東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)

今回で東漢献帝建安十二年が終わります。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月辛卯(初三日)、孛星(異星。彗星の一種)が鶉尾(十二星次のひとつ)に現れました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙巳(十七日)、黄巾賊が済南王劉贇を殺しました。
 
済南王は本来、光武帝の子劉康(安王)の家系で、安帝延光四年125年)に孝王劉香が死んで子がいなかったため廃されていました。
霊帝熹平三年174年)霊帝が改めて河間王劉利の子劉康を済南王を立てて、霊帝の父劉萇の祭祀を奉じさせました(但し、劉萇の生前の爵位は解瀆亭侯です)
河間王は章帝の子劉開(河間孝王)の家系です。劉開の後、恵王劉政、貞王劉建と継ぎ、安王劉利の代になりました。
劉開には劉淑という子もおり、解瀆亭侯になりました。劉淑の子が劉萇です。
 
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、済南王・劉康の死後、子の劉贇が継ぎましたが、建安十二年(本年。207年)、黄巾賊に害されました。劉康と劉贇の諡号および在位年数は書かれていません。
劉贇の子劉開が跡を継ぎましたが、在位十三年で魏が漢の禅譲を受け、劉開は崇徳侯に落とされました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、曹操が易水に至りました。
烏桓単于で代郡の普富盧、上郡の那楼がそれぞれの名王を率いて祝賀に来ました(『資治通鑑』では「烏桓単于代郡普富盧、上郡那楼」、『三国志武帝紀』では「代郡烏丸行単于普富盧、上郡烏丸行単于那樓」です。「行単于」の「行」は「代理」の意味だと思います)
 
曹操軍が帰還し、論功行賞しました。
田疇に五百戸を与えて亭侯に封じましたが、田疇はこう言いました「吾(私)は始め、劉公(劉虞)の仇に報いるために、衆を率いて遁逃しました献帝初平四年193年)。志義が立たなかったのに(志節を達成できなかったのに)、逆にそれによって利と為すのは、本志(本意)ではありません。」
田疇は固く辞退して受け入れませんでした。
曹操は田疇の至心(誠心)を知り、辞退に同意してその志を奪いませんでした(許而不奪)
 
[] 『三国志蜀書二先主伝』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。
曹操が烏丸烏桓に北伐した時、劉備劉表に許を襲うように説得しましたが、劉表はこの言葉を採用できませんでした。
曹操が柳城から帰還しすると、それを聞いた劉表劉備に言いました「君の言を用いなかったために、この大会(大機会)を失うことになってしまった。」
劉備が言いました「今、天下は分裂しており、日々干戈を用いています(日尋干戈)。事会(機会)の到来にどうして終極(終わり)があるでしょう。もし今後においてこれに応じることができるなら、今回の事は恨みとするに足りません(若能応之於後者則此未足為恨也)。」
胡三省は「豪桀の言はやはり常人と同じではない」と評しています
 
[] 『三国志呉書二呉主伝』と資治通鑑』からです。
この年、孫権が西に向かって黄祖を征ち、人民を奪って還りました。
 
[] 『資治通鑑』はここで「孫権の母呉氏の病が重くなった。張昭等を引見し、後事を託して死んだ」と書いていますが、呉氏が死んだのは建安七年202年)のはずです(既述)
 
[] 『資治通鑑』からです。
琅邪の人諸葛亮は襄陽隆中に寓居(故郷を離れて居住すること)していました。
 
諸葛亮はいつも自分を管仲楽毅と比していました管仲楽毅に匹敵すると自負していました)
しかし時の人でこれを認める者はなく、ただ潁川の人徐庶と崔州平だけが確かにその通りだと考えていました(謂為信然)
崔州平は崔烈霊帝時代の三公)の子です。
 
劉備荊州におり、襄陽の人司馬徽に優秀な士について訊ねました。
司馬徽はこう言いました「儒生や俗士がどうして時務(時の形勢や大事)を識る(知る)ことができるでしょう(豈識時務)。時務を識る者は俊傑の中にいます。この地には自ずから(本より、以前から)伏龍と鳳雛がいます。」
劉備がそれは誰かと問うと、司馬徽は「諸葛孔明と龐士元です」と答えました。
孔明諸葛亮の字、士元は龐統の字です。
 
徐庶が新野で劉備に会いました。劉備徐庶の能力を認めて重んじます。
すると徐庶劉備にこう言いました「諸葛孔明臥龍です。将軍は彼に会いたいと思いませんか(将軍豈願見之乎)?」
劉備が言いました「君が共に来てくれ(君が連れて来てくれ。原文「君與俱来」)。」
徐庶が言いました「この者はその地に行って会うことはできますが、呼びつけることはできません。将軍は駕を煩わせて自ら訪問するべきです(此人可就見不可屈致也,将軍宜枉駕顧之)。」
 
こうして劉備諸葛亮を訪ねに行きました。合わせて三回足を運び、やっと諸葛亮に会います(凡三往乃見)
資治通鑑』胡三省注は、「劉備には梟雄の才がありながら、徐庶の一言を聞いただけで三回も車駕を動かして孔明に会いに行った。これは徐庶の材器(能力)劉備に重んじられており、劉備がそれを信じたからに違いない」と書いています。
 
諸葛亮に会った劉備は人払いをしてこう言いました「漢室が傾頽(衰敗)して姦臣が竊命専制しているので、孤(私)(自分の)徳も力も量らず(不度徳量力)、天下に大義を伸ばしたいと欲している(欲信大義於天下)。しかし智術が浅短なため、失敗して今日に至った(智術浅短遂用猖蹶至于今日)。それでも志はなお止まない。君はどのような計を用いるべきだと思うか(君謂計将安出)?」
諸葛亮が言いました「今、曹操は既に百万の衆を擁しており、天子を挟んで(利用して)諸侯に号令しているので(挟天子而令諸侯)、これは誠に鋒を争うことができません曹操とは戦うべきではありません)孫権は江東を占拠して既に三世を経歴し、国土が険阻で民が帰順しており(国険而民附)、賢能が用いられています(賢能為之用)。これは援となすことはできますが、図ることはできません孫権は同盟して援け合うことはできても、その地を狙うことはできません)荊州は北は漢沔に拠り、利は南海を尽くし(南海の物資や収入を全て荊州の利益としており。原文「利尽南海」)、東は呉(呉と会稽)に連なり、西は巴蜀に通じています。ここは用武の国ですが、その主は守ることができません。これは恐らく天が将軍に与えた場所です(此殆天所以資将軍也)益州は険塞で(険阻な地形で四方が囲まれており)、沃野が千里におよぶ天府の土(地)です。しかし劉璋は闇弱で、張魯が北におり、民は豊かで国が富んでいても存恤(愛惜)を知らず、智能の士は明君を得たいと思っています。将軍は帝室の冑(後裔)であり、信義が四海に知られているので、もし荊益を跨いで有し、その巖阻(険阻な地)を保ち、戎越を撫和し(按撫和睦)孫権と好を結び、内は政治を修め、外は時の変化を観れば、霸業を成すことができ、漢室を興すことができます(霸業可成漢室可興矣)。」
劉備は「善し(善)」と言いました。
 
この後、諸葛亮との情好(交情)が日に日に密になりました。
関羽張飛がこれを悦ばなかったため、劉備が説明しました「孤(私)孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ(猶魚之有水也)。諸君がこれ以上何も言わないことを願う(願諸君勿復言)。」
関羽張飛は不満を抱かなくなりました。
この故事から「水魚の交わり」という言葉ができました。
また、劉備が三回諸葛亮を訪ねた故事は「三顧の礼」として知られており、諸葛亮劉備に回答した内容は「隆中対」とよばれています。「隆中対」は方向性を見いだせなかった劉備にとって今後の基本方針となりました。
 
司馬徽は清雅な人物で、知人の鑒(人を知る鏡。人の能力を見抜く目)がありました。
同県の龐徳公は以前から重名(大きな名声)があり、司馬徽は龐徳公に兄事していました。
諸葛亮も龐徳公の家に行くといつも牀下(寝床の下)で独拝(特別な拝礼。恐らく諸葛亮だけが拝礼をしたのだと思います)し、龐徳公はそれを止めさせませんでした。
龐徳公の従子(甥)龐統は幼い時から樸鈍(朴質で聡明機敏ではないこと)で、その能力を知る者がいませんでした。しかし龐徳公と司馬徽だけは龐統を重んじます。
龐徳公は孔明を「臥龍」、士元を「鳳雛」、徳操司馬徽の字)を「水鑑(水鏡)」とよびました。そのため、司馬徽劉備と話をした時、諸葛亮と龐統を称賛して「臥龍」「鳳雛」と言いました。
 
諸葛亮に関しては『三国志蜀書五諸葛亮伝』を元に別の場所でも紹介します。

東漢時代 諸葛亮登場




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