東漢時代 于吉

東漢献帝建安五年200年)孫策が殺されました。

東漢時代381 献帝(六十三) 孫策の死(上) 200年(3)


孫策の死には于吉という道士が関わっていたともいわれています。『三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注が『江表伝』『志林』等の記述を引用しているので、以下、紹介します。
 
まずは『江表伝』から于吉の故事です。
当時、道士で琅邪の人于吉という者がいました。以前は東方に寓居(居住。多くは本籍以外の場所に住むことを指します)していましたが、呉(呉と会稽)に往来し、精舍(修練の建物)を建て、香を焼いて道書を読み、符水を制作して病を治しました。呉会で多くの人が于吉につかえるようになります。
かつて孫策が郡城の門楼の上で諸将賓客を集めて宴を開きました。
その時、于吉が美しく着飾って小函(小箱)を持ち、それに漆で絵を描いて仙人鏵と名付け(原文「盛服杖小函漆画之,名為仙人鏵」。「鏵」は土を掘り起こして田畑を耕す農具の刃です。「小函」がどういう形状かは分かりません)、速足で門の下を通り過ぎました(趨度門下)
すると、諸将や賓客の三分の二が楼を降りて于吉を迎え、拝礼しました。賓客をまとめる者が禁じようとして叱責しても止めることができません。
孫策はすぐに令を下して于吉を捕えました。
 
これに対して、于吉につかえる者達が皆、婦女を送って孫策の母に会見させ、于吉を救うように請いました。
母が孫策に言いました「于先生は軍を助けて福を為し、将士を医護しています。殺してはなりません。」
しかし孫策はこう言いました「この者は妖妄(怪異、荒唐)で、衆心を幻惑させることができます(此子妖妄能幻惑衆心)。遠くから諸将に再び君臣の礼を顧みないようにさせたため、皆、策(私)を棄てて、楼を下りてこれを拝したのです。除かないわけにはいきません。」
 
諸将も連名で事情を説明して命乞いをしました(諸将復連名通白事陳乞之)
孫策が言いました「昔、南陽の張津が交州刺史になった時、前聖の典訓を棄て、漢家の法律を廃し、常に絳帕頭(赤い頭巾)を被り、琴を弾いて香を焼き(鼓琴焼香)、邪俗の道書を読み、こうすることで教化の助けにしていると言っていたが(云以助化)、突然、南夷に殺されることになった。これ(于吉や張津の術)は甚だ無益であり、諸君がまだ悟っていないだけである。今、この者は既に鬼籙(死者の名簿)にいる(此子已在鬼籙)。これ以上、紙筆を費やす必要はない。」
孫策はすぐに于吉を斬るように促し、その首を市に掲げました。
しかし于吉につかえていた者達は于吉が死んだとは思わず、尸解(肉体を棄てて仙人になること)したのだと言い、また祭祀して福を求めました。
 
 
『志林』から虞喜の解説です。
順帝の時代、琅邪の人宮崇(人名)が宮闕を訪ね、師于吉が曲陽泉水の辺で得た神書を献上した。白素朱界(「白素」は白い絹、「朱界」は行を分けるために引かれた赤い線です)の書で、『太平青領道』と号し、合わせて百余巻あった。順帝から献帝建安年間までは五六十年が経っており、于吉はこの時既に百歳近くになっていた。年が耄悼(老幼)にある者は、本来、礼において刑を加えないものである。また、天子が巡狩(巡行)したら、百歳の者がいないか訊ね、その地で本人に会いに行くものであり、親愛によって年を重ねた者を敬うのは、聖王の至教(究極の教化、教え)である(敬歯以親愛,聖王之至教也)。于吉の罪が死刑に達していなかったのに、突然むやみに酷刑を加えたのは(暴加酷刑)謬誅(誤った誅殺)であり、美とされることではない。
また、喜(私。虞喜)が推考するに、桓王孫策の薨(死)は建安五年200年)四月四日のことだ。当時は曹氏と袁氏が互いに攻撃し合っており、まだ勝負がついていなかった。
袁紹が破れた後に、夏侯元讓夏侯惇が石威則(詳細はわかりません)に書を送っており、その書がこう言っている「孫賁に長沙を授け、張津に零桂を業す(零桂の政務に従事させる。原文「授孫賁以長沙,業張津以零桂」)。」
これによると、桓王は前に亡くなり、張津は後に死んでいるので、孫策が)張津の死意(張津が死んだことの意味。張津が殺された出来事)を譬えに語って(于吉を)批難することはできないのである(『江表伝』は誤りである。原文「不得相讓譬言津之死意矣」)
 
 
裴松之も張津に関してこう書いています。
西晋武帝太康八年287年)、広州の大中正王範が『交広二州春秋』を献上した。(その記述によると)建安六年になっても張津はまだ交州牧だった。『江表伝』の虚(虚偽)は『志林』が言うとおりである。
 
 
『搜神記』にも于吉の故事があります。
孫策が江を渡って許を襲おうと欲しました。于吉も同行しています。
同時は大旱のため、至る所で炎熱に苦しみました(所在熇厲)孫策は諸将士に速やかに船を引くように促し(旱のため水かさが減っており、うまく航行できなかったようです。また、東から西に向かっているので、長江を遡っているはずです。その場合は兵が陸に登って船を牽く必要があります)、あるいは孫策自身が早くから督切(督促)することもありました。
ところが将吏の多くが于吉の所にいるのを見たため、孫策が激怒してこう言いました「私が于吉に及ばないから、先に(彼のもとに)走って務めて(仕えて)いるのか(我為不如于吉邪,而先趨務之)。」
孫策はすぐに人を送って于吉を逮捕させました。
 
于吉が来ると、孫策は叱咤してこう問いました「天旱のため雨が降らず、道が塞がっているのですぐに通過できない(道塗艱澁不時得過)。だから自ら早く出たのに、卿は憂戚(憂慮悲傷)を同じくせず、船中に安んじて坐ったまま鬼(妖怪)のような態度をしており(安坐船中作鬼物態)、我が部伍(部隊。軍隊)を衰落させている(敗吾部伍)。今こそ除かなければならない(今当相除)。」
孫策は人に命じて于吉を縛らせ、地上に置いて(日に)曝し、雨乞いをさせました。もし天に感応させて日中(正午)までに雨を降らせることができたら原赦(赦免、釈放)、できなかったら誅殺することにします。
するとにわかに雲気が上って蒸し(雲気上蒸)、小さな雲が集まり(膚寸而合)、日中(正午)に到ると大雨がまとまって降りました。水が溪澗(谷間)を満たして溢れ出ます。
将士は喜悦し、于吉が必ず赦されるはずだと思いました。そろって慶慰(慶賀、慰労)に行きます。
ところが孫策は于吉を殺してしまいました。
将士は哀惜して共にその死体を隠しました。
その日の夜、突然新たに雲が興り、死体を覆いました。
明旦(翌朝)見に行くと、死体がどこにあるのか分からなくなっていました。
 
裴松之は「『江表伝』と『搜神記』を見ると、于吉の記事が同じではない。どちらが正しいのかはわからない(未詳孰是)」と書いています。
 
 
孫策の死に関しても『搜神記』に記述があります。
孫策は于吉を殺してから、一人で坐ると、いつも左右に于吉がいるように感じていました(彷彿見吉在左右)。心中で深くこれを嫌い、頗る常態を失うようになります。
後に(許貢の賓客から受けた)傷が治りかけた時、鏡を引き寄せて自分を映すと、鏡の中に于吉がいるのが見えました。しかし振り返っても姿は見えません。このようなことが再三あったため、鏡を打って大声で叫びました。すると傷口が全て崩裂し、間もなく死んでしまいました。