東漢時代390 献帝(七十二) 髀肉の嘆 201年(1)

今回から紀元三世紀に入ります。
三世紀は約四百年続いた漢王朝が滅び、魏蜀が鼎立する三国時代に入ります。
その後、魏から政権を奪った晋が天下を統一しますが、すぐに政局が不安定になり、四世紀には東晋十六国南北朝という大分裂時代を迎えることになります。
 
まずは東漢献帝建安六年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安六年
辛巳 201
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
春三月丁卯(中華書局『白話資治通鑑』は「丁卯」を恐らく誤りとしています)朔、日食がありました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
曹操が食糧を求めて安民(地名)に駐留しました(就穀於安民)
袁紹を破ったばかりだったので、この間に袁紹が復興する前に)劉表を撃とうとします(欲以其間撃劉表
しかし荀彧が反対して言いました「袁紹は破れたばかりで、その衆が離心しているので、困(困難。困窮)に乗じるべきです。そうすれば定めることができます。(公は)逆に江(長江漢水一帯)への遠師(遠征)を欲していますが、もし袁紹がその余燼(燃え残り。余衆、敗残兵)を収めて、虚に乗じて人の後ろに出たら、公の事(大事)が去ってしまいます。」
曹操は南征を中止しました。
 
夏四月、曹操は河上(黄河沿岸)で揚兵(閲兵。武威を示すこと)し、袁紹の倉亭の軍を撃って破りました(『資治通鑑』胡三省注によると、袁紹は軍を派遣して倉亭津に駐屯させていたようです)
 
三国志魏書一武帝紀』はここで、「袁紹が帰り、再び散卒を収め、叛した諸郡県を攻めて平定した」と書いています。『資治通鑑』では、前年に「冀州の城邑で袁紹に叛した者も、袁紹が徐々に攻撃して再び平定した」と書いています。
 
秋九月、曹操が許に還りました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
袁紹曹操に破れる前に劉備を送って汝南を攻略させました。汝南の賊龔都(共都。前年参照)等がこれに応じます。
曹操が蔡揚を派遣して龔都を撃ちましたが、利がなく、龔都に破れました。
資治通鑑』は『三国志蜀書二先主伝』に従ってこの内容を前年に書いており、蔡揚は劉備に敗れて殺されています。
 
以下、『三国志魏書一武帝紀』三国志蜀書二先主伝』と『資治通鑑』からです。
袁紹を破った曹操は自ら南下して、汝南で劉備を撃ちました。
劉備曹操が親征したと聞いて劉表に奔ります。龔都等は皆、四散しました。
 
劉備は事前に麋竺孫乾を派遣し、劉表に知らせました。
劉備が来たと聞いた劉表は自ら郊外まで出迎えに行き、上賓の礼で遇しました。
劉備の兵を増やして新野に駐屯させます。
 
しかし荊州の豪傑が劉備に帰心し、その数が日に日に増えたため、劉表劉備の心意を疑い、秘かに警戒しました(陰禦之)
 
劉備荊州で数年を過ごしました。
ある日、劉備劉表と同席していた時、厠に行くために立ちあがりました。劉備は髀裏(太腿の内側)に肉がついているのを発見し、慨然(感慨。憤慨)して涙を流します。
劉備が席に戻ってから、劉表が怪しんで理由を聞きました。
劉備が言いました「吾(私)は平常(通常。いつも)、身()が鞍から離れることなく、髀肉(太腿の肉)が皆消えていましたが、今は馬に乗らなくなったので(今不復騎)、髀裏に肉がついてしまいました(髀裏肉生)。日月は馳せるようで(『資治通鑑』では「日月若流(日月は流れるようで)」です。ここは『三国志先主伝』注の「日月若馳」に従いました)、老(老齢)がもうすぐ至るというのに、功業を建てることができないので、これを悲しんだのです(功業不建,是以悲耳)。」
この故事から「髀肉の嘆」という言葉ができました。機会に恵まれず、空しく日々を過ごしている状況を嘆くことです
 
三国志先主伝』裴松之注が荊州滞在中の劉備に関する記述をしています。
劉備が樊城に駐屯していた時、劉表は礼を用いて遇しましたが、その為人を憚って(恐れて)完全には信用しませんでした(不甚信用)
ある時、劉備を宴会に招きました。すると、蒯越と蔡瑁がこの機会に劉備を取ろう(襲おう)とします。
しかし劉備はそれを覚り、偽って厠に入ってから秘かに脱出遁走しました。
劉備が乗っている馬を「的盧」といいました。劉備は的盧を走らせましたが、襄陽城西の檀溪(渓流の名)で水中に堕ち、溺れて出られなくなりました(『中華書局三国志先主伝』では「墮襄陽城西檀溪水中,溺不得出」ですが、『三国志集解』では「堕」が「渡」になっています。「檀溪に堕ちて溺れた」のか「檀溪を渡ろうとして溺れた」のかははっきりしません)
劉備が急いで言いました「的盧よ、今日は難に遭った。努力(尽力)しなければならない(今日厄矣,可努力)。」
すると的盧は一躍して三丈を飛び上がり、ついに(溪流を)越えることができました(遂得過)。桴(小さな筏)に乗って河を渡ります(ここも理解が困難です。原文は「的盧乃一踊三丈遂得過,乗桴渡河」です。恐らく、劉備は檀溪に堕ちたものの、的盧のおかげで陸に上がることができ、その後、筏を探して河(檀溪)を渡ったのだと思います)
劉備中流(川の中央)に来た時、追者(追手)が至り、劉表の意思によって謝罪して「なぜそのように速く去るのだ(何去之速乎)」と言いました。
 
この記述に対して、裴松之は孫盛の見解を載せています。孫盛はこう言っています「これは納得できない言葉(記述)(此不然之言)劉備は当時、羈旅(外地から来た客)であり、客と主では勢(勢力。力)に差がある(客主勢殊)。もしこのような変(変事。異変)があったのなら、どうして最後まで敢えて劉表の世で晏然(安閑。安らかな様子)としており、釁故(罪行。ここでは劉表による刑罰を指すと思います)がなかったのだ。これは皆、世俗の妄説であって、事実ではない。」
しかし『三国志集解』は、「劉表劉備の心意を疑って秘かに警戒していたので、蒯越と蔡瑁の讒言もあったかもしれず、檀溪の急(危機)も妄説ではないようだ」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。