東漢時代386 献帝(六十八) 許攸 200年(8)
曹操が物資を輸送する者に会った時、彼等を撫でて(または「慰撫して」。『資治通鑑』原文「撫之」)言いました「あと十五日で汝等のために袁紹を破ろう。これ以上、汝等を労すことはない(卻十五日為汝破紹,不復労汝矣)。」
冬十月、袁紹が再び車を使って穀物を運び、その将・淳于瓊等五人(以下の記述に「督将・眭元進、騎督・韓莒子、呂威璜、趙叡」とあります。淳于瓊を合わせて五人になります)に一万余人の兵を率いて護送させました。袁紹の営から北四十里の地に留まります。
袁紹は従いませんでした。
許攸が袁紹に言いました「曹操の兵は少なく、しかも悉師(全軍)が我々を拒んでいるので、許下は残った者だけで守っており、間違いなく空弱になっています(勢必空弱)。もし兵を分けて軽軍を派遣し、夜間も急行して襲撃すれば(星行掩襲)、許を抜くことができます。許を抜いたら、天子を奉迎して曹操を討ちます。そうすれば曹操は禽になります(曹操を虜にできます。原文「操成禽矣」)。もし潰滅できないとしても、首尾に奔命させられるので(曹操を許と官渡の両面で奔走させることになるので)、必ずこれを破ることができます(可令首尾奔命破之必也)。」
許攸は怒りを抱きました。
本文に戻ります。
ちょうどこの頃、許攸の家の者が法を犯したため、審配が逮捕して獄に繋げました。
許攸は怒って曹操に奔りました。
この部分も『資治通鑑』に従いました。
『資治通鑑』胡三省注によると、許攸の字は子遠といいます。曹操が「子卿」と呼んだのは相手を貴んだからです。または本来、曹操は「子遠よ、卿が来たのだから私の事は成功した(子遠,卿来,吾事済矣)」と言いましたが、短縮して「子卿」と書かれたようです。
許攸が言いました「それほど多くはありません。言い直してください(無是,更言之)。」
許攸が言いました「足下は袁氏を破りたくないのですか。なぜ話すことが真実ではないのですか(何言之不実也)。」
許攸が言いました「公は孤軍で独守し、外には救援が無く、糧穀も既に尽きました。これは危急の日(時)です。(しかし)袁氏の輜重万余乗が故市、烏巣におり、屯軍(駐留軍)には厳しい備えがありません。今もしも軽兵でこれを襲い、不意を突いて(その地に)至り、積聚(物資の蓄え)を焼けば(燔其積聚)、三日も過ぎずに袁氏は自ら敗れるでしょう。」
曹操は大いに喜びました。
質問した者はこれを信じて皆、平然としていました(信以為然皆自若)。
曹操がこれを攻撃します。
しかし郭図が曹操の本営を攻めることを強く請いました。
袁紹の騎兵が烏巣に到りました。
曹操の左右である者が言いました「賊騎がしだいに近づいています。兵を分けて拒むことを請います。」
袁紹軍が迫っているため、士卒は皆、命を捨てて戦い(殊死戦)、ついに大破しました。督将・眭元進、騎督・韓莒子、呂威璜、趙叡等の首を斬り、全ての糧穀・宝貨を焼きはらいます。将軍・淳于仲簡(仲簡は恐らく淳于瓊の字です)は鼻を切られましたが、まだ死にませんでした。
曹操軍は士卒千余人を殺して全ての鼻を切り(『資治通鑑』では「士卒千余人皆取鼻(士卒千余人の鼻を全て切り取り)」ですが、『三国志・武帝紀』裴松之注では「殺士卒千余人皆取鼻」です。『資治通鑑』は「殺」が抜けています)、牛馬は唇舌を割き、それらを袁紹軍に示しました。
仲簡が言いました「勝負は天にあるものだ。何故質問するのだ(勝負自天,何用為問乎)。」
曹操は心中で殺したくないと思いましたが、許攸が「明旦、鏡に映したらますます人を忘れなくなります(明朝、鏡に顔を映して鼻がない自分の顔を見たら、ますます人(曹操)への怨みを忘れられなくなります。原文「明且鑒於鏡,此益不忘人」)」と言ったため、殺しました。
次回に続きます。