東漢時代452 献帝(百三十四) 侯音叛乱 218年(2)
曹操が令を発しました「去冬(昨冬)は天が疫癘(疫病)を降し、民に凋傷(疾病死亡)があり、軍を外で興して墾田が損少(減少)したので、吾(私)は甚だこれを憂いている。よって吏民男女に令を下す。年が七十歳以上の女で夫や子がいない者(女年七十已上無夫子)、十二歳以下の若年で父母や兄弟がいない者(若年十二已下無父母兄弟)、および、目が見えず、手が作業できず、足が歩行できず、しかも妻子・父兄・産業がない者(目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄産業者)には、終生、食糧を支給する(廩食終身)。幼い者は十二歳に至ったら(支給を)停止する(幼者至十二止)。貧窮のため自分を養うことができないに者は、戸口に基いて支給する(貧窮不能自贍者隨口給貸)。老耄(老齢)のため扶養に頼っており、九十歳以上の者は、一家で一人の賦税・徭役を免除する(老耄須待養者年九十已上復不事家一人)。」
六月、曹操が令を発しました「古の葬(埋葬)は、必ず瘠薄の地(痩せた地)に居た(痩せた地が埋葬の場所に選ばれた)。よって西門豹祠の西の原上(高原の上)を寿陵(生前に建築する墓陵)とするように計画し、その高い土地を利用して基礎とし、土を盛らず樹木も植えないことにする(其規西門豹祠西原上為寿陵,因高為基不封不樹)。『周礼』では、冢人が公墓の地を掌管し、全ての諸侯が(墓陵)左右の前におり(居左右以前)、卿大夫が後ろにおり、漢制でもこれを陪陵と呼んだ。よって公卿・大臣・列将で功がある者は、寿陵に附きそうべきである(宜陪寿陵)。兆域(墓陵の領域)を広くして(功臣の陵を)容れるに足るようにせよ(其広為兆域使足相容)。」
張郃が広石に駐屯していました。
諸葛亮が従事・犍為の人・楊洪に意見を求めると、楊洪はこう言いました「漢中は益州の咽喉であり、存亡の機会(要点。要所)です。もし漢中がなくなったら、蜀もなくなります。これは家門の禍いです。発兵(出兵)の何を躊躇するのですか(発兵何疑)。」
楊洪は門下書佐・何祗(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では郡閣や諸曹にそれぞれ書佐がおり、文書を担当しました)に才策があるとして推挙しました。楊洪が蜀郡太守を勤めている間に、何祗は広漢太守になります。
そのため、西土(西方。蜀)の人々は、時の人の器用(才能)を充分発揮させることができる諸葛亮に感服しました(楊洪は李厳の官吏、何祗は楊洪の官吏でしたが、諸葛亮は短い期間に楊洪と何祗を抜擢して太守にしました。人々は優秀な人材を用いて抜擢する諸葛亮に感服しました)。
自ら戦闘に加わり、鎧に数本の矢が命中しましたが、意気がますます激烈になり(意気益厲)、勝ちに乗じて敗北した烏桓を逐い、桑乾(『資治通鑑』胡三省注によると、桑乾県は代郡に属します)の北に至って大破しました。斬首・獲生(捕虜)は千人を数えます。
こうして北方が全て平定されました。
南陽一帯の吏民が繇役に苦しんでいました。
冬十月、宛の守将・侯音等が反して吏民を劫略(脅迫。または略奪)し、宛城で守りを固めました。
南陽太守・東里袞(『資治通鑑』胡三省注によると、鄭の子産が東里に住んだため、支子が東里を氏にしました)と功曹・応余が迸竄(逃走)して脱出しましたが、侯音が騎兵を派遣して追撃させました。矢が飛び交う中(飛矢交流)、応余が身をもって東里袞をかばい、七創(傷)を負って死にます。
侯音の騎兵が東里袞を捕えて帰りました。
『三国志・魏書一・武帝紀』は「曹仁が関羽を討って樊城に駐屯していた(曹仁討関羽屯樊城)」と書いてますが、『資治通鑑』は「関羽を討つ」を省略し、「樊に駐屯して荊州を鎮守していた(曹仁屯樊以鎮荊州)」と書いています。
南陽功曹・宗子卿が侯音に会いに行き、説得して言いました「足下は民心に順じて大事を挙げました。遠近で望風しない者がいません(「望風」は動静を伺うという意味です。ここでは「敬慕」の意味かもしれません)。しかし郡将を捕えたのは、逆(人望に背くこと。道理に逆らうこと)であって無益です(然執郡将逆而無益)。何故去らせないのですか(何不遣之)。吾(私)は子(あなた)と共に戮力(尽力)します。曹公の軍が来る時には、関羽の兵も到着するでしょう。」
侯音はこれに従い、太守を放って去らせました。
そこで宗子卿も夜に乗じて城壁を越え、脱出逃亡しました。その後、太守に従って余民を集め、侯音を包囲します。
ちょうど曹仁の軍が到着したため、共に侯音を攻めました。翌年、侯音が滅ぼされます。
この年、盗賊・馬秦、高勝等が郪で挙兵しました。衆人を集めて数万人の集団を編成し、資中県に到ります。
当時、劉備は漢中にいました。
犍為太守・李厳は改めて兵を徴発することなく、郡士五千人だけを率いて討伐し、馬秦、高勝等の首を斬りました。枝党は星散し、全て民籍に戻ります。
次回に続きます。