東漢時代414 献帝(九十六) 荊州の人材 208年(6)
劉琮は曹操に投降する時、文聘を呼んで共に降ろうとしました。
しかし文聘は「聘(私)は全州を全うすることができなかったので、罪(刑罰)を待つだけです(当待罪而已)」と言いました。
文聘が言いました「先日(以前)は劉荊州を輔弼(輔佐)して国家(朝廷)を奉じることができませんでした。(その後)荊州(劉表)が没しましたが、常に漢川を拠守して土境を保全することを願っていました。生きて孤弱(劉表の後継者)を裏切ることがなければ、死んでも地下で(劉表の前で)慚愧する必要がないからです(生不負於孤弱,死無愧於地下)。しかし計は私にあるのではなく(私の力ではどうすることもできず)、ここに至ってしまいました(計不在己以至於此)。実に悲慙(悲哀慚愧)を抱いたので、早く会いに来る顔(面目)がなかったのです(実懐悲慙,無顔早見耳)。」
文聘は涙を流してむせび泣きました(歔欷流涕)。
曹操は文聘を厚く礼遇し、元の兵を統率させて江夏太守に任命しました。
西平の人・和洽(和が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、和氏は羲和(羲氏と和氏。太古に天文を管理した人物)、または卞和(和氏の璧を発見した楚人)の後代といわれています)は、冀州の土地は平坦で民が強く、英傑が利とするところ(英傑が狙う地)なので、土地が険しくて民が弱い荊州の方が依倚(身を寄せて頼ること)しやすいと判断し、劉表に従いました。劉表は上客として和洽を遇します。
しかし和洽は「本初(袁紹の字)に従わなかったのは争地を避けるためだった(辟争地也)。昏世の主とは、慣れ親しんではならない(不可黷近)。久しくしても去らなかったら讒慝(誹謗讒言)が興ることになる」と言って、(襄陽から)南の武陵に移りました。
劉望之の弟・劉廙が言いました「趙が鳴犢を殺したので、仲尼(孔子)は車輪を返しました(春秋時代、孔子が晋に向いましたが、趙簡子が賢才・鳴犢を殺したため、孔子は引き返しました)。今、兄(あなた)は、内において柳下恵(春秋時代の賢人)の和光同塵(周囲の環境と一体化すること。能力を隠して世俗と交わること)に法ることができないのなら、外において范蠡の遷化(変化。応変)を模倣するべきです。坐したまま時において自絶するのは(坐して自滅を待つのは。原文「坐而自絶於時」)、相応しくないでしょう(殆不可也)。」
劉望之はこれに従わず、暫くして害されました。
劉廙は揚州に奔りました。
南陽の人・韓曁は袁術の命を避けて山都山に移住しました。後に劉表が韓曁を招きましたが、韓曁は遁走して孱陵に住みました(『資治通鑑』胡三省注によると、山都山は南陽郡山都県の山です。孱陵県は武陵郡に属し、後に劉備が公安に改名します)。
しかし劉表が深く韓曁を恨んだため、韓曁は懼れて命に応じ、宜城長に任命されました。
河東の人・裴潜も劉表に礼重されました。しかし裴潜は秘かに王暢の孫・王粲(『資治通鑑』は「王暢の子」としていますが誤りです。『三国志・魏書二十一・王衛二劉傅伝』によると、王粲の字は仲宣といい、山陽高平の人で、曾祖父・王龔と祖父・王暢は漢の三公になりました。父は王謙といい、大将軍・何進の長史になりました)および河内の人・司馬芝にこう言いました「劉牧は霸王の才ではないのに、西伯(西周文王)を自任しようと欲している(欲西伯自処)。その失敗は近い(其敗無日矣)。」
裴潜は南の長沙に向かいました。
当時は兵を用いていたため、丞相府に参軍事(参丞相軍事)が置かれました。
漢の公府にはそれぞれ掾・属がおり、東西曹の掾は比四百石、その他の曹掾は比三百石で、属は比二百石でした。三公は天子の股肱となり、掾・属は三公の喉舌になります。魏・晋に入ってから、多い時は数十人に上りました。
しかし『資治通鑑』胡三省注は、「曹操は劉備が江陵を占拠するのを恐れたので、襄陽に到るとすぐに通過し、一日に三百里を行軍した。名士を招いて用いたのは全て江陵に至ってから為したのであり、漢濱で酒宴を設けることはできなかった。恐らく誤りだ」と書いています。
昔、上谷の人・王次仲は隷書を得意とし、始めて楷法(楷書)を為しました。
師宜官はいつも書を為す度に、(書法を盗まれないために)札を削ったり焼き捨てていました。
後に梁鵠は劉表を頼りました。
曹操はいつも梁鵠の書を帳中に懸け、また、壁に釘打って賞玩し、師宜官より勝っていると言いました。
梁鵠は字を孟黄といい、安定の人です。魏の宮殿の題署(額等に書かれた文字)は全て梁鵠の書です。
曹操が外に出て秘かに王儁に言いました「天下はもうすぐ乱れます。乱の魁(先駆け)となるのは必ずこの二人(袁紹と袁術)です。天下を救済して百姓のために命を請いたい(百姓を延命させたい)と欲するのに、先にこの二子を誅さなかったら、今すぐ乱が起きるでしょう(欲済天下為百姓請命,不先誅此二子,乱今作矣)。」
王儁が言いました「卿の言の通りなら、天下を救済するのは卿を捨てて誰がいるか(舍卿復誰)。」
二人は向かい合って笑いました。
王儁の為人は、外見は静かで内面は聡明でした。州郡三府の命に応じず、公車(政府が賢才を招くために送る馬車)が招いても到らず、禍を避けて武陵に移住しました。王儁に帰した者は百余家もありました。
帝が許を都にした時、王儁を招いて尚書にしようとしましたが、王儁はやはり就任しませんでした。
劉表は袁紹の強盛な様子を見て、秘かに袁紹と通じました。王儁が劉表に「曹公は天下の雄であり、必ず霸道を興して桓・文(斉桓公と晋文公)の功を継ぐことができる者です。今、近くを捨てて遠くに就いていますが、もし一朝の急があったとして、遥かに漠北の救いを望んでも難しいのではありませんか(不亦難乎)」と言いましたが、劉表は従いませんでした。
王儁は六十四歳の時、武陵で天寿を全うしました。曹操はそれを聞いて哀傷しました。
次回に続きます。