたから、卿を少しからかっただけだ(聊戲卿耳)。」
厳輿が言いました「私は刃を見たらそうなるのです(我見刃乃然)。」
孫策は厳輿がそうできないと知り、手戟を投げつけました。厳輿は即死します。
厳輿には勇力があったため、厳白虎の衆はその死を知って甚だ懼れました。
 
孫策が進攻して厳白虎を撃ちました。
厳白虎の兵が敗れ、厳白虎は餘杭に奔って許昭に投じました(『三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注は「虜中の許昭に投じた(投許昭於虜中)」としていますが、『三国志集解』は「虜中は誤り(必要ない)」と解説しています)
厳白虎の下にいた許貢は、この時、孫策に殺されたのだと思われます(翌年に触れます)
資治通鑑』胡三省注によると、餘杭県は、西漢時代は会稽郡に属しましたが、東漢になって呉郡に入れられました。
 
程普が孫策に許昭を攻めるように請いました。
しかし孫策は「許昭は旧君(盛憲)に対して義があり、故友(旧友。厳白虎)に対して誠がある。これは丈夫の志(心)である」と言って放置しました。
 
 
 
次回に続きます。