東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)

今回は東漢献帝建安十八年です。四回に分けます。
 
東漢献帝建安十八年
癸巳 213
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹操が濡須口に進軍しました。歩騎四十万を号します。
曹操軍は孫権の江西の営を攻めて破り、都督・公孫陽を獲ました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、大江(長江)は東北に向かって流れるため、歴陽から濡須口の間を江西といいます。建業は江東に位置します。
 
孫権は衆七万を率いて曹操軍を防ぎました。双方が対峙して一月余り経ちます。
曹操孫権軍の舟船・器仗(武器)・軍伍(軍隊)が整然厳粛としているのを見て、嘆息してこう言いました「子を生むなら孫仲謀(仲謀は孫権の字です)のような子であるべきだ。劉景升(景升は劉表の字です)の児子のようだったら豚犬に過ぎない(生子当如孫仲謀。如劉景升児子,豚犬耳)。」
 
孫権曹操に牋(書信)を送ってこう伝えました「春水(春の川水)が増えているので、公は速やかに去るべきです(春水方生,公宜速去)。」
また、別紙にこう書きました「足下曹操が死ななければ、孤(私)は安寧を得られません(足下不死,孤不得安)。」
曹操は諸将に「孫権が孤(私)を騙すことはない孫権不欺孤)」と言って撤兵しました孫権の「春水方生,公宜速去」という言葉も「足下不死,孤不得安」という言葉も本心から出ている。だから「公は速く去るべき」という意見を聴き入れて引き還そう、という意味だと思います)
 
三国志・呉主伝』裴松之注が『呉歴』と『魏略』から濡須口の戦いに関する記述を引用しています。まずは『呉歴』からです(上述の内容と一部重複します)
曹操が濡須に出た時、油船(油を塗った牛皮で覆われた船)を作って夜の間に中洲に渡りました
しかし孫権が水軍を使って囲み取り、三千余人を得ます。曹操軍で没溺(戦没・溺死)した者も数千人いました。
孫権がしばしば戦いを挑みましたが、曹操は堅く守って出て来ませんでした。そこで孫権は自ら曹操の陣営に行きました。軽船に乗り、濡須口から曹操軍に入ります。
曹操軍の諸将は戦いを挑みに来た者が迫っていると思い、攻撃しようとしました。
しかし曹操は「これは孫権が自ら我が軍の部伍(部隊・軍隊)を見ようと欲したに違いない」と言い、軍中に勅令して精厳(整然厳粛)にさせ、弓弩を妄りに発することを禁じました。
孫権は五六里進んでから旋回し、鼓吹(太鼓をたたいたり笛を吹くこと)しながら還りました。
曹操孫権の舟船・器仗・軍伍が整粛としているのを見て、嘆息してこう言いました「子を生むなら孫仲謀のような子であるべきだ。劉景升の児子のようだったら豚犬に過ぎない。」
孫権曹操に牋を送ってこう伝えました「春水が増えているので、公は速やかに去るべきです。」
また、別紙にこう書きました「足下が死ななければ、孤は安寧を得られません。」
曹操は諸将に「孫権が孤を騙すことはない」と言って撤兵しました。
 
『魏略』は『呉歴』と異なり、こう書いています。
孫権が大船に乗って曹操軍を観に来ました。曹操は弓弩を乱発させます。矢が船に刺さり(原文「箭著其船」。「著」は「着」だと思います)、船の片側だけが重くなったため(船偏重)、転覆しそうになりました。すると孫権は船を旋回させ、もう一面にも矢を受けさせました。
矢が均一になって船が平らになってから(箭均船平)帰還しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚寅(初三日)献帝が詔を発して十四州を併せ、『禹貢(『尚書』の一篇)』の九州を恢復しました。
 
漢末の十四州は司・豫・冀・兗・徐・青・荊・揚・益・涼・雍・并・幽・交州を指します。
後漢書孝献帝紀』の注によると、幽・并二州を省いてその郡国を全て冀州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「司州の河東、河内、馮翊、扶風を割き、幽・并二州と合わせて全て冀州に入れた。司州の弘農と河南は豫州に入れた」としており、若干異なります)司隷校尉(司州)涼州を省いてその郡国を全て雍州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「涼州が統括していた地域と司州の京兆を雍州に入れた」としています)。交州を省いて荊州益州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「交州を荊州に入れた」としています)。こうして司・涼・幽・并・交の五州が無くなり、兗・豫・青・徐・荊・揚・冀・益・雍の九州になりました。
但し、九という数は『禹貢』と同じですが、『禹貢』には益州がなくて梁州があります(『禹貢』の梁州は漢代の益州と重なります)
 
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「曹操は自ら冀州牧を兼任したため(領冀州牧)、自分が統領する地域を拡大して天下を制しようと欲したのである。」
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
夏四月、曹操が鄴に至りました。
 
以前、曹操が譙にいた時、長江沿岸の郡県が孫権に侵略されることを恐れ、人々を徴発して内地に移住させようと欲しました。
そこで揚州別駕・蒋済に問いました「昔、孤(私)が袁本初袁紹と官渡で対軍(対峙)した時、燕と白馬の民を遷したから(建安五年・200年参照)、民は走ることができず(逃走することなく。原文「民不得走」)、賊も敢えて侵略できなかった(賊亦不敢鈔)。今、淮南の民を遷そうと欲するが如何だ?」
蒋済が答えました「当時は兵が弱く賊が強かったので、遷さなかったら必ず失うことになりました。しかし袁紹を破って以来、明公の威は天下を震わせています。民には他志(二心)がなく、人情とは故郷を想うものなので(懐土)、実に移住を喜びません(実不楽徙)。必ず(民を)不安にさせることになると懼れます(懼必不安)。」
曹操は諫言に従いませんでした。
その結果、民は逆に驚き不安になり(民転相驚)、廬江から九江、蘄春、広陵に至る十余万戸が皆、長江を東に渡ってしまいました。
こうして江西が空虚になり、合淝以南では皖城だけが残りました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、皖県は廬江郡に属します。
蘄春は当時、江夏郡に属す県で、後に呉が蘄春郡を置きます。『三国志・呉書二・呉主伝』が「自廬江、九江、蘄春、広陵」としているので、『資治通鑑』もそれに倣って廬江、九江、広陵の三郡に並べて蘄春県を書いています。
 
後に蒋済が使者の命を受けて鄴を訪ねると、曹操は蒋済を迎え入れて接見し、大笑して「本来はただ賊から避けさせようと欲しただけだったのだが、全てを駆けさせることになってしまった(本但欲使避賊,乃更駆尽之)」と言いました。
蒋済は丹陽太守に任命されます。
但し、丹陽郡は既に孫権に属しているので、実際に郡に行くことはできません。名目上の任命で、相当する俸禄を与えました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月丙申(初十日)献帝御史大夫・郗慮に符節を持たせて派遣し、曹操に策命を与えました。冀州十郡を曹操に封じて魏公にします。丞相・領冀州牧はそのままです。
 
資治通鑑』胡三省注によると、当時の冀州には河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原が属しており、全て魏国になりました。このうち趙国は、趙王・劉珪が博陵王に遷されます(下述)
 
三国志武帝紀』に策命の内容が書かれていますが、別の場所で紹介します。

東漢時代 魏公曹操(1)

東漢時代 魏公曹操(2)


三国志武帝紀』裴松之注によると、郗慮は字を鴻豫といい、山陽高平の人です。若い頃、鄭玄から学業を授かり、建安初期に侍中になりました。
かつて、献帝が特に郗慮と少府・孔融を引見した時、孔融にこう問いました「鴻豫は何を優長とするか(何に優れているか)?」
孔融が言いました「共に道に向かうことはできても、権を共にすることはできません(共に事象に精通して臨機応変に対処することはできません。原文「可與適道,未可與権」。献帝建安八年・203年参照。「権」は軽重を量って臨機応変に対処するという意味です。ここでの「未可與権」は「共に政治をすることはできない」という意味を含みます)。」
郗慮が笏を挙げて言いました「孔融は昔、北海を宰(主宰)しましたが、政治は散漫で民が流亡しました(政散民流)。その権はどこにあったのでしょう(其権安在也)。」
これがきっかけで郗慮と孔融が長短(優劣)を競いあい、不睦(不和)になったため、曹操が書を送って和解させました。
郗慮は後に光禄勳から大夫御史大夫です。建安十三年・208年参照)に遷りました。
 
本文に戻ります。
朝廷が曹操に九錫を加えました。「大輅(天子の車)・戎輅(兵車)各一輌と玄牡(黒い雄馬二駟(八頭。大輅と戎輅に四頭ずつ配されます)」「袞冕の服(帝王の礼服・礼冠)とそれに配した赤舄(赤い靴)」「軒縣の楽(諸侯が使う三面に懸ける鐘等の楽器)と六佾の舞(三十六人の舞。諸侯の舞踏の形式)」「赤い門の家に住むこと(朱戸以居)」「納陛によって登ること(原文「納陛以登」。「納陛」は殿上に登るために作られた貴人専用の階段ですが、詳細はわかりません。殿上に自由に登る権利を得たということかもしれません)」「虎賁の士(勇士)三百人」「鈇(斧)・鉞各一柄」「彤弓(赤い弓)一張・彤矢(赤い矢)百本・(黒い弓)十張、(黒い矢)千本」「秬鬯(美酒)一卣(「卣」は酒器です)とそれに配した珪瓚(玉柄の酒器)」が曹操に下賜された「九錫」です。
 
尚、『後漢書孝献帝紀』は「夏五月丙申、曹操が自ら魏公に立ち、九錫を加えた」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。