東漢時代432 献帝(百十四) 馬超敗退 213年(4)

今回で東漢献帝建安十八年が終わります。
 
[(続き)] 一方、馬超は趙昂の子・趙月を質(人質)に取りました。
趙昂が妻の異(『資治通鑑』胡三省注によると、異は士氏の娘です)に言いました「吾(私)の謀はこのようであり、事は必ず万全だ。月をどうするべきだろう(当柰月何)。」
(士異)が厳しい声で答えました「君父の大恥を雪ぐのです。喪元(首を失うこと)も重とするに足りません(命も重視する必要はありません)。一子ならなおさらです(況一子哉)。」
 
九月、楊阜と姜敍が兵を進めて鹵城に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、鹵城は西県と冀県の間にあったようです。
 
趙昂と尹奉も祁山を占拠して馬超を討ちました。
 
それを聞いた馬超が激怒しました。趙衢はこれを機に馬超を騙し、自ら出撃させます。
馬超が城を出ると、趙衢と梁寛が冀城の門を閉じ、馬超の妻子を全て殺しました。
 
馬超は進退とも拠点を失ったため、歴城を襲って姜敍の母を得ました。
姜敍の母が馬超を罵って言いました「汝は父に背いた逆子、君(主)を殺した桀賊(凶暴な賊)です。天地がどうして久しく汝を許容できるでしょう。それなのに早く死なず、敢えてその面目で人に会うのですか(人に会わせる顔があるのですか。原文「而不早死敢以面目視人乎」)!」
馬超は姜敍の母を殺し、趙昂の子・趙月も殺しました。
 
楊阜は馬超と戦って体に五つの傷を追いましたが、馬超の兵を破りました。馬超は南に奔って張魯を頼ります。
張魯馬超を都講祭酒(『資治通鑑』胡三省注によると、都講祭酒は師君・張魯に次ぐ地位です)に任命し、自分の娘を馬超の妻にしようとしました。
しかしある人が張魯に「このような人は自分の親も愛せないのに、どうして人を愛せるでしょう(有人若此不愛其親,焉能愛人)」と言ったため中止しました。
 
三国志・魏書二十五・辛毗楊阜高堂隆伝』では、建安十七年212年。前年)九月に楊阜と姜敍が鹵城で挙兵し、馬超が敗れて南の張魯に奔っています。
しかし『三国志・魏書一・武帝紀』は本年(建安十八年・213年)と翌年にこう書いています
(本年)馬超が漢陽におり、また羌・胡に因って(頼って)害を為した。氐王・千万が叛して馬超に応じ、興国に駐屯した。曹操は)夏侯淵にこれを討たせた。」
(翌年正月)南安の趙衢、漢陽の尹奉等が馬超を討ち、妻子の首を斬って曝した(梟其妻子)馬超は漢中に奔った。」
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、『辛毗楊阜高堂隆伝』の「建安十七年」は「十八年」の誤りとしており、『武帝紀』が翌年正月に馬超を破ったとしているのは、捷音(勝報)が鄴に至ったのが正月だったからだ、と解説しています。
 
曹操馬超を討った功を賞して十一人を封侯し、楊阜には関内侯の爵位を下賜しました。
 
[十一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
曹操が金虎台(楼台)を築きました。
 
[十二] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
曹操が渠(水路)を掘って漳水を白溝に引き入れ、黄河に通しました。
 
[十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
冬十月、曹操が魏郡を東部と西部に分けて都尉を置きました。
 
[十四] 『三国志・魏書一・武帝紀』(裴松之注含む)と『資治通鑑』からです。
十一月、魏が初めて尚書、侍中、六卿を置きました。
荀攸尚書令に、涼茂(涼が氏、茂が名です)を僕射に、毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔を尚書に、王粲、杜襲、衛覬、和洽を侍中に、鍾繇を大理に、王脩を大司農に、袁渙を郎中令・行御史大夫事に、陳群を御史中丞にしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、魏は五曹尚書を置きました。吏部・左民・客曹・五兵・度支の五曹です。
侍中はこの後、四人が定員になりました。
「大理」は漢代の廷尉に、「郎中令」は漢代の光禄勳に当たります。
当時、御史大夫は三公だったので、御史中丞が御史台の主(長)になりました(以前は御史大夫の下に御史中丞がいましたが、御史大夫が三公になってから御史中丞は属官から外されました)
 
袁渙は受け取った賞賜を全て散じたため、家に蓄えがありませんでした。貧しくなったら人に物を求め、皦察の行(自分を律する厳しい行動)がありませんでしたが(乏則取之於人,不為皦察之行)、当時の人々は皆、その清(清廉、清白)に感服しました。
この頃、劉備が死んだと噂する者がおり、群臣は皆祝賀しましたが、袁渙だけはそれを拒否しました(袁渙はかつて劉備に挙げられて茂才になったからです。建安元年・196年参照)
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
魏公・曹操が肉刑(鼻を削ぐ「劓刑」、脚を切断する「剕刑」、去勢する「宮刑」等)を恢復したいと思い、令を発しました「昔、陳鴻臚は、死刑にも仁恩を加えられるものがあると考えた(死刑にも、仁恩を加えて肉刑に換えられるものがあると考えた。原文「陳鴻臚以為死刑有可加於仁恩者」)。御史中丞は父の論を説明することができるか?」
御史中丞は陳群です。『資治通鑑』胡三省注によると、陳群の父・陳紀は漢の大鴻臚でした。
 
陳群が答えました「臣の父・紀は、『漢が肉刑を除いて笞(刑)を増加させたのは、本来、仁惻(仁愛憐憫)から興たのに、死者が更に多くなってしまった。これは「名は軽いのに実は重い」というものだ』と考えました。名が軽かったら(人々が罪を)容易に犯し、実が重かったら民を傷つけてしまいます。そもそも、殺人は死によって償うというのは古制に合っていますが、傷人(傷害)に至っては、ある者はその体を残毀したのに、毛髪を裁剪するだけなので(ある者は相手の体をひどく傷つけたのに毛髪を切られるだけなので)、道理がありません(非其理也)。もしも古刑を用いたら、淫者は蠶室宮刑を行う部屋です)に下り、盗者はその足を切断されるので(刖其足)、永く淫放穿踰の姦(淫蕩な犯罪や穴を掘ったり壁を越えて盗みをはたらく姦悪な罪)がなくなります。三千の属(三千条の法律。西周の法で、『呂刑』または『甫刑』といいます。『資治通鑑』胡三省注によると、墨罰に属す法は千条、劓罰に属す法は千条、剕罰に属す法は五百条、宮罰に属す法は三百条、大辟の罰に属す法は二百条あり、五刑を合わせて三千条になります)は、全てを恢復させることができませんが、これらのような数者(上述した数点)は、現在において患いとなっていることなので、先に施すべきです(時之所患,宜先施用)
漢律が殺すところの殊死の罪(死罪。恐らくここでは大逆による死罪です)は、仁が及ぶところではありませんが(漢律が死刑と定めている大逆の罪には恩恵を与える必要がありませんが)、その他の死刑を待っている者は(其余逮死者)、肉刑に換えるべきです。このようにすれば、刑の執行と人を活かすことを互いに置き換えることができます(本来死刑になるはずの者を活かすことができます(生命を重視したことになります)。原文「如此則所刑之與所生足以相貿矣」)。今は不殺の刑(囚人の命を取らない肉刑)を換えて笞死の法(笞打ちによって人を殺す法)にしていますが、これは人の支体(肢体)を重んじて人の躯命(命)を軽んじることです(今は肉刑の代わりに笞打ちの刑を行っていますが、実際には笞打ちによって囚人が命を落としているので、鼻や脚を重んじて命を軽んじることになっています)。」
当時の議者では鍾繇だけが陳群と同じ意見でしたが、他の者は皆、肉刑を行うべきではないと考えました。
結局、曹操は軍事がまだ止んでいないため、衆議を顧みて中止しました。
 
[十六] 『後漢書孝献帝紀』とからです。
この年、歳星、鎮星、熒惑がそろって太微に入りました。
孝献帝紀』の注によると、この年の秋に三星が逆行して太微に入り、帝坐(星の名)を五十日間守りました。
 
[十七] 『後漢書孝献帝紀』とからです。
彭城王・劉和が死にました。
 
彭城王は明帝の子・劉恭(靖王)が封じられ、考王・劉道、頃王・劉定と継いで劉和の代になりました桓帝建和三年・149年)
後漢書・孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉和の諡号は孝王です。在位年数は六十四年に及びました。
劉和の死後、孫の劉祗が継ぎましたが、魏が漢の禅譲を受けてから崇徳侯に落とされます。
 
[十八] 『三国志・呉書十五・賀全呂周鍾離伝』からです。
この年、豫章東部の民・彭材、李玉、王海等が挙兵して賊乱(禍乱)を為し、一万余人の衆になりました。
しかし賀斉孫権の将)がこれを討平し、首悪を誅殺しました。残った者は皆、降服します。
賀斉は彼等の中から精健な者を選んで兵にし、次(劣る者)は県戸(県の民)にしました。
 
孫権が賀斉を奮武将軍に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。