東漢時代465 献帝(百四十七) 河西平定 220年(3)
夏四月丁巳、饒安県が「白雉が現れた」と報告しました。
また、太常が太牢(羊・牛・豚を犠牲にする祭祀の規格)によって宗廟を祀りました。
庚午、大将軍・夏侯惇が死にました。
曹丕は侍中・鄭称を武徳侯の傅(教育官)に任命し、令を発しました「龍淵と太阿(どちらも宝剣です)は昆吾の金(金属)から出て、和氏の璧は井里(郷里)の田から生まれた。これを磨くに砥礪(研石)をもってし(礱之以砥礪)、これを研ぐに別の山(の堅い石)をもってしたので(錯之以他山)、連城の価(連ねた城に匹敵する価値)に至ることができ、命世の宝(世に知られる宝)となったのである。学(学問)も人の砥礪(研石)である。鄭称は篤学の大儒なので、勉めて経学によって侯(曹叡)を輔佐し、旦夕に入侍して(日夜、曹叡に侍って)その志(志節)を曜明(顕揚)するべきである。」
しかも、張掖の張進が太守・杜通を捕え、酒泉の黄華も太守・辛機を受け入れず、皆、自ら太守を称して麴演に応じます。
『資治通鑑』に戻ります。
武威の三種の胡(胡人の三種族)も叛しました。
武威太守・毌丘興(毌丘が氏です)が金城太守・護羌校尉・扶風の人・蘇則に急を告げたため、蘇則が救援に行こうとしました。しかし郡の人々は皆、賊の勢いがまさに盛んな時なので、大軍を待つべきだと考えました。
当時、将軍・郝昭と魏平が先に金城に駐屯していましたが、詔によって西に渡河してはならないことになっていました。
『資治通鑑』胡三省注によると、金城と武威・張掖・酒泉は河で隔てられています。
蘇則は郡中の大吏や郝昭等に会い、謀ってこう言いました「今、賊は盛んだが、皆、合流したばかりで、あるいは脅されて従っている者もおり、同心とは限らない。その釁(隙)に乗じて撃てば、善悪が必ず離れ、(善の者は)離れたら我々に帰すので、我々が増えて彼等が損なわれる。益衆の実(兵衆を増やす実利、成果)を既に獲て、しかも倍気の勢(士気が倍増した勢い)があるなら、これを率いて進撃すれば敵を破るのは必至だ(率以進討破之必矣)。もし大軍を待ったら、長い時間を無駄に費やし(曠日彌久)、善人が(我々に)帰すことなく、必ず悪と合ってしまう(同心になってしまう)。善悪が既に合ったら(同心になったら)、それをすぐに分離させるのは困難になる(勢難卒離)。たとえ詔命があったとしても、違えることで権に合うのなら、専断も可である(詔に逆らったとしても、それが臨機応変かつ適切な方法なら、専断してもいい。原文「違而合権専之可也」)。」
郝昭等はこの意見に従いました。
こうして兵を発して武威を救援し、三種の胡を降します。
その後、蘇則等は毌丘興と共に張掖で張進を撃ちました。
それを聞いた麴演は歩騎三千を率いて蘇則を迎え入れました。表面上は蘇則軍を助けに来たと称しましたが、実際は変を為そうと欲しています。
しかし蘇則は麴演の陰謀を察知したため、誘い入れて斬り、営から出て麴演の軍に示しました。麴演の党は皆、離散逃走します。
蘇則は諸軍と共に張掖を包囲し、これを破って張進を斬りました。
張恭は子の張就を朝廷に派遣して正式に太守を送るように請います。
ちょうどその時、黄華と張進が叛しました。黄華等は敦煌と勢力を併せようと欲し、張就を捕えて白刃で脅迫します。
しかし張就は最後まで叛逆せず(終不回)、秘かに張恭に疏(書信)を送ってこう伝えました「大人(あなた)は敦煌を率厲(統率・激励)して忠義が顕然(顕著、明らかな様子)としています。どうして就(私)が困厄の中にいるからといってそれを変えられるでしょう(豈以就在困厄之中而替之哉)。今、大軍がすぐに至ります(垂至)。ただ兵を促して牽制するだけのことです(但当促兵以掎之耳)。下流の愛(匹夫や凡人の愛情。ここでは父子の愛です)のために、就(私)に黄壤(黄泉)において恨みを持たせることがないように願います(願不以下流之愛,使就有恨於黄壤也)。」
黄華は張進を救おうとしましたが、西にいる張恭の兵を顧慮して後ろを撃たれることを恐れ、前に進むこともできず、遂に懼れて投降を乞いました。
張就は平安を保ち、尹奉は郡に入ることができました。
こうして河西が平定されます。
『資治通鑑』胡三省注によると、黄華は後に兗州刺史になります。
馮翊の山賊・鄭甘と王照が衆を率いて(魏に)降りました。
どちらも列侯に封じられました。
『三国志・文帝紀』裴松之注によると、鄭甘と王照および盧水胡がその属を率いて来降した時、降書を得た魏王・曹丕がそれを朝廷に示し、こう言いました「以前、吾(私)に鮮卑を討たせようと欲した者がいたが、吾(私)は従わず、(鮮卑が)降った。また、吾(私)に今秋になったら盧水胡を討たせようと欲する者がいたが、吾(私)は聴かず、今また(盧水胡が)降った。昔、(戦国時代の)魏武侯は一謀して当たっただけで(一つの策謀が当たっただけで)自得の色(得意な様子)があり、李悝に譏られた(批難された)。吾(私)が今これを話すのは、自分が正しかったことを誇るためではない(非自是也)。ただ、坐して彼等を降したその功は、兵革(軍備。軍隊)を動かしてのものよりも大きいと考えるからだ。」
次回に続きます。