東漢時代391 献帝(七十三) 劉璋 張魯 201年(2)
しかし数カ月後に食糧が尽きたため、軍を還すことが議論されました。
張遼が夏侯淵に言いました「数日以来、諸囲(昌豨を包囲している諸陣)に行くたびに、昌豨がいつも属目(注目)して遼(私)を視ています。また、彼等が射る矢も少なくなっています(更稀)。これは間違いなく昌豨が心中で躊躇しているから(豨計猶豫)、力戦しないのです。遼(私)は(彼が)出てくるようにしかけて、話をすることを欲します(欲挑與語)。あるいは誘えるかもしれません(儻可誘也)。」
果たして昌豨は城壁を下りて張遼と会話をします。
その結果、昌豨が投降に同意します。
そこで、張遼は単身で三公山に登って昌豨の家に入り、妻子に拝礼しました。
曹操は昌豨を元の地に還らせました。
しかし東州人が誅滅されることを恐れて力戦したため、趙韙は敗退します。
(東州兵が)追撃して江州に至り、趙韙を殺しました。
讒言を受けて劉璋に疑われていた巴郡太守・龐羲は、趙韙が殺されると懼れを抱きました。そこで、官吏の程祁を派遣して、程祁の父である漢昌令・程畿に命令を伝え、賨兵(賨民の兵。前年参照)を集めさせました(索賨兵)。
しかし程畿はこう言いました「郡が部曲を集合させるのは、本来、乱を為すためではない。讒言・阿諛する者がいたとしても、重要なのは誠を尽くすことだ(縦有讒諛要在尽誠)。もしも(誠を尽くすことなく)異志を抱くようになったのなら、命を聞くわけにはいかない。」
龐羲は改めて程祁を派遣し、父を説得させました。しかし程畿はこう言いました「私は牧(州牧・劉璋)の恩を受けたので、節を尽くさなければならない。汝は郡吏になったのだから、自ら(太守のために)尽力するべきだ(原文「自宜效力」。『資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「程畿は『父子はそれぞれ仕えている者に対して節を尽くすべきだ』と言っている」)。不義の事は死んでも為せない。」
龐羲は怒って人を派遣し、程畿にこう伝えました「太守(龐羲)に従わなかったら禍が家に及ぶことになる!」
程畿はこう応えました「楽羊が子を食したのは(東周威烈王十八年・前408年参照)、父子の恩がなかったからではなく、大義を行うべきだったからです(大義然也)。今、程祁を羹にして畿(私)に賜ったとしても、畿(私)はそれを啜ります。」
龐羲はついに劉璋に対して厚く謝罪しました。
劉璋は程畿を抜擢して江陽太守に任命しました。
しかし劉璋は朝廷に至りませんでした。
張魯は鬼道(五斗米道)によって民を教化しました。病人には自ら過ちを告白させてから請祷(祈祷)を行います。実際は病を治すことにおいて益がありませんでしたが、小人は昏愚(暗愚)なので、競って共に仕えました。
法を犯した者は三回赦してから(三原)、刑を行いました。
長吏を置かず、全て祭酒によって治められます。
後に張魯が巴郡を襲って取りました。
『資治通鑑』胡三省注は袁山松の『後漢書』から引用して「建安二十年(215年)に漢中の安陽を分けて漢寧郡を置いた」と書いています。しかし建安二十年は張魯が曹操の攻撃を受けています。『三国志・魏書一・武帝紀』を見ると、その年(建安二十年)に漢寧郡が漢中に改められているので、漢寧郡が置かれたのはもっと前のことです。
この頃、地中で玉印を得た民がいました。
群下が張魯を尊んで漢寧王に立てようと欲します。
しかし功曹・巴西の人・閻圃が諫めて言いました「漢川の民は戸が十万を出ており(十万戸以上おり)、財が豊かで土地が肥え(財富土沃)、四面が堅固なので、上は天子を匡せば(正せば)桓・文(斉桓公・晋文公)となり、次でも(桓・文のようになれなくても)竇融のようになって富貴を失うことはありません(次及竇融不失富貴)。今は承制(天子の代わりに命を出すこと)して部署を配置しており、形勢は斬断するに足りています(既に天子の代わりに官員を任命しており、形勢は独立しているのと同じです。原文「承制署置,勢足斬断」)。わざわざ王になる必要はありません(不煩於王)。とりあえず(王号を)称さず、禍先(禍の先駆、原因)を為さないことを願います(願且不称勿為禍先)。」
張魯はこれに従いました。
次回に続きます。