東漢時代414 献帝(九十六) 荊州の人材 208年(6)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[(続き)] 曹操が江陵に進軍しました。
荊州の吏民に令を下し、共に更始すること(新しい統治を始めること。原文「與之更始」)を宣言します。
その後、荊州服従した功を論じ、劉琮を青州刺史に任命して列侯に封じました。蒯越等も功が認められ、合わせて十五人が封侯されます。
 
曹操荊州の名士韓嵩、鄧義等を用いました。
幽囚されていた韓嵩献帝建安四年199年参照)を釈放して交友の礼で遇し、荊州人の優劣を條品(品評。評価)させて、優秀な者は全て抜擢任用します。
韓嵩は大鴻臚に、蒯越は光禄勳に、劉先献帝建安四年・199年参照)尚書に、鄧羲は侍中になりました。
 
荊州の大将南陽の人文聘が別に兵を率いて外に駐屯していました。
劉琮は曹操に投降する時、文聘を呼んで共に降ろうとしました。
しかし文聘は「聘(私)は全州を全うすることができなかったので、罪(刑罰)を待つだけです(当待罪而已)」と言いました。
 
曹操漢水(沔水)を渡ってから、文聘が曹操を訪ねました。
曹操が問いました「なぜ来るのが遅かったのだ(来何遅邪)?」
文聘が言いました「先日(以前)は劉荊州を輔弼(輔佐)して国家(朝廷)を奉じることができませんでした。(その後)荊州劉表が没しましたが、常に漢川を拠守して土境を保全することを願っていました。生きて孤弱劉表の後継者)を裏切ることがなければ、死んでも地下で劉表の前で)慚愧する必要がないからです(生不負於孤弱,死無愧於地下)。しかし計は私にあるのではなく(私の力ではどうすることもできず)、ここに至ってしまいました(計不在己以至於此)。実に悲慙(悲哀慚愧)を抱いたので、早く会いに来る顔(面目)がなかったのです(実懐悲慙,無顔早見耳)。」
文聘は涙を流してむせび泣きました(歔欷流涕)
曹操は愴然(悲傷の様子)として文聘の字を呼び(親愛や敬意を表します)、こう言いました「仲業よ、卿は真の忠臣である。」
曹操は文聘を厚く礼遇し、元の兵を統率させて江夏太守に任命しました。
 
以前、袁紹冀州にいた時、使者を送って汝南の士大夫を迎え入れました。
西平の人和洽(和が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、和氏は羲和(羲氏と和氏。太古に天文を管理した人物)、または卞和和氏の璧を発見した楚人)の後代といわれています)は、冀州の土地は平坦で民が強く、英傑が利とするところ(英傑が狙う地)なので、土地が険しくて民が弱い荊州の方が依倚(身を寄せて頼ること)しやすいと判断し、劉表に従いました。劉表は上客として和洽を遇します。
しかし和洽は「本初袁紹の字)に従わなかったのは争地を避けるためだった(辟争地也)。昏世の主とは、慣れ親しんではならない(不可黷近)。久しくしても去らなかったら讒慝(誹謗讒言)が興ることになる」と言って、(襄陽から)南の武陵に移りました。
 
劉表南陽の人劉望之を招聘して従事にしました。しかしその友人二人が讒毀(讒言)によって劉表に誅殺され、劉望之も正諫が劉表と合わなかったため、任官の符信を投げ捨てて帰りました(投伝告帰)
劉望之の弟劉廙が言いました「趙が鳴犢を殺したので、仲尼孔子は車輪を返しました春秋時代孔子が晋に向いましたが、趙簡子が賢才鳴犢を殺したため、孔子は引き返しました)。今、兄(あなた)は、内において柳下恵春秋時代の賢人)和光同塵(周囲の環境と一体化すること。能力を隠して世俗と交わること)に法ることができないのなら、外において范蠡の遷化(変化。応変)を模倣するべきです。坐したまま時において自絶するのは(坐して自滅を待つのは。原文「坐而自絶於時」)、相応しくないでしょう(殆不可也)。」
劉望之はこれに従わず、暫くして害されました。
劉廙は揚州に奔りました。
 
南陽の人韓曁は袁術の命を避けて山都山に移住しました。後に劉表が韓曁を招きましたが、韓曁は遁走して孱陵に住みました(『資治通鑑』胡三省注によると、山都山は南陽郡山都県の山です。孱陵県は武陵郡に属し、後に劉備が公安に改名します)
しかし劉表が深く韓曁を恨んだため、韓曁は懼れて命に応じ、宜城長に任命されました。
 
河東の人裴潜も劉表に礼重されました。しかし裴潜は秘かに王暢の孫王粲(『資治通鑑』は「王暢の子」としていますが誤りです。『三国志魏書二十一王衛二劉傅伝』によると、王粲の字は仲宣といい、山陽高平の人で、曾祖父王龔と祖父王暢は漢の三公になりました。父は王謙といい、大将軍何進の長史になりました)および河内の人司馬芝にこう言いました「劉牧は霸王の才ではないのに、西伯西周文王)を自任しようと欲している(欲西伯自処)。その失敗は近い(其敗無日矣)。」
裴潜は南の長沙に向かいました。
 
曹操荊州を占領してから、韓曁を丞相士曹属に、裴潜を参丞相軍事に、和洽、劉廙、王粲を掾属に、司馬芝を菅令に任命して、人望に従いました。
資治通鑑』胡三省注によると、丞相府には戸曹、賊曹、兵曹、鎧曹、士曹の掾属が各一人いました。兵士の三曹は曹操が置いたようです。
当時は兵を用いていたため、丞相府に参軍事(参丞相軍事)が置かれました。
漢の公府にはそれぞれ掾属がおり、東西曹の掾は比四百石、その他の曹掾は比三百石で、属は比二百石でした。三公は天子の股肱となり、掾属は三公の喉舌になります。魏晋に入ってから、多い時は数十人に上りました。
 
尚、『三国志魏書二十一王衛二劉傅伝』では、曹操が王粲を招いて丞相掾に任命し、関内侯の爵位を下賜してから、漢濱漢水の辺。襄陽付近)で宴を開き、王粲が祝賀しています。
しかし『資治通鑑』胡三省注は、「曹操劉備が江陵を占拠するのを恐れたので、襄陽に到るとすぐに通過し、一日に三百里を行軍した。名士を招いて用いたのは全て江陵に至ってから為したのであり、漢濱で酒宴を設けることはできなかった。恐らく誤りだ」と書いています。
 
以下、『三国志魏書一武帝紀』裴松之注からです。
昔、上谷の人王次仲は隷書を得意とし、始めて楷法(楷書)を為しました。
霊帝の時代になると、霊帝が書を好んだため、世に書法の能力がある者が増えました(世多能者)。その中で師宜官(人名)が最も優れており、その能力を甚だ誇っていました。
師宜官はいつも書を為す度に、(書法を盗まれないために)札を削ったり焼き捨てていました。
そこで梁鵠が版(札)の数を増やしてから(益為版)師宜官に酒を飲ませ、酔うのを待って札を盗みました。その後、梁鵠は勤勉に書法を身につけ、ついに官位が選部尚書に至りました。
かつて曹操は洛陽令(雒陽令)になりたいと思っていました。しかし梁鵠は曹操を北部尉にしました。
後に梁鵠は劉表を頼りました。
曹操によって荊州が平定されると、曹操は梁鵠を募求(奨金を懸けて探すこと)しました。懼れた梁鵠は自ら自分を縛って門を訪ねます。
すると曹操は梁鵠を軍の假司馬に配属して秘書の職務に就かせ、書に勤めることで尽力させました(使在祕書以勤書自効)
曹操はいつも梁鵠の書を帳中に懸け、また、壁に釘打って賞玩し、師宜官より勝っていると言いました。
梁鵠は字を孟黄といい、安定の人です。魏の宮殿の題署(額等に書かれた文字)は全て梁鵠の書です。
 
汝南の人王儁は字を子文といいます。若い頃、范滂や許章に知られ、南陽の人岑晊と親しくなりました。
曹操は布衣(庶民)だった頃、特に王儁を愛し、王儁も曹操には治世の具(才能)があると称していました。
袁紹と弟の袁術が母を喪い、汝南に帰って葬儀を行った時、王儁と曹操も参加しました。集まった者は三万人に上ります。
曹操が外に出て秘かに王儁に言いました「天下はもうすぐ乱れます。乱の魁(先駆け)となるのは必ずこの二人袁紹袁術です。天下を救済して百姓のために命を請いたい(百姓を延命させたい)と欲するのに、先にこの二子を誅さなかったら、今すぐ乱が起きるでしょう(欲済天下為百姓請命,不先誅此二子,乱今作矣)。」
王儁が言いました「卿の言の通りなら、天下を救済するのは卿を捨てて誰がいるか(舍卿復誰)。」
二人は向かい合って笑いました。
王儁の為人は、外見は静かで内面は聡明でした。州郡三府の命に応じず、公車(政府が賢才を招くために送る馬車)が招いても到らず、禍を避けて武陵に移住しました。王儁に帰した者は百余家もありました。
帝が許を都にした時、王儁を招いて尚書にしようとしましたが、王儁はやはり就任しませんでした。
劉表袁紹の強盛な様子を見て、秘かに袁紹と通じました。王儁が劉表に「曹公は天下の雄であり、必ず霸道を興して桓(斉桓公と晋文公)の功を継ぐことができる者です。今、近くを捨てて遠くに就いていますが、もし一朝の急があったとして、遥かに漠北の救いを望んでも難しいのではありませんか(不亦難乎)」と言いましたが、劉表は従いませんでした。
王儁は六十四歳の時、武陵で天寿を全うしました。曹操はそれを聞いて哀傷しました。
荊州を平定してから、曹操は自ら江に臨んで(長江まで行って)(霊柩)を迎え、江陵に改葬して先賢として表彰しました。
 
 
 
次回に続きます。