東漢時代425 献帝(百七) 韓遂・馬超討伐(後) 211年(2)
二人が馬を並べて言葉を交わした時は(交馬語移時)、会話が軍事に及ぶことなく、京都の旧故(往事)だけを述べ、手を叩いて歓笑しました。
馬超等は疑いを抱きました。
後日、曹操がまた韓遂等と会って語りました。諸将が曹操に言いました「公が虜と語を交わす時、軽脱(軽率。厳重ではないこと)であってはなりません。木の行馬(馬を防ぐ柵)を造って防遏(防備・障害)と為すべきです。」
曹操は納得しました。
賊将は曹操に会った時、全て馬上で拝礼しました。
曹操を観に来た秦・胡の者達が前後に重なって集まります。
曹操が笑って彼等に言いました「汝等は曹公を観たいと欲するのか。私も人と同じだ。四目両口があるのではなく、ただ多智なだけである。」
胡人は前後して大いに見物しました。
馬超は自分の力に自信があったので、前に出て曹操を撃とうと秘かに思っていましたが、かねてから許褚の勇を聞いており、従騎の者が許褚ではないかと疑い、曹操にこう問いました「公には虎侯という者がいますが、どこですか(公有虎侯者安在)?」
馬超は動くことができず、やがてそれぞれ引き上げました。
本文に戻ります。
こうして関中が平定されました。
『孝献帝紀』注は『曹瞞伝』から引用してこう書いています。
曹操はこれに従いました。翌日になって城が建ちます。
そこで婁子伯が曹操に説いてこう言いました「今は天が寒いので、沙を積んで城と為し、水をそこに注げば、一夜で完成できます。」
夜、兵を渡らせて城を造り、翌日になると城が建ちました。
本文に戻ります。
諸将のある者が曹操に問いました「初め、賊は潼関を守っており、渭北の道には備えがありませんでした(渭北道缺)。それなのに河東から出て馮翊を撃つのではなく、逆に潼関を包囲攻撃し(原文「反守潼関」。この「守」は「包囲」の意味です)、日が経ってから(引日而後)北に渡ったのは、何故ですか(何也)?」
曹操が言いました「賊は潼関を守っていたが、もし吾(わし)が河東に入ったら、賊は必ず退いて諸津を守っただろう(引守諸津)。そうなったら西河を渡ることができなかった。だから吾(わし)は盛兵して(重兵を集めて)潼関に向かったのだ。賊が全ての衆で南を守ったから、西河の備えが虚ろになった。だから二将(徐晃、朱霊)が自由に西河を取ることができたのだ(得擅取西河)。その後、軍を率いて北に渡ったが、賊が吾(わし)と西河を争うことができなかったのは、二将の軍がいたからだ(二将が既に駐軍していたからだ)。連ねた車や樹木の柵で甬道を造って南に向かったのは、先に(敵が)勝てないようにし(安全を確保し。原文「既為不可勝」)、しかも(我々の)弱い姿を示したのだ(且以示弱)。渭水を渡って堅塁を造ってから、虜(敵)が至っても出なかったのは(我々が出撃しなかったのは)、これ(敵)を驕らせるためだ(所以驕之也)。だから賊は営塁を造らずに割地を求めた。吾(わし)が言に順じて許したのは(彼等に同意したのは)、その意に従うことで、彼等が安心して備えを設けなくさせるためだ(使自安而不為備)。(その間に)士卒の力を蓄えたので、一旦にしてこれを撃つと、いわゆる『疾雷(突然の激しい雷)は耳を蓋う暇もない(疾雷不及掩)』という状況になったのである。兵(戦略)の変化とは、元から一道(一つの道理、方法)ではない(兵之変化固非一道也)。」
馬超等が敗れてから諸将がその理由を問うと、曹操はこう言いました「関中は長遠(遼遠)なので、もし賊がそれぞれ険阻に依ったら、これを征すに一二年を要しなければ平定できなかった(征之不一二年不可定也)。しかし今、皆が来集したから、たとえその衆が多くても、互いに帰服することなく、軍には主となるに適した者もなく、一挙して滅ぼすことができた。功を為すのが容易になったので、吾(わし)はそれを喜んだのだ(為功差易,吾是以喜)。」
楊秋は曹操に降りました。
張既は流民を招いて懐柔し、県邑を興復(復興)させました。百姓が張既に帰心します。
次回に続きます。