東漢時代430 献帝(百十二) 劉備の進撃 213年(2)

今回は東漢献帝建安十八年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
大雨が降りました(大雨水)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
趙王・劉珪を博陵王に遷しました。
趙国を含む冀州が魏国として曹操に封じられたためです。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。
益州従事・広漢の人・鄭度は劉備が挙兵したと聞き、劉璋にこう言いました「左将軍劉備は懸軍(深入り)して我々を襲いましたが、その兵は万を満たさず、士衆はまだ附いておらず、軍には輜重が無く、野穀(野生の穀物だけを資(資源。食糧)としています(野穀是資)。よってその計(最良の計)巴西・梓潼(『資治通鑑』胡三省注によると、梓潼県は広漢郡に属し、西漢武帝が置きました。後に劉備が広漢郡から分けて梓潼郡を置きます)の民を全て駆って涪水以西に入れさせ、倉廩(食糧倉庫)・野穀の一切を焼き捨て(一皆焼除)、塁を高くして溝を深くし、静かにこれを待つことです(高塁深溝,静以待之)。彼が至って戦を請うても許さなければ(同意しなければ)、長い間、資(食糧)とするものが無くなり(久無所資)、百日も過ぎずに必ず自ら走ります。(彼が)走ってからこれを撃てば、必ず虜にできます(此必禽耳)。」
 
情報を聞いた劉備はこれを嫌い、法正に意見を用いました。
しかし法正は「劉璋は結局この意見を用いることができないので、憂いる必要はありません(璋終不能用,無憂也)」と言いました。
 
果たして劉璋は群下に「吾(私)は敵を拒んで民を安んじるとは聞いたことがあるが、民を動かして敵を避けるとは聞いたことがない」と言って鄭度の計を用いませんでした。
 
劉璋がその将・劉、冷苞、張任、鄧賢、呉懿等を派遣して涪で劉備を防がせましたが、皆敗れて退却し、緜竹を守りました。
三国志・先主伝』によると、張任は蜀郡の人で、家は代々寒門でしたが、若い頃から膽勇と志節があり、州に仕えて従事になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、緜竹県は広漢郡に属します。
 
呉懿劉備の軍営を訪ねて降りました。
 
劉璋は更に護軍・南陽の人・李厳、江夏の人・費観を派遣して緜竹の諸軍を監督させました。
ところが李厳と費観もその衆を率いて劉備に降りました。劉備の軍がますます強くなります。
そこで劉備は諸将を分遣して周辺の県を平定させました(原文「平下属県」。「下属の県」は広漢郡下の県だと思います)
 
張任劉璋の子・劉循と共に退いて雒城を守りました。
資治通鑑』胡三省注によると、雒県も広漢郡に属します。
 
三国志・先主伝』はここで「諸葛亮張飛趙雲等が兵を率いて泝流(川を遡ること)し、白帝、江州、江陽を定めた。関羽だけが留まって荊州を鎮守した」と書いています。『資治通鑑』は翌年に書いています。
 
劉備は兵を進めて雒城を包囲しました。
張任が兵を指揮して出陣し、雁橋で戦いましたが、軍が敗れて戦死しました。
資治通鑑』胡三省注によると、雒県南に雁江が流れており、かつて金雁がいたため、雁橋(金雁橋)と呼ばれるようになりました。
 
張任に関しては『三国志・先主伝』裴松之注が少し詳しく書いています。
劉璋張任と劉を派遣し、精兵を率いて涪で劉備に拒捍(抵抗)させました。しかし劉備に破れたため、張任は退いて劉璋の子・劉循と共に雒城を守ります。
張任が兵を率いて雁橋に出ましたが、劉備軍と戦ってまた敗れました。張任は捕えられます。
劉備張任の忠勇を聞き、軍には張任を降服させるように命じていました。しかし張任が厳しい声(厲声)で「老臣は最後まで二主に仕えることはない(老臣終不復事二主矣)」と言ったため、殺してしまいました。
劉備は嘆息して惜しみました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、魏が始めて社稷(土地神と穀物の神を祀る社)と宗廟を建てました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
魏公・曹操が三人の娘を献帝後宮に入れて貴人にしました(実際に婚礼を挙げるのは翌年です)
年少の娘は国(魏国)で適齢になるまで待つことになりました(待年於国)
 
資治通鑑』胡三省注によると、曹操の三人の娘は上から曹憲、曹節、曹華といいました。曹節は後に皇后に立てられます。
 
三国志武帝紀』裴松之注からです。
献帝は使持節・行太常・大司農・安陽亭侯・王邑に璧・帛・玄纁(黒と赤の布)・絹万匹を持たせ、鄴に送って納娉(婚姻の礼物を贈る儀式)しました。介者(介添え人)は五人いて、全て議郎の身分で大夫の事務を行います(以議郎行大夫事)。また、副介が一人いました(介者一人に副介が一人いたのだと思います)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代431 献帝(百十三) 馬超の反撃 213年(3)