東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)
癸巳 213年
春正月、曹操が濡須口に進軍しました。歩騎四十万を号します。
曹操は孫権軍の舟船・器仗(武器)・軍伍(軍隊)が整然厳粛としているのを見て、嘆息してこう言いました「子を生むなら孫仲謀(仲謀は孫権の字です)のような子であるべきだ。劉景升(景升は劉表の字です)の児子のようだったら豚犬に過ぎない(生子当如孫仲謀。如劉景升児子,豚犬耳)。」
曹操は諸将に「孫権が孤(私)を騙すことはない(孫権不欺孤)」と言って撤兵しました(孫権の「春水方生,公宜速去」という言葉も「足下不死,孤不得安」という言葉も本心から出ている。だから「公は速く去るべき」という意見を聴き入れて引き還そう、という意味だと思います)。
曹操軍の諸将は戦いを挑みに来た者が迫っていると思い、攻撃しようとしました。
また、別紙にこう書きました「足下が死ななければ、孤は安寧を得られません。」
『魏略』は『呉歴』と異なり、こう書いています。
孫権が大船に乗って曹操軍を観に来ました。曹操は弓弩を乱発させます。矢が船に刺さり(原文「箭著其船」。「著」は「着」だと思います)、船の片側だけが重くなったため(船偏重)、転覆しそうになりました。すると孫権は船を旋回させ、もう一面にも矢を受けさせました。
矢が均一になって船が平らになってから(箭均船平)帰還しました。
漢末の十四州は司・豫・冀・兗・徐・青・荊・揚・益・涼・雍・并・幽・交州を指します。
『後漢書・孝献帝紀』の注によると、幽・并二州を省いてその郡国を全て冀州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「司州の河東、河内、馮翊、扶風を割き、幽・并二州と合わせて全て冀州に入れた。司州の弘農と河南は豫州に入れた」としており、若干異なります)。司隷校尉(司州)と涼州を省いてその郡国を全て雍州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「涼州が統括していた地域と司州の京兆を雍州に入れた」としています)。交州を省いて荊州と益州に入れました(『資治通鑑』胡三省注は「交州を荊州に入れた」としています)。こうして司・涼・幽・并・交の五州が無くなり、兗・豫・青・徐・荊・揚・冀・益・雍の九州になりました。
夏四月、曹操が鄴に至りました。
そこで揚州別駕・蒋済に問いました「昔、孤(私)が袁本初(袁紹)と官渡で対軍(対峙)した時、燕と白馬の民を遷したから(建安五年・200年参照)、民は走ることができず(逃走することなく。原文「民不得走」)、賊も敢えて侵略できなかった(賊亦不敢鈔)。今、淮南の民を遷そうと欲するが如何だ?」
蒋済が答えました「当時は兵が弱く賊が強かったので、遷さなかったら必ず失うことになりました。しかし袁紹を破って以来、明公の威は天下を震わせています。民には他志(二心)がなく、人情とは故郷を想うものなので(懐土)、実に移住を喜びません(実不楽徙)。必ず(民を)不安にさせることになると懼れます(懼必不安)。」
曹操は諫言に従いませんでした。
こうして江西が空虚になり、合淝以南では皖城だけが残りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、皖県は廬江郡に属します。
蘄春は当時、江夏郡に属す県で、後に呉が蘄春郡を置きます。『三国志・呉書二・呉主伝』が「自廬江、九江、蘄春、広陵」としているので、『資治通鑑』もそれに倣って廬江、九江、広陵の三郡に並べて蘄春県を書いています。
後に蒋済が使者の命を受けて鄴を訪ねると、曹操は蒋済を迎え入れて接見し、大笑して「本来はただ賊から避けさせようと欲しただけだったのだが、全てを駆けさせることになってしまった(本但欲使避賊,乃更駆尽之)」と言いました。
蒋済は丹陽太守に任命されます。
但し、丹陽郡は既に孫権に属しているので、実際に郡に行くことはできません。名目上の任命で、相当する俸禄を与えました。
東漢時代 魏公曹操(1)
東漢時代 魏公曹操(2)
孔融が言いました「共に道に向かうことはできても、権を共にすることはできません(共に事象に精通して臨機応変に対処することはできません。原文「可與適道,未可與権」。献帝建安八年・203年参照。「権」は軽重を量って臨機応変に対処するという意味です。ここでの「未可與権」は「共に政治をすることはできない」という意味を含みます)。」
本文に戻ります。
朝廷が曹操に九錫を加えました。「大輅(天子の車)・戎輅(兵車)各一輌と玄牡(黒い雄馬)二駟(八頭。大輅と戎輅に四頭ずつ配されます)」「袞冕の服(帝王の礼服・礼冠)とそれに配した赤舄(赤い靴)」「軒縣の楽(諸侯が使う三面に懸ける鐘等の楽器)と六佾の舞(三十六人の舞。諸侯の舞踏の形式)」「赤い門の家に住むこと(朱戸以居)」「納陛によって登ること(原文「納陛以登」。「納陛」は殿上に登るために作られた貴人専用の階段ですが、詳細はわかりません。殿上に自由に登る権利を得たということかもしれません)」「虎賁の士(勇士)三百人」「鈇(斧)・鉞各一柄」「彤弓(赤い弓)一張・彤矢(赤い矢)百本・玈弓(黒い弓)十張、玈矢(黒い矢)千本」「秬鬯(美酒)一卣(「卣」は酒器です)とそれに配した珪瓚(玉柄の酒器)」が曹操に下賜された「九錫」です。
次回に続きます。