東漢時代464 献帝(百四十六) 黄龍 220年(2)
ちょうどこの時、孫権が兵を率いて西に向かいました。
魏の朝議では、樊と襄陽には穀物が無いため防禦できないと判断します。
当時は曹仁が襄陽を鎮守しており、自分を宛に呼び戻すことを請いました。
司馬懿が曹丕に言いました「孫権は関羽を破ったばかりで、今は自ら(魏と)結ぶことを欲している時なので、敢えて患を為そうとはしません(此其欲自結之時也必不敢為患)。襄陽は水陸の衝(要衝)で、禦寇(敵を防ぐこと)の要害なので、棄ててはなりません。」
しかし曹丕はこの進言に従いませんでした。
曹仁は樊と襄陽の二城を焼いて放棄します。
以下、『三国志・魏書九・諸夏侯曹伝』からです。
孫権が将・陳邵を派遣して襄陽を占拠させたため、(魏帝となった曹丕が)詔を発して曹仁に討伐させました。曹仁は徐晃と共に陳邵を攻めて破り、襄陽に入りました(具体的な時間はわかりません。恐らく本年末か来年初めの事です)。(略)
二月丁未朔、日食がありました。
庚戌、魏王・曹丕が令を発しました「関津は商旅を通すためにあり、池苑は災荒を防禦するためにある。禁(禁令)を設けて税を重くするのは、民に利便をもたらすことにはならない(非所以便民)。よって、池籞の禁を除いて関津の税を軽くし、皆十分の一に戻せ(皆復什一)。」
辛亥、魏王・曹丕が諸侯王・将相以下、大将に至るまでの官に粟一万斛・帛千匹を下賜し、それぞれ差をつけて金銀を与えました。
使者を送って郡国を循行(巡行)させ、道理に違えて搾取・略奪する暴虐な者(違理掊克暴虐者)がいたらその罪を検挙させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、高陵は鄴城の西にありました。
臨菑の監国謁者・灌均(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は藩侯を制御するため、謁者に諸国を監督させていました)が曹丕の意思に迎合してこう上奏しました「臨菑侯・曹植は酒に浸って不敬・傲慢で(酔酒悖慢)、(魏王の)使者を劫脅(脅迫)しました。」
『資治通鑑』胡三省注によると、王莽が左右刺姦を置いて姦猾な者を監視させ、光武帝が中興した時にも刺姦将軍を置きましたが、公府(丞相府・三公府)の掾には刺姦掾という官員はいませんでした。魏・晋になってから公府に「営軍」や「刺姦」等の官員が置かれました。
(魏が)初めて散騎常侍と侍郎を各四人置きました。
今回、魏がまた散騎を置き、中常侍と合わせて一つの官にしました。これが散騎常侍です(士人を用いました)。帝王に対する忠言諫言を担当しましたが、政務は行いません(掌規諫不典事)。貂璫(貂の尾と金・銀の装飾)を冠の右に挿し(貂璫插右)、騎乗して帝王に散従(自由に従うこと)します。後には顕職(要職)になりました。
本文に戻ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、「諸署」は左‧右‧中尚方、中黄、左‧右藏、左校、甄官、奚官、黄門、掖庭、永巷、御府、鉤盾、中藏府、内者等の署を指します。
しかし司馬孚(太子中庶子だったので、曹丕の近臣の一人です)が「今は嗣王(新王)が立ったばかりなので、海内の英賢を進めて用いるべきだ。どうして際会(時機、機会)を利用して自ら薦挙するのか(如何欲因際会,自相薦挙邪)。官がその任を失ったら、(官位を)得た者も貴とするには足りない(相応しくない者に官を与えて職責が全うされなくなったら、たとえ官位を得たとしても貴ばれることはない。原文「官失其任,得者亦不足貴也」)」と言ったため、他から選ぶようになりました。
全ての州郡に中正(中正官)を置いて選挙を定めさせます。
「中正」は州郡の賢人で識鑒がある者(人の能力を見極められる者)を選んで担当させました。中正が人物を区別して高低の序列を評定します(第其高下)。
「九品官人の法」は「九品中正制」ともいいます。『資治通鑑』胡三省注によると、中正官は人材を九品(九等。上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下)に分けました。この後は「九品」が人材登用の基準になります。
三月、建安二十五年から延康元年に改元しました。
光禄大夫・橋玄が太史令・単颺に「これは何の祥ですか?」と問うと、単颺はこう答えました「その国(黄龍が現れた国)は後に王者が出て興隆します。五十年に及ばず、(黄龍が)再び現れるでしょう。天事恆象(天が常に人事を反映して起こす現象)はその応です(天事恆象此其応也)。」
内黄・殷登が黙ってこれを記録しました。
それから四十五年(足掛け)が経ちましたが、殷登はまだ健在でした。
本年三月、黄龍が譙に現れました。
それを聞いた殷登は「単颺の言はこれに符合していたのか(其験茲乎)」と言いました。
『三国志・文帝紀』裴松之注によると、この時、魏王・曹丕が殷登を召してこう言いました「昔、成風は楚丘の繇(占卜の言葉)を聞いて季友に敬事し(成風は春秋時代・魯荘公の妾です。楚丘の占を聞いて季友が賢人だと知り、敬事して子の公子・申を託しました。後に公子・申は魯釐公になります。東周恵王十七年・前660年参照)、鄧晨は少公の言を信じて自ら光武を納れた(鄧晨と蔡少公については新王莽地皇三年・22年に書きました。「自ら光武を納れた(自納光武)」というのは、光武帝と婚姻関係を結んだ、または光武帝を受け入れて協力したという意味だと思います。鄧晨の妻は光武帝の姉です)。登(汝)は篤老(老齢)をもって占術を服膺(心中で深く記憶・理解すること)し、天道を記識(記憶)している。このような事があるというのか(汝も彼等と同じなのではないか。楚丘の繇や蔡少公の言のように、汝の言にも応じることがあるのではないか。原文「豈有是乎」)。」
濊貊、扶餘の単于や焉耆、于闐の王がそれぞれ使者を送って奉献しました。
丁亥、魏王・曹丕が令を発しました「故(元)尚書僕射・毛玠、奉常・王脩、涼茂、郎中令・袁渙、少府・謝奐、万潜、中尉・徐奕、国淵等は、皆、朝(朝廷)にあって忠直で、仁義を履蹈(実践)したが、並んで早くに世を去った(並早即世)。しかも子孫は陵遅(衰退)しているので、惻然(悲傷の様子)としてこれを愍む(憐れむ)。よって皆その子男(男児)を拝して(任命して)郎中にせよ。」
次回に続きます。