東漢時代378 献帝(六十) 劉備離反 199年(6)

今回で東漢献帝建安四年が終わります。
 
[十三] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が官渡に駐屯しました。
曹操の常従士(常に左右に従う衛士)徐他等が曹操暗殺を謀り、曹操の帳に入りました。しかし校尉許褚を見て顔色が変わります。
許褚が異変を覚って徐他等を殺しました。
 
[十四] 『三国志魏書一武帝紀』『三国志蜀書二先主伝』と『資治通鑑』からです。
以前、献帝の舅(姫妾の父)に当たる車騎将軍董承が、献帝から衣帯の中に隠した密詔(「衣帯詔」といいます)を受け取ったと称し、劉備と共に曹操誅殺を謀りました。
 
ある時、曹操が従容(平然とした様子)として劉備に言いました「今、天下の英雄は使君(劉備)と操(私)だけだ(惟使君與操耳)。本初袁紹の字)の徒は数えるに足りない。」
この時、劉備は食事をしていましたが、匕箸(匙と箸。食器)を落としました。
ちょうど天が雷震を落としたため、劉備はそれを機にこう言いました「聖人も『迅雷や風烈(激しい風)があったら必ず顔色を変える(原文「迅雷風烈必変」。『論語』の言葉です)』と言いました。真にその通りです(または「何かが起きる時は理由があるものです」。原文「良有以也」。「良」は「真に」「確かに」、「以」は「理由」「原因」です)。一震の威がここに至らせることができるとは思いませんでした(一度の雷鳴の威力がこれほど大きいとは思いませんでした。原文「一震之威乃可至於此也」)。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉備曹操が自分を英雄だと認めたため、曹操が自分を害すことを懼れ、驚いて匕箸を落としました。しかし動揺を覚られないため、雷震に驚いて匕箸を落としたと弁解しました。
 
この後、劉備は董承および長水校尉种輯、将軍呉子蘭、王服等と同に計画を謀りました(これは『資治通鑑』の記述で、『三国志先主伝』を元にしています。但し、「王服」は、『先主伝』では「王子服」です。『後漢書孝献帝紀』では王服の官職は「偏将軍」、种輯は「越騎校尉」です)
ちょうど袁術が徐州の北を通って袁紹に就こうとしたため、曹操劉備を派遣し、朱霊や路招を監督して袁術を邀撃させました(本年夏です)
程昱、郭嘉、董昭が皆、曹操を諫めて「劉備を派遣するべきではありません(備不可遣也)」「劉備を放ってはなりません劉備不可縦)」と言ったため、曹操は後悔して後を追わせましたが、間に合いませんでした。
 
上述の通り、『三国志・先主伝』本文と『資治通鑑』では、劉備の出征前に王服等が曹操誅殺の計画に参加していますが、『三国志先主伝』裴松之注では、出征後の事としています。以下、裴松之注からです。
董承等は劉備と謀をしていましたが、実行する前に劉備が出兵してしまいました。
董承が王服(王子服)に言いました「郭多は数百の兵しかいなかったが、李傕の数万人を破壊した。ただ足下と吾(私)が同心になるかどうかにかかっている(但足下與吾同不耳)。昔、呂不韋の門は子楚(が現れるの)を待って、その後、高くなった(子楚は秦の荘襄王です。呂不韋は子楚を得たおかげで高貴になりました)。今、吾(私)と子(汝)はこれに倣おう(原文「吾與子由是也」。献帝を味方にして高貴になろう、という意味だと思います)。」
王服が言いました「恐れ多くてできません(惶懼不敢当)。それに兵も少なすぎます。」
董承が言いました「事を挙げた後、曹公の成兵(既存の兵)を得てもまだ不足か(顧不足邪)?」
王服が言いました「今、京師に任せられる者がいるでしょうか?」
董承が言いました「長水校尉种輯、議郎呉碩は吾(私)の腹心で事を行える者だ(吾腹心辦事者)。」
こうして計が定められました。
 
また、『三国志先主伝』裴松之注は、劉備曹操から去る時の状況として、全く異なる説も紹介しています。以下、引用します。
曹操はしばしば親近の者を送って秘かに諸将を監視しており、賓客に酒食を振る舞う者がいたら、いつも他事を利用して(理由を探して)殺害しました。
当時、劉備は門を閉ざして人に蕪菁(かぶ)を植えさせていました(農耕に精を出しているふりをして曹操を油断させるためです)
ある日、曹操が人を送って劉備の門を窺わせました。
曹操の部下が去ると、劉備張飛関羽に言いました「吾(私)はどうして菜(野菜)を植えるような者であろうか。曹公は(人を送って我々を確認したので)必ず疑意を抱いている。これ以上留まってはならない(不可復留)。」
その夜、劉備は裏の柵を開けて張飛等と共に軽騎で去りました。下賜された衣服は全て封をして残します。
劉備は小沛に向かって兵衆を集めました。
この記述に対して裴臣松はこう書いています「魏武帝曹操は先主を派遣し、諸将を統率して袁術を邀撃させた。郭嘉等がそろって諫めても魏武曹操は従わなかった(実際は後悔して追手を送りましたが、間に合いませんでした)。この事は明らかである。野菜を植えていたために(疑われて)遁走したのではない(非因種菜遁逃而去)。」
 
本文に戻ります。
劉備が到る前に袁術は南に走って病死しました。朱霊等が帰還します。
しかし劉備は下邳に入って徐州刺史車冑を殺しました。関羽を留めて下邳を守らせ、太守の政務を代行させます(行太守事)劉備自身は小沛に還って駐屯しました。
 
三国志先主伝』では、劉備が出兵することになったため、曹操誅殺を実行できなくなり、逆に陰謀が発覚して董承等が誅に伏しました。その後、劉備が下邳を占拠し、朱霊等が帰還してから徐州刺史車胄を殺しています。
しかし、『後漢書孝献帝紀』『三国志武帝紀』『欽定四庫全書後漢(袁宏)』とも董承等の死を翌年に書いており、『資治通鑑』胡三省注は『蜀書先主伝』が誤りと判断しています。
 
東海の賊昌豨(「昌豨」は『資治通鑑』の記述で、『三国志先主伝』では「昌霸」です)曹操に叛し、郡県の多くも叛して劉備に附きました。
資治通鑑』胡三省注によると、呂布が敗れてから太山(泰山)諸屯の帥が曹操に降りましたが、昌豨だけは反側(反覆)していました。
 
劉備の衆が数万人になりました。
そこで劉備は使者孫乾を派遣し、袁紹と連兵(連合)しました。
 
曹操は司空長史沛国の人劉岱と中郎将扶風の人王忠を送って劉備を撃たせました。
しかし劉岱等は勝てず、劉備が劉岱等にこう言い撒いた「汝のような者を百人に来させても、私をどうすることもできない(使汝百人来,其無如我何)。曹公が自ら来れば(勝敗は)まだ分からない(未可知耳)。」
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、劉岱は字を公山といい、沛国の人です。司空長史として曹操の征伐に従い、功を立てて列侯に封じられました。
王忠は扶風の人です。若い頃、亭長になりました。
三輔が乱れると、王忠は飢饉に窮乏して人を食いました(饑乏噉人)
後に同輩に従って南の武関に向かいました。
ちょうど婁子伯(婁圭)荊州(恐らく劉表です)のために人を送って北方の客人(流民)を迎え入れていました。
しかし王忠は荊州に行きたくなかったため、等仵(同輩)を率いて迎撃し、その兵を奪いました。衆千余人を集めて曹操に帰順します。
曹操は王忠を中郎将に任命して征討に従わせました。
五官将(恐らく曹丕です)が王忠はかつて人を食ったことがあると知り、駕(恐らく曹操の車です)に従って外出した機会に、俳(俳優。芸人)に命じて冢間(墓地)から髑髏を取って来させ、王忠の馬鞍に繋げて歓笑しました(笑い者にしました)
 
[十五] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、初めて尚書左右僕射を置きました。
 
[十六] 『後漢書孝献帝紀』からです。
武陵の女子が死んで十四日後に復活しました。
孝献帝紀』の注によると、女は李娥といい、六十余歳で死んで城外に埋葬されました。しかし道を行く人が冢()の中から声を聞いたため、家人に告げて冢から出させました。
 
 
 
次回に続きます。