東漢時代435 献帝(百十七) 劉備の蜀経営(前) 214年(3)
劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡して余裕がないのに、どうして人を図れるのだ(奔亡不暇何以図人)。蜀は小区とはいえ、険阻な地形が四方の辺塞を固めており、自分を守ることができる国なので、すぐに併合するのは難しい(険固四塞,独守之国,難卒并也)。」
徵士(朝廷に招かれても仕官していない人材)・傅幹が言いました(趙戩に直接答えたのではなく、趙戩の言葉を人づてに聞いて話したのだと思います)「劉備は寛仁で度(度量)があり、人の死力を得ることができる。諸葛亮は政治に精通していて変化の道理を知り(達治知変)、公正なうえに智謀があり(正而有謀)、しかも(劉備の)相になっている。張飛、関羽は勇猛なうえに義があり(勇而有義)、どちらも万人に匹敵し(皆万人之敵)、しかも(劉備の)将になっている。この三人は皆人傑である。劉備の略(雄略)があり、三傑がそれを輔佐しているのに、どうして成功しないのだ(何為不済)。」
趙戩は字を叔茂といい、京兆長陵の人です。質朴で学問を好み、言は『詩』『書』を称え(『詩』『書』に精通してしばしばその語句を引用し)、人を愛恤(愛して慈しむこと)して踈密を論じませんでした(関係が近いか遠いかに関係なく人を愛しました)。
公府に召され、朝廷に入って尚書選部郎になりました。
かつて董卓が自分の親しい者を用いて台閣(尚書台)を充たそうとしましたが(欲以所私並充台閣)、趙戩が拒んで従わなかったため、董卓は怒って趙戩を招き、殺そうとしました。それを観ていた者は皆、趙戩のために懼れましたが、趙戩は自若(平然)としています。
趙戩は董卓に会ってからも辞を引いて色を正し(原文「引辞正色」。「正色」は態度を厳粛にすることですが、「引辞」はよくわかりません。「直言を選ぶ」または「経典の言葉を引用する」といった意味かと思われます)、是非を陳述しました。董卓は凶戾(凶暴・凶悪)でしたが、最後は屈して謝りました。
後に趙戩は平陵令に遷りました。
後に五官将司馬や相国・鍾繇の長史となり、六十余歳で死にました。
本文(蜀の出来事)に戻ります。
蜀は殷盛豊楽(富裕で民が楽しんでいること)の地でした。
また、蜀城中から金銀を集めて将士に分け与え、穀帛はそれぞれの主に返しました(原文「取蜀城中金銀分賜将士,還其穀帛」。胡三省注の「凡城中公私所有金銀悉取以分賜将士,至於穀帛則各還所主也」を元に訳しました)。
偏将軍・馬超を平西将軍に(『資治通鑑』胡三省注によると、平東・平西・平南・平北の四平将軍は喪乱(禍乱)の際に立てられます)、軍議校尉・法正を蜀郡太守(蜀郡には成都が属します)・揚武将軍に、裨将軍・南陽の人・黄忠を討虜将軍に、従事中郎・麋竺を安漢将軍に(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の大将軍府に従事中郎がおり、謀議に参加しました)、簡雍を昭徳将軍に、北海の人・孫乾を秉忠将軍に(『資治通鑑』胡三省注によると、安漢・昭徳・秉忠は全て劉備が置いた将軍号です)、広漢長・黄権を偏将軍に、汝南の人・許靖を左将軍長史に、龐羲を司馬に、李厳を犍為太守に、費観を巴郡太守に、山陽の人・伊籍を従事中郎に、零陵の人・劉巴を西曹掾に、広漢の人・彭羕を益州治中従事にしました。
以前、董和は郡にいた時(この「郡」は恐らく益州郡を指します。『三国志・蜀書九・董劉馬陳董呂伝』によると、董和は南郡枝江の人ですが、漢末に宗族を率いて西に遷り、劉璋によって牛鞞長、江原長、成都令に任命され、後に益州太守になりました。その間、清約(清廉倹約)を保ちました)、清倹公直だったため、民夷(漢人と少数民族)から愛信され、蜀中が推して循吏(良吏)としました(蜀中の人々が良吏と認めました)。劉備が董和を抜擢して用いたのはそのためです。
劉備が新野から江南に奔った時、荊楚(荊州)の群人が雲のように従いましたが、劉巴だけは北に向かって曹操を訪ねました。曹操は劉巴を招聘して掾に任命し、荊州に派遣して長沙・零陵・桂陽を招納(投降を誘って受け入れること)させました。
蜀を平定した劉備は諸葛亮を股肱にし、法正を謀主にし、関羽、張飛、馬超を爪牙にし、許靖、麋竺、簡雍を賓友にしました。董和、黄権、李厳等にいたっては、元々劉璋に授用(任用)されていた者達であり(下述)、呉懿、費観等は劉璋の婚親でした(下述)。また、彭羕は劉璋に擯棄(排斥)された者(下述)、劉巴は劉備がかねてから忌恨(嫌悪怨恨)していた者です(上述)。しかし劉備は彼等を全て顕任(重要な職位)に置いてその器能(才能)を尽くさせました。そのため志がある士は皆、競って職務に励み(無不競勧)、益州の民がこれによって大いに和しました。
法正が劉備に言いました「天下には虚誉(虚名)を獲ながらその実(中身)が無い者がおり、許靖がそれです。しかし今、主公(『資治通鑑』胡三省注によると、「主公」という呼び方は東都(東漢)から始まりました。誰かに仕えたら、その人が自分の主であることを重んじるために、「明公」を改めて「主公」と呼ぶようになりました)は大業を始創したばかりであり、天下の人に一戸一戸説明することはできません(天下の人々の疑惑を完全に解くことはできません。原文「天下之人不可戸説」。『資治通鑑』胡三省注が「不可戸戸而説之」と解説しています)。敬重を加えることで遠近の望を慰めるべきです。」
次回に続きます。