東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)
冬十月辛卯(初三日)、孛星(異星。彗星の一種)が鶉尾(十二星次のひとつ)に現れました。
乙巳(十七日)、黄巾賊が済南王・劉贇を殺しました。
河間王は章帝の子・劉開(河間孝王)の家系です。劉開の後、恵王・劉政、貞王・劉建と継ぎ、安王・劉利の代になりました。
劉開には劉淑という子もおり、解瀆亭侯になりました。劉淑の子が劉萇です。
十一月、曹操が易水に至りました。
烏桓単于で代郡の普富盧、上郡の那楼がそれぞれの名王を率いて祝賀に来ました(『資治通鑑』では「烏桓単于代郡・普富盧、上郡・那楼」、『三国志・武帝紀』では「代郡烏丸行単于・普富盧、上郡烏丸行単于・那樓」です。「行単于」の「行」は「代理」の意味だと思います)。
曹操軍が帰還し、論功行賞しました。
田疇に五百戸を与えて亭侯に封じましたが、田疇はこう言いました「吾(私)は始め、劉公(劉虞)の仇に報いるために、衆を率いて遁逃しました(献帝初平四年・193年)。志義が立たなかったのに(志節を達成できなかったのに)、逆にそれによって利と為すのは、本志(本意)ではありません。」
田疇は固く辞退して受け入れませんでした。
劉備が言いました「今、天下は分裂しており、日々干戈を用いています(日尋干戈)。事会(機会)の到来にどうして終極(終わり)があるでしょう。もし今後においてこれに応じることができるなら、今回の事は恨みとするに足りません(若能応之於後者則此未足為恨也)。」
胡三省は「豪桀の言はやはり常人と同じではない」と評しています
司馬徽はこう言いました「儒生や俗士がどうして時務(時の形勢や大事)を識る(知る)ことができるでしょう(豈識時務)。時務を識る者は俊傑の中にいます。この地には自ずから(本より、以前から)伏龍と鳳雛がいます。」
『資治通鑑』胡三省注は、「劉備には梟雄の才がありながら、徐庶の一言を聞いただけで三回も車駕を動かして孔明に会いに行った。これは徐庶の材器(能力)が劉備に重んじられており、劉備がそれを信じたからに違いない」と書いています。
諸葛亮に会った劉備は人払いをしてこう言いました「漢室が傾頽(衰敗)して姦臣が竊命(専制)しているので、孤(私)は(自分の)徳も力も量らず(不度徳量力)、天下に大義を伸ばしたいと欲している(欲信大義於天下)。しかし智術が浅短なため、失敗して今日に至った(智術浅短遂用猖蹶至于今日)。それでも志はなお止まない。君はどのような計を用いるべきだと思うか(君謂計将安出)?」
諸葛亮が言いました「今、曹操は既に百万の衆を擁しており、天子を挟んで(利用して)諸侯に号令しているので(挟天子而令諸侯)、これは誠に鋒を争うことができません(曹操とは戦うべきではありません)。孫権は江東を占拠して既に三世を経歴し、国土が険阻で民が帰順しており(国険而民附)、賢能が用いられています(賢能為之用)。これは援となすことはできますが、図ることはできません(孫権は同盟して援け合うことはできても、その地を狙うことはできません)。荊州は北は漢・沔に拠り、利は南海を尽くし(南海の物資や収入を全て荊州の利益としており。原文「利尽南海」)、東は呉・会(呉と会稽)に連なり、西は巴・蜀に通じています。ここは用武の国ですが、その主は守ることができません。これは恐らく天が将軍に与えた場所です(此殆天所以資将軍也)。益州は険塞で(険阻な地形で四方が囲まれており)、沃野が千里におよぶ天府の土(地)です。しかし劉璋は闇弱で、張魯が北におり、民は豊かで国が富んでいても存恤(愛惜)を知らず、智能の士は明君を得たいと思っています。将軍は帝室の冑(後裔)であり、信義が四海に知られているので、もし荊・益を跨いで有し、その巖阻(険阻な地)を保ち、戎・越を撫和し(按撫和睦)、孫権と好を結び、内は政治を修め、外は時の変化を観れば、霸業を成すことができ、漢室を興すことができます(霸業可成漢室可興矣)。」
この故事から「水魚の交わり」という言葉ができました。
また、劉備が三回諸葛亮を訪ねた故事は「三顧の礼」として知られており、諸葛亮が劉備に回答した内容は「隆中対」とよばれています。「隆中対」は方向性を見いだせなかった劉備にとって今後の基本方針となりました。
東漢時代 諸葛亮登場
次回に続きます。