東漢時代425 献帝(百七) 韓遂・馬超討伐(後) 211年(2)

今回は東漢献帝建安十六年の続きです。
 
[(続き)] 韓遂曹操との会見を請いました。
曹操韓遂の父と同じ年に孝廉になり韓遂の父は高齢で孝廉になったようです)曹操自身も韓遂と同輩だったため(同時儕輩)、旧交がありました。
二人が馬を並べて言葉を交わした時は(交馬語移時)、会話が軍事に及ぶことなく、京都の旧故(往事)だけを述べ、手を叩いて歓笑しました。
この時、曹操を観に来た秦・胡(関中の兵や異民族)の者達が前後に重なって集まりました。
曹操が笑って彼等に言いました「汝等は曹公を観たいと欲するのか(爾欲観曹公邪)。私も人と同じだ(亦猶人也)。四目両口があるのではなく、ただ多智なだけである。」
 
二人の会見が終わってから、馬超等が韓遂に問いました「公曹操は何を言ったか(公何言)。」
韓遂は「何も言わなかった(無所言也)」と答えます。
馬超等は疑いを抱きました。
 
曹操韓遂の会見については、『三国志武帝紀』裴松之注にも記述があります(一部重複します)
後日、曹操がまた韓遂等と会って語りました。諸将が曹操に言いました「公が虜と語を交わす時、軽脱(軽率。厳重ではないこと)であってはなりません。木の行馬(馬を防ぐ柵)を造って防遏(防備・障害)と為すべきです。」
曹操は納得しました。
賊将は曹操に会った時、全て馬上で拝礼しました。
曹操を観に来た秦・胡の者達が前後に重なって集まります。
曹操が笑って彼等に言いました「汝等は曹公を観たいと欲するのか。私も人と同じだ。四目両口があるのではなく、ただ多智なだけである。」
胡人は前後して大いに見物しました。
曹操はまた鉄騎五千を並べて十重の陣を構えました。精光耀日(「精気をみなぎらせる」「意気揚々とする」という意味だと思います)としており、賊はますます懼れ震えました。
 
三国志魏書十八二李臧文呂許典二龐閻伝』によると、曹操韓遂馬超等が単馬で会って会談した時、曹操は左右の者を従わせませんでしたが、許褚だけを連れて行きました。
馬超は自分の力に自信があったので、前に出て曹操を撃とうと秘かに思っていましたが、かねてから許褚の勇を聞いており、従騎の者が許褚ではないかと疑い、曹操にこう問いました「公には虎侯という者がいますが、どこですか(公有虎侯者安在)?」
曹操は振り返って許褚を指しました。許褚が目を見開いて馬超をにらみます。
馬超は動くことができず、やがてそれぞれ引き上げました。
この記述に対して『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「この時、馬超韓遂と共にそこにいたのではない。恐らくこの説は根拠がない誤りである(疑此説妄也)」と書いています。
 
本文に戻ります。
他日、曹操韓遂に書を送りましたが、多くの個所が點竄(文書の添削修正)されており、韓遂が書き直したようでした。
馬超等はますます韓遂を疑います。
 
(関中諸将が猜疑し合うようになったので)曹操馬超等と日を決めて会戦することにしました(克日会戦)
曹操は先に軽兵を出して戦いを挑み、久しく戦ってから虎騎を放って挟撃させ、大破して成宜李堪等を斬りました。
韓遂馬超涼州に奔り、楊秋は安定に奔ります。
こうして関中が平定されました。
 
曹操韓遂馬超討伐を『後漢書孝献帝紀』はこう書いています。
「秋九月庚戌、曹操韓遂馬超と渭南で戦い、韓遂等が大敗した。関西が平定された(関西平)。」
孝献帝紀』注は『曹瞞伝』から引用してこう書いています。
当時、婁子伯が曹操に説いてこう言いました「今は天が寒いので(今は寒い時なので)、沙を積んで城と為し、水をそこに注げば、一夜で完成できます(今天寒、可起沙為城以水灌之,可一夜而成)。」
曹操はこれに従いました。翌日になって城が建ちます。
馬超韓遂はしばしば戦いを挑んでも利がなく、(逆に)曹操が虎騎を放って挟撃し、大破しました。馬超韓遂涼州に走りました。
 
三国志武帝紀』裴松之注も『曹瞞伝』から引用していますが、少し異なります。
当時、曹操軍は渭水を渡る度に、いつも馬超の騎兵に衝突(突撃)され、営を建てることができませんでした。また、その地は沙が多いため、塁壁も築けません。
そこで婁子伯が曹操に説いてこう言いました「今は天が寒いので、沙を積んで城と為し、水をそこに注げば、一夜で完成できます。」
曹操はこれに従い、縑囊(絹の袋)を多数作って水を運びました。
夜、兵を渡らせて城を造り、翌日になると城が建ちました。
こうして曹操軍は全て渭水を渡ることができました。
 
裴松之はこれらの記述に対して「公曹操の軍は八月に潼関に至り、閏月、北に渡河した。この年の閏月は閏八月である。ここ(閏八月)に至ってどうして大寒になるだろう(至此容可大寒邪)」と否定しています。
 
本文に戻ります。
諸将のある者が曹操に問いました「初め、賊は潼関を守っており、渭北の道には備えがありませんでした(渭北道缺)。それなのに河東から出て馮翊を撃つのではなく、逆に潼関を包囲攻撃し(原文「反守潼関」。この「守」は「包囲」の意味です)、日が経ってから(引日而後)北に渡ったのは、何故ですか(何也)?」
曹操が言いました「賊は潼関を守っていたが、もし吾(わし)が河東に入ったら、賊は必ず退いて諸津を守っただろう(引守諸津)。そうなったら西河を渡ることができなかった。だから吾(わし)は盛兵して(重兵を集めて)潼関に向かったのだ。賊が全ての衆で南を守ったから、西河の備えが虚ろになった。だから二将徐晃、朱霊)が自由に西河を取ることができたのだ(得擅取西河)。その後、軍を率いて北に渡ったが、賊が吾(わし)と西河を争うことができなかったのは、二将の軍がいたからだ(二将が既に駐軍していたからだ)。連ねた車や樹木の柵で甬道を造って南に向かったのは、先に(敵が)勝てないようにし(安全を確保し。原文「既為不可勝」)、しかも(我々の)弱い姿を示したのだ(且以示弱)渭水を渡って堅塁を造ってから、虜(敵)が至っても出なかったのは(我々が出撃しなかったのは)、これ(敵)を驕らせるためだ(所以驕之也)。だから賊は営塁を造らずに割地を求めた。吾(わし)が言に順じて許したのは(彼等に同意したのは)、その意に従うことで、彼等が安心して備えを設けなくさせるためだ(使自安而不為備)(その間に)士卒の力を蓄えたので、一旦にしてこれを撃つと、いわゆる『疾雷(突然の激しい雷)は耳を蓋う暇もない(疾雷不及掩)』という状況になったのである。兵(戦略)の変化とは、元から一道(一つの道理、方法)ではない(兵之変化固非一道也)。」
 
戦が始まる前、関中諸将の一部(部隊。部衆)が到着する度に(敵である関中諸将が合流する度に)曹操はいつも喜色を浮かべました。
馬超等が敗れてから諸将がその理由を問うと、曹操はこう言いました「関中は長遠(遼遠)なので、もし賊がそれぞれ険阻に依ったら、これを征すに一二年を要しなければ平定できなかった(征之不一二年不可定也)。しかし今、皆が来集したから、たとえその衆が多くても、互いに帰服することなく、軍には主となるに適した者もなく、一挙して滅ぼすことができた。功を為すのが容易になったので、吾(わし)はそれを喜んだのだ(為功差易,吾是以喜)。」
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「当時においては関西の兵が最も精強だったが、曹操に破れたのは法制が一つではなかったからだ。」
 
冬十月、曹操長安を出て北に向かい、楊秋を征討しました。安定を包囲します。
楊秋は曹操に降りました。
曹操は楊秋の爵位を元に戻し、その地に留めて民を按撫させました。
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、楊秋は黄初(魏文帝の年号)年間に、討寇将軍に遷り、位が特進になって臨涇侯に封じられました。天寿を全うします(以寿終)
 
十二月、曹操が安定から還りました。夏侯淵を留めて長安に駐屯させ、議郎・張既を京兆尹に任命します。
張既は流民を招いて懐柔し、県邑を興復(復興)させました。百姓が張既に帰心します。
 
韓遂馬超が叛した時、弘農、馮翊の多くの県邑が呼応しましたが、河東の民だけは異心を抱きませんでした。
曹操馬超等と渭水を挟んで駐軍した時、軍食は河東だけを仰ぎました(頼りにしました)。それでも馬超等が破れてから、河東には残畜(残った蓄え)がまだ二十余万斛もありました。
曹操は河東太守杜畿の秩を増やして中二千石にしました(太守の秩は二千石です。中二千石は二千石の上になります)
 
 
 
次回に続きます。