東漢時代423 献帝(百五) 士燮 210年(3)
孫権が言いました「孤(私)がどうして卿に経を治めて博士になることを欲するのか。ただ渉猟(広く書籍に接すること)して往事を見ることを欲するだけだ(但当渉猟見往事耳)。卿は多務と言うが、孤(私)と比べて如何だ(孰若孤)?孤(私)は常に読書しており、益となることが大いにあると思っている。」
この時から呂蒙は学問に就きました。
後に魯粛が尋陽を通った時、呂蒙と論議して大いに驚き、こう言いました「卿の今の才略は呉下の阿蒙ではなくなった(もう呉で阿蒙と呼んでいた時とは違う立派な人材になった。原文「卿今者才略,非復呉下阿蒙」。「阿蒙」の「阿」は親しい者同士が気軽に呼ぶ時につける字です)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、耒陽県は桂陽郡に属します。
魯粛が劉備に書を送りました「龐士元(士元は龐統の字です)は百里(県令)の才ではありません。治中・別駕の任に居させて始めてその驥足を展じます(才能を発揮します。原文「展其驥足」。「驥足」は良馬の足で、優れた能力の比喩です)。」
「治中」と「別駕」は治中従事と別駕従事を指し、どちらも刺史や牧を輔佐する官です。
『資治通鑑』胡三省注によると、司隸校尉に従事史十二人がおり、その中で功曹従事は人員の選抜・任用や各種政務を担当しました。州牧は功曹従事を治中従事(治中従事史)に改めました。中(官府内)にいて衆曹(諸官署)を管理します。
別駕従事史(別駕従事)は刺史(または牧)が管轄する州を巡行する時、別の伝車に乗って従いました。刺史の道案内をしたり諸事を記録します。
本文に戻ります。
しかし荊州主簿・殷観が進み出て劉備にこう言いました「もし呉の先駆となったら、進んでも蜀に克てるとは限らず、退いたら呉に乗じられることになるので、大事が去ってしまいます(進未能克蜀,退為呉所乗,即事去矣)。今はただ伐蜀(蜀討伐)に賛同するだけで、自身は諸郡を占拠したばかりなので兵を興して動くことはできないと説明するべきです(但可然賛其伐蜀而自説新拠諸郡未可興動)。間違いなく呉が敢えて我々を越えて単独で蜀を取ることはありません(呉必不敢越我而独取蜀)。この進退の計のようにすれば、呉・蜀の利を収めることができます。」
劉備はこの意見に従いました。
果たして、孫権は伐蜀の計をあきらめました。
劉備は殷観を別駕従事にしました。
この時の事は裴松之注にも記述があります。
孫権が劉備と共に蜀を取ろうと欲し、使者を送って劉備にこう伝えました「米賊・張魯が王として巴・漢におり、曹操の耳目となって益州を規図している(狙っている)。劉璋は不武なので(武勇がないので)、自ら守ることができない。もし曹操が蜀を得たら荊州が危うくなる。今、先に劉璋を攻めて取り、進んで張魯を討とうと欲する。首尾(前後)が相い連なり、呉・楚(荊州)を一統すれば(呉・楚が協力して一つになれば。原文「一統呉楚」)、たとえ十操(十人の曹操)がいたとしても憂いることはない。」
しかし劉備は自分で蜀を図りたい(取りたい)と欲していたため、同意せずこう回答しました「益州は民が富彊(富強)で土地が険阻なので、劉璋は弱いとはいえ、自らを守るに足りています。張魯は虚偽(の人)なので、曹操に対して忠を尽くすとは限りません。今、蜀・漢に師(軍)を曝して万里に転運(輸送)させ、戦に勝って攻め取り、事を挙げて利を失わないようにしようと欲しても(欲使戦克攻取挙不失利)、呉起でもその規(計画)を定めることができず、孫武でもその事を善くできません(孫武でも善処できません)。曹操には無君の心(主に仕えようとしない心。謀反の心)がありますが、奉主の名(主を奉じているという名分)を有しています。議者は曹操が赤壁で利を失ったのを見て、その力が屈し(挫折し)、再び遠志を抱くことはなくなったと言っています。しかし今、曹操は既に三分した天下の二分を有しているので(三分天下已有其二)、やがて滄海で馬に水を飲ませ、呉会(呉と会稽)で観兵(閲兵。兵力を顕示すること)することを欲するようになります。どうして甘んじてこれ(現状)を守り、坐したまま老いを待つことがあるでしょうか(何肯守此坐須老乎)。今、同盟が故(理由)なく互いに攻伐したら、曹操に枢(扉の軸)を貸し、敵をして隙に乗じさせることになるので(原文「借枢於操,使敵承其隙」。この「承」は「乗」と同義です)、長計ではありません。」
以前、蒼梧の人・士燮が交趾太守になりました。
交州刺史(恐らく「交趾刺史」の誤りです。下述します)・朱符が夷賊(少数民族)に殺されて州郡が混乱したため、士燮は上表して弟の士壹に合浦太守を担当させ(領合浦太守)、士䵋に九真太守を担当させ(領九真太守)、士武に南海太守を担当させました(領南海太守)。
士燮は体器(性格と度量)が寛厚だったため、多数の中国の士人が頼りに行きました。やがて一州の雄となり(雄長一州)、朝廷から万里も離れた辺地にいて威尊はこの上なく、出入りする時の儀衛(儀仗・警護)が甚だ盛んで、百蛮を震服(畏怖帰服)させました。
張津は鬼神の事を好み、常に絳帕頭(赤い頭巾)を被り、琴を弾き、香を焼き、道書を読み、「こうすれば教化を助けることができる」と言っていましたが、その将・區景(區が氏です)に殺されました。
『晋書・地理志下(巻十五)』にこう書かれています「漢武帝元鼎六年(前111年)、呂嘉を討平し、その地を南海・蒼梧・鬱林・合浦・日南・九真・交阯の七郡にした。(略)元封年間にまた儋耳・珠崖(珠厓)の二郡を置き、交阯刺史を設けて監督させた。昭帝始元五年(前82年)、儋耳と珠崖を廃した(実際にこの年に廃されたのは儋耳と真番の二郡です。真番郡は朝鮮に位置します)。元帝初元三年(前46年)、また珠崖郡を廃した。(略)東漢順帝永和九年(永和に九年はないので誤りです)、交阯太守・周敞が州を立てるように求めたが(交阯郡を州にするように求めたのだと思われます)、朝議はこれに同意せず、周敞を交阯刺史にした(周敞を太守から刺史にすることで権限を拡大したのだと思います)。(略)建安八年(203年)、張津が交阯刺史になり、士燮が交阯太守になった。二人は州を立てることを共に上表した。そこで(朝廷は)張津を交州牧に任命した(刺史よりも権限が大きい牧にしました)。建安十五年(210年)、番禺に移居した(交州治所が交趾郡から番禺に移りました。番禺は南海郡に属します)。」
『資治通鑑』胡三省注は「賈琮以前は全て交趾刺史で、交州刺史ではないはずだ」と書いています。賈琮がいつの刺史かははっきりしません。『三国志・呉書四・劉繇太史慈士燮伝』では朱符の死後に張津が交州刺史(交阯刺史。後に交州牧)になっているので、賈琮は朱符より前の刺史ではないかと思われます(その場合は、「朱符以前は全て交趾刺史で、交州刺史ではない」と書くのが正しいはずです)。
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朝廷は士燮に璽書を送って綏南中郎将に任命し、七郡を董督(監督)させました。領交趾太守は今までのままです。
士燮は兄弟を率いて節度を奉承しました(歩騭の指示を受け入れました)。
こうして嶺南が始めて孫権に服属しました。
次回に続きます。