東漢時代442 献帝(百二十四) 隴を得て蜀を望まず 215年(4)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。
 
[] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
張魯討伐に従っていた丞相主簿・司馬懿曹操に言いました「劉備が詐力(詐術と暴力)によって劉璋を虜にしましたが、蜀人はまだ附いておらず(帰心しておらず)、しかも遠くで江陵を争っています。この機を失ってはなりません。今は漢中に克って益州が震動しているので(『晋書・宣帝紀』は「今もし漢中で武威を輝かせれば益州が震動するので(今若曜威漢中益州震動)」ですが、ここは『資治通鑑』の「今克漢中益州震動」に従いました)、兵を進めてこれに臨めば、必ず瓦解する形勢にあります(勢必瓦解)。この勢に乗じれば容易に功力(功業)を為せます(因此之勢易為功力)。聖人は時に違えてはならず(逆らってはならず)、時を失ってもなりません(聖人不能違時亦不可失時也)。」
曹操は「人は満足しないことに苦しむものだ(人苦無足)。既に隴を得てまた蜀を望むのか(既得隴復望蜀邪)」と言って従いませんでした。
曹操の言葉はかつて光武帝が岑彭等に言った「人苦不知足,既得隴復望蜀」が元になっています光武帝建武八年・32年参照)
 
以下、『資治通鑑』からです。
劉曄曹操にこう言いました「劉備は人傑です。しかし、度(度量、または計謀)はあるものの反応が遅く(有度而遅)、蜀を得て日が浅いため蜀人もまだ頼りにできません(蜀人未恃也)。今、(我々が)漢中を破ったので、蜀人は震恐しており、自ら傾く(崩壊する)形勢にあります(其勢自傾)。公の神明をもってして、その傾(崩壊)に乗じて壓(圧)すれば、克てないはずがありません(無不克也)。もし少しでも緩めたら(攻撃を遅らせたら)諸葛亮が治国に明るいことによって相になり諸葛亮明於治国而為相)関羽張飛が三軍に冠する勇によって将になり関羽張飛勇冠三軍而為将)、蜀民が既に定まり、険阻な地に拠って要地を守るので、犯すことができなくなります。今取らなかったら必ず後の憂いになります。」
曹操はやはり従いませんでした。
 
曹操が滞在して七日後、蜀から投降した者が言いました「蜀中では一日に数十回も驚(驚動・騒乱)し、守将がそれ(騒乱を起こした者)を斬っても安んじることができません。」
資治通鑑』のこの部分は『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』裴松之注を元にしています。但し、元の文は「蜀中では一日に数十回も驚し、劉備がそれを斬っても安んじることができない(備雖斬之而不能安也)」です。
曹操が漢中を平定した時、劉備は公安(あるいは江州)にいたので、『資治通鑑』は「劉備」を「守将」に置き換えています(胡三省注参照)
 
資治通鑑』に戻ります。
曹操劉曄に問いました「今まだ(蜀を)撃つことができるか?」
劉曄が答えました「今は既に小定しています(安定し始めています)。撃つことはできません。」
 
曹操は帰還しました。夏侯淵を都護将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、「都護」は全ての諸将を護す(監督する)という意味です。光武帝が賈復を都護将軍に任命したのが始めです)に任命し、張郃徐晃等を監督して漢中を守らせます。
また、丞相長史・杜襲を駙馬都尉に任命し、漢中に留めて政務を監督させました。
杜襲が民を綏懐(按撫懐柔)・開導したため、八万余口もの百姓が自ら喜んで漢中を出て、洛(雒陽)・鄴に遷りました。
 
三国志・魏書一・武帝紀』は「十二月、曹操が南鄭から還った。夏侯淵を留めて漢中に駐屯させた」と書いていますが、『資治通鑑』は七月の事としています。『武帝紀』『資治通鑑』とも、翌年二月に鄴に到着します。
 
三国志武帝紀』裴松之注が、曹操の漢中遠征時に侍中・王粲が作った詩を紹介しています。王粲は五言詩によって遠征を称えました
「従軍には苦楽があり、ただ誰に従うかを問うだけだ(誰に従うかで従軍による苦楽が変わってくる)。従うところが神にして武であれば、どうして久しく師を労すだろう(神武の人に従えば、従軍が長くなることはない)。相公(曹操)は関右を征し、赫怒(憤怒。盛んな怒り)が天威を振るわせ、一挙して獯虜(北方の少数民族)を滅ぼし、再挙して羌夷を服させ、西は辺地の賊を牧(統治)し、その速さは俯いて落ちている物を拾う時のようだった。賞を並べたら山嶽を越え、酒肉は川坻(川岸。または川の中州)を越える。軍中は多くが饒飫(食糧が豊富なこと)で、人馬は皆溢肥(充分肥えること)している。徒行して兼乗で還り(徒歩で出征して二輌の車に乗って還り)、空で出て余資がある(何も持たずに出て還りには物資に余りがある)。土地を開いて三千里、往復は飛ぶように速く、歌舞して鄴城に入り、獲たいと願ったものは違うことがない(望んだものは間違いなく獲得する)。」
原文を載せます「従軍有苦楽,但問所従誰。所従神且武,安得久労師。相公征関右,赫怒振天威,一挙滅獯虜,再挙服羌夷,西牧辺地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乗還,空出有余資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」
 
尚、『後漢書孝献帝紀』は「秋七月、曹操が漢中を破った。張魯が降った」と書いていますが、張魯曹操に降るのは十一月の事です。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代443 献帝(百二十五) 合肥の戦い 215年(5)