東漢時代378 献帝(六十) 劉備離反 199年(6)
曹操が官渡に駐屯しました。
許褚が異変を覚って徐他等を殺しました。
ちょうど天が雷震を落としたため、劉備はそれを機にこう言いました「聖人も『迅雷や風烈(激しい風)があったら必ず顔色を変える(原文「迅雷風烈必変」。『論語』の言葉です)』と言いました。真にその通りです(または「何かが起きる時は理由があるものです」。原文「良有以也」。「良」は「真に」「確かに」、「以」は「理由」「原因」です)。一震の威がここに至らせることができるとは思いませんでした(一度の雷鳴の威力がこれほど大きいとは思いませんでした。原文「一震之威乃可至於此也」)。」
『資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉備は曹操が自分を英雄だと認めたため、曹操が自分を害すことを懼れ、驚いて匕箸を落としました。しかし動揺を覚られないため、雷震に驚いて匕箸を落としたと弁解しました。
この後、劉備は董承および長水校尉・种輯、将軍・呉子蘭、王服等と同に計画を謀りました(これは『資治通鑑』の記述で、『三国志・先主伝』を元にしています。但し、「王服」は、『先主伝』では「王子服」です。『後漢書・孝献帝紀』では王服の官職は「偏将軍」、种輯は「越騎校尉」です)。
董承が王服(王子服)に言いました「郭多は数百の兵しかいなかったが、李傕の数万人を破壊した。ただ足下と吾(私)が同心になるかどうかにかかっている(但足下與吾同不耳)。昔、呂不韋の門は子楚(が現れるの)を待って、その後、高くなった(子楚は秦の荘襄王です。呂不韋は子楚を得たおかげで高貴になりました)。今、吾(私)と子(汝)はこれに倣おう(原文「吾與子由是也」。献帝を味方にして高貴になろう、という意味だと思います)。」
王服が言いました「恐れ多くてできません(惶懼不敢当)。それに兵も少なすぎます。」
董承が言いました「事を挙げた後、曹公の成兵(既存の兵)を得てもまだ不足か(顧不足邪)?」
王服が言いました「今、京師に任せられる者がいるでしょうか?」
董承が言いました「長水校尉・种輯、議郎・呉碩は吾(私)の腹心で事を行える者だ(吾腹心辦事者)。」
こうして計が定められました。
曹操の部下が去ると、劉備が張飛と関羽に言いました「吾(私)はどうして菜(野菜)を植えるような者であろうか。曹公は(人を送って我々を確認したので)必ず疑意を抱いている。これ以上留まってはならない(不可復留)。」
劉備は小沛に向かって兵衆を集めました。
この記述に対して裴臣松はこう書いています「魏武帝(曹操)は先主を派遣し、諸将を統率して袁術を邀撃させた。郭嘉等がそろって諫めても魏武(曹操)は従わなかった(実際は後悔して追手を送りましたが、間に合いませんでした)。この事は明らかである。野菜を植えていたために(疑われて)遁走したのではない(非因種菜遁逃而去)。」
本文に戻ります。
『三国志・先主伝』では、劉備が出兵することになったため、曹操誅殺を実行できなくなり、逆に陰謀が発覚して董承等が誅に伏しました。その後、劉備が下邳を占拠し、朱霊等が帰還してから徐州刺史・車胄を殺しています。
劉備の衆が数万人になりました。
王忠は扶風の人です。若い頃、亭長になりました。
三輔が乱れると、王忠は飢饉に窮乏して人を食いました(饑乏噉人)。
後に同輩に従って南の武関に向かいました。
曹操は王忠を中郎将に任命して征討に従わせました。
五官将(恐らく曹丕です)が王忠はかつて人を食ったことがあると知り、駕(恐らく曹操の車です)に従って外出した機会に、俳(俳優。芸人)に命じて冢間(墓地)から髑髏を取って来させ、王忠の馬鞍に繋げて歓笑しました(笑い者にしました)。
この年、初めて尚書左右僕射を置きました。
武陵の女子が死んで十四日後に復活しました。
次回に続きます。