東漢時代390 献帝(七十二) 髀肉の嘆 201年(1)
今回から紀元三世紀に入ります。
辛巳 201年
しかし荀彧が反対して言いました「袁紹は破れたばかりで、その衆が離心しているので、困(困難。困窮)に乗じるべきです。そうすれば定めることができます。(公は)逆に江・漢(長江・漢水一帯)への遠師(遠征)を欲していますが、もし袁紹がその余燼(燃え残り。余衆、敗残兵)を収めて、虚に乗じて人の後ろに出たら、公の事(大事)が去ってしまいます。」
曹操は南征を中止しました。
『三国志・魏書一・武帝紀』はここで、「袁紹が帰り、再び散卒を収め、叛した諸郡県を攻めて平定した」と書いています。『資治通鑑』では、前年に「冀州の城邑で袁紹に叛した者も、袁紹が徐々に攻撃して再び平定した」と書いています。
秋九月、曹操が許に還りました。
曹操が蔡揚を派遣して龔都を撃ちましたが、利がなく、龔都に破れました。
劉備の兵を増やして新野に駐屯させます。
劉備が言いました「吾(私)は平常(通常。いつも)、身(体)が鞍から離れることなく、髀肉(太腿の肉)が皆消えていましたが、今は馬に乗らなくなったので(今不復騎)、髀裏に肉がついてしまいました(髀裏肉生)。日月は馳せるようで(『資治通鑑』では「日月若流(日月は流れるようで)」です。ここは『三国志・先主伝』注の「日月若馳」に従いました)、老(老齢)がもうすぐ至るというのに、功業を建てることができないので、これを悲しんだのです(功業不建,是以悲耳)。」
この故事から「髀肉の嘆」という言葉ができました。機会に恵まれず、空しく日々を過ごしている状況を嘆くことです。
しかし劉備はそれを覚り、偽って厠に入ってから秘かに脱出遁走しました。
劉備が乗っている馬を「的盧」といいました。劉備は的盧を走らせましたが、襄陽城西の檀溪(渓流の名)で水中に堕ち、溺れて出られなくなりました(『中華書局・三国志・先主伝』では「墮襄陽城西檀溪水中,溺不得出」ですが、『三国志集解』では「堕」が「渡」になっています。「檀溪に堕ちて溺れた」のか「檀溪を渡ろうとして溺れた」のかははっきりしません)。
すると的盧は一躍して三丈を飛び上がり、ついに(溪流を)越えることができました(遂得過)。桴(小さな筏)に乗って河を渡ります(ここも理解が困難です。原文は「的盧乃一踊三丈遂得過,乗桴渡河」です。恐らく、劉備は檀溪に堕ちたものの、的盧のおかげで陸に上がることができ、その後、筏を探して河(檀溪)を渡ったのだと思います)。
この記述に対して、裴松之は孫盛の見解を載せています。孫盛はこう言っています「これは納得できない言葉(記述)だ(此不然之言)。劉備は当時、羈旅(外地から来た客)であり、客と主では勢(勢力。力)に差がある(客主勢殊)。もしこのような変(変事。異変)があったのなら、どうして最後まで敢えて劉表の世で晏然(安閑。安らかな様子)としており、釁故(罪行。ここでは劉表による刑罰を指すと思います)がなかったのだ。これは皆、世俗の妄説であって、事実ではない。」
次回に続きます。