東漢時代 魏公曹操(4)

曹操が魏公に封じられました。

東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)

東漢時代 魏公曹操(1)

東漢時代 魏公曹操(2)

東漢時代 魏公曹操(3)


裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)
 
(曹操)は先帝霊帝の厚恩を蒙り、位が郎署に至りました。怠惰な性格なので(受性疲怠)、意望(希望)は全て満足でき、敢えて高位を希望して顕達(名誉・名声)を望むことはありませんでした。しかしちょうど董卓が乱を為し、義によって死難すべきだったので(命を棄てて難に立ち向かうべきだったので)、敢えて身を奮って命を出し、敵の鋭気を砕いて衆を率い(摧鋒率衆)、ついに千載(一遇)の運に当たって、目下で役を奉じました(陛下の面前で任務を全うすることができました)。二袁の炎沸侵侮(盛んに侵犯侮辱すること)の際に当たっては、陛下は臣と共に心を寒くして憂いを同じくしました。京師を顧瞻(振り返って眺めること)しながら進んで猛敵を受けましたが、常に恐れたのは君臣共に虎口に陥ることであって、誠に首領(首)を全うできるとは思いませんでした(誠不自意能全首領)。しかし祖宗の霊祐(霊の助け)のおかげで、醜類を夷滅(全滅)させ、その間に微臣(私)に名声を盗ませることができました。陛下は(臣に)恩を加えて上相を授け、封爵寵禄は豊大弘厚で、生平の願いとして実に望んでいないものでした(このような恩賞は考えてもいないものでした)。口と心が計るのは(言葉にしたり心中で抱いてきた願いは。原文「口與心計」)、幸いにも暫く罪を待ち(原文「幸且待罪」。「待罪」は官位について職務を行うという意味です)、列侯の位を保持し、子孫に遺付し(残して与え)、自身は聖世(聖代。当代)に託し、永く憂責(憂慮・譴責)がないことでした。ところが図らずも陛下が盛意を発し、開国備錫(封国して九錫を備えること)を愚臣に賜りました(開国備錫以貺愚臣)。地は斉・魯に比し(斉・魯と同等で)、礼は藩王と同じなので、臣の無功によって膺拠(受け入れて占有すること)するべきものではありません。そこで情を帰して報告しましたが(原文「帰情上聞」。「帰情」は「情を込めて」「誠心誠意」、もしくは「恩情を返還して」という意味だと思います)、聴許(同意)を蒙ることなく、厳しい詔がしきりに至ったので(厳詔切至)、誠に臣の心を俯仰逼迫させました(「俯仰」は「頭を上下させること」ですが、「ある事に対処・対応する」「深く考える」という意味もあります)。伏して自らを思い省みるに(伏自惟省)(位は)大臣に列し、命は王室が制しており(命制王室)、この身は自分が有しているのではないので、どうして敢えて勝手を行い、愚意を遂げることができるでしょう(自分のわがままで詔を断ることはできません。原文「豈敢自私遂其愚意」)。また、黜退(免職。辞職)して(自分を)初服(仕官前の服装。平民の地位)に就かせることもできますが(亦将黜退令就初服)、今、疆土(領土)を奉じて藩翰(藩国)の数に備わるのは(入るのは)、敢えて(自分が高位にいる)時間が長くなることを期待し、後世に残すことを考慮したのではなく(非敢遠期慮有後世)、父子が終生において灰躯尽命(身を灰にして命を尽くすこと)・報塞厚恩(厚恩に報いて満足させること)することを誓いあうに至ったからです(至於父子相誓終身,灰軀盡命報塞厚恩)。天威が面前にあるので、懼れながら詔を受けます(天威在顔悚懼受詔)