東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)

今回は東漢最後の年です。
 
東漢献帝延康元年 魏文帝黄初元年
庚子 220
正月に建安二十五年から延康元年に改元しますが、十月に漢王朝が滅んで魏王朝が始まり、再び黄初元年に改められます。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、魏王・曹操が雒陽に至りました。
 
三国志武帝紀』はここで「孫権関羽を撃って斬り、その首を(曹操)送った」と書いています。
関羽が死んだのは前年ですが、正月に首が雒陽に送られたようです。
 
庚子(二十三日)、魏王・曹操が雒陽で死にました。六十六歳でした。
 
三国志裴松之注が『世語』と『曹瞞伝』から曹操が死ぬ前の出来事を紹介しています。
まずは『世語』からです。
曹操が漢中から雒陽に至り、建始殿を建築しました。濯龍祠で木材を伐採したところ、樹から血が出ました。
 
次は『曹瞞伝』です。
曹操が工(工匠)・蘇越に命じて美しい梨の樹を移動させました。ところが、蘇越が地面を掘ると、樹木の根が傷ついて大量な血を流しました(根傷尽出血)
蘇越がこれを報告しました。
曹操は自ら見に行って嫌悪し、不祥なことだと考え、還ってから病のため臥してしまいました。
 
本文に戻ります。
曹操は遺令を残しました「天下はまだ安定していないので、古の制度を遵守することはできない(未得遵古也)。よって葬儀が終わったら、皆、喪を解け(葬畢皆除服)将兵で屯戍(駐軍・守備)している者は、皆、屯部(駐屯地)を離れてはならない。有司(官員)はそれぞれ自分の職責を尽くせ(各率乃職)。斂(「斂」は死体を棺に納めることですが、ここでは葬儀を指します)は時服(平時の服)をもってし、金玉珍宝を副葬してはならない(無藏金玉珍宝)。」
 
曹操には武王という諡号が贈られました曹丕が帝位に即いてから「武帝」に改められます)
 
以下、『資治通鑑』から曹操の評価です。
曹操は善く人を観察してその能力を知ることができ、偽りによって惑わすのは困難でした(知人善察,難眩以偽)。奇才を見極めて抜擢し(識抜奇才)、微賎な身分に拘ることなく、能力に基いて任用したため、皆が相応しい場所で用いられて能力を発揮できました(皆獲其用)
敵と対陣したら意思が安閑として(気持ちが安寧静寂で)戦いを欲していないようでしたが、ひとたび機が決して勝ちに乗じたら、気勢が満ち溢れました。
賞すべき勲労には千金も惜しみませんでしたが、功がないのに施しを望む者には分豪(分毫。極めて少ないこと。ここでは「わずかな金額」です)も与えませんでした。
法を用いたら峻急(厳格)で、罪を犯す者がいたら必ず罰し(有犯必戮)、罪を犯した者に対して涙を流すこともありましたが、最後はやはり赦しませんでした。
もともと節倹な性格で、華麗を好みませんでした。
このようであったため、群雄を滅ぼして海内をほぼ平定することができました(能芟刈群雄幾平海内)
 
三国志武帝紀』裴松之注が『魏書』『傅子』等から曹操に関する記述を引用しています。別の場所で書きます。

東漢時代 曹操


[] 『三国志・魏書二・文帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が雒陽で死んだ時、太子・曹丕は鄴にいたため、(雒陽の)軍中が騒動(騒乱)しました。
群僚は曹操の死を隠して喪を発しないように欲しましたが、諫議大夫・賈逵が隠すべきではないと判断したため、やっと喪が発せられました。
 
ある人が「諸城の守(守将)を換えて、全て譙や沛の人を用いるべきだ」と言いました。
曹氏が沛国譙の人だからです。『資治通鑑』胡三省注は「小見の者(視野が狭い者)は郷人をもって信用できると考える(以郷人為可信也)」と解説しています。
 
魏郡太守・広陵の人・徐宣が厳しい口調で言いました(厲声曰)「今は遠近が一統し、人々が效節(忠誠を尽くそうという気持ち)を抱いています(人懐效節)。なぜ譙・沛(の人)に専任して、宿衛者の心を損なう必要があるのでしょう(何必専任譙沛,以沮宿衛者之心)。」
この件は中止されました。
 
青州兵が勝手に鼓を撃って雒陽から引き上げ始めました。
衆人は青州兵を制止して従わない者は討つべきだと考えましたが、賈逵は「そのようにしてはならない(不可)」と言い、長檄(遠路を通行する者に与える各種の文書。証明書や許可書)を作って各地で官府の食糧を提供させました(令所在給其稟食)
 
鄢陵侯・曹彰曹操の子、曹丕の弟)長安から雒陽に来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、曹操が漢中から軍を還して東に向かった時、曹彰は代を平定して(建安二十三年・218年参照)西に向かい、曹操を迎えました。曹操曹彰長安に留めました。
 
雒陽に入った曹彰は賈逵に先王曹操の璽綬がどこにあるかを問いました。
しかし賈逵は色を正してこう言いました「国には儲副(副君。太子)がいます。先王の璽綬は、君侯(あなた)が問うべきことではありません。」
 
凶問曹操の訃報)が鄴に至ると、太子・曹丕は号哭して止みませんでした。
庶子・司馬孚(『資治通鑑』胡三省注によると、太子中庶子は秩六百石で、職責は侍中とほぼ同じです)が諫めて言いました「君王が晏駕(死去)し、天下は殿下が命を為すことを恃みにしています。上は宗廟のため、下は万国のためにあるべきなのに、なぜ匹夫の孝を真似るのですか(当上為宗廟,下為万国,柰何效匹夫孝也)。」
曹丕は久しくして号哭を止め、「卿の言が是である(卿の言う通りだ。原文「卿言是也」)」と言いました。
 
当時、鄴の群臣は魏王・曹操の死を聞いたばかりで、集まって哀哭し、秩序がなくなっていました(相聚哭無復行列)
そこで、司馬孚が朝廷において厳しい口調(厲声)で言いました「今は君王が違世(死去)して天下が震動しているので、早く嗣君(太子)を拝すことによって万国を鎮めるべきだ。それなのにただ哀哭しているだけなのか(而但哭邪)!」
司馬孚は群臣を解散させ(罷群臣)、禁衛を備えて喪事を治めました(宮廷の警備を手配して葬事を処理しました)
司馬孚は司馬懿の弟です。
 
『晋書・巻一・高祖宣帝紀』は曹操の葬儀に関して、こう書いています「魏武(曹操)が洛陽(雒陽)で死に、朝野が危懼したが、司馬懿が喪事を管理して(綱紀喪事)内外が粛然とした。こうして梓宮(皇帝の霊柩)を奉じて鄴に還った。」
『晋書・巻三十七・宗室伝(司馬孚伝)』には「司馬孚と尚書・和洽が群臣を解散させ(罷群臣)、禁衛を備えて喪事を具えた(準備した)」とありますが、『三国志・魏書二十三・和常楊杜趙裴伝』を見ても和洽が葬儀を行ったという記述はありません。
主に司馬懿と司馬孚の兄弟が葬儀を主催したのだと思われます。
 
本文に戻ります。
群臣は太子が即位するには詔命(漢帝の詔)を待つ必要があると考えました。
しかし尚書・陳矯がこう言いました「王が外で薨じ(死去し)、天下が惶懼(恐慌)している。太子は哀傷を抑えて即位し(割哀卽位)、そうすることで遠近の望を繋ぐべきだ(遠近の人々の望みを繋いで人心を安定させるべきだ)。しかも、愛子曹彰(霊柩の)側にいる。彼が今変を生んだら、社稷の危機になってしまう(彼此生変則社稷危矣)。」
陳矯は官員を全て集めて即位の儀礼を準備し、一日で全ての手配を終わらせました(具官備礼一日皆辨)
 
明旦(翌早朝)、王后・卞氏の令によって太子・曹丕に策書(任命書)を授け、王位に即かせました(策太子即王位)
新王の即位にともなって大赦が行われます。
 
間もなくして、漢帝献帝御史大夫・華歆を派遣しました。華歆が帝の策詔を奉じて太子・曹丕に丞相の印綬と魏王の璽綬を授け、冀州牧を兼任させます(領冀州牧)
 
三国志・文帝紀裴松之注が献帝の詔を載せています「魏の太子・丕よ、昔、皇天が汝の顕考(亡父。曹操)を授けて我が皇家を輔翼させたので、群凶を攘除し(払い除き)、九州を拓定し(開いて安定させ)、大きく盛んな功績が宇宙(全空間)に輝いている(弘功茂績光於宇宙)(そのおかげで)朕は二十余載()にわたって垂拱負扆(手をこまねいて屏風の前にいること。何もしない態度、姿勢)を用いてきた。しかし天は一老(曹操)を留めて余一人(天子の自称)を長く保全しようとは願わず(不憖遺一老,永保余一人)(魏王が)早世して神(心霊。魂)が潜ったので(隠れたので)、哀痛悲傷している(早世潜神,哀悼傷切)。丕(汝)は奕世宣明なので(代々明徳を宣揚してきたので)、文武(の権)を握って前緒(先代の業績)を大いに継承するべきだ(宜秉文武紹熙前緒)。今、使持節御史大夫(符節を持った使者で御史大夫・華歆に策詔を奉じさせ、丕に丞相の印綬と魏王の璽紱を授け、冀州牧を兼任させる(領冀州牧)。今は外に遺虜(残った敵)がおり、遐夷(遠くの異民族)がまだ賓せず服従せず)、旗鼓がまだ辺境にあり、干戈が刃を隠すことができない(干戈不得韜刃)。これは洪烈(大業)を播揚(宣揚)して、立功垂名する秋(功を立てて名を残す時)である。どうして諒闇の礼(服喪の礼)を修めて曾・閔(曾参と閔子騫孔子の弟子で、孝行によって知られています)の志を究められるだろう。よって謹んで朕の命に服し(敬服朕命)、憂懐を抑弭し(悲しんで憂いる気持ち抑え静め)、広く先代の業を敬い、いつも諸功を明らかにして、そうすることで朕の意にそえ(旁祗厥緒時亮庶功以称朕意)。ああ(於戲)、努力しなければならない(可不勉與)。」

王后卞氏を尊んで王太后にしました。
 
三国志・文帝紀』と『資治通鑑』はここで「延康に改元した」と書き、胡三省注が「これは漢の改元だが、魏志(魏の意思)である」と解説しています。
三国志・呉書二・呉主伝』も「建安二十五年春正月、曹公(曹操)が死んだ。太子・曹丕が代わって丞相・魏王になり、年を改めて延康にした」と書いています。
しかし、『後漢書孝献帝紀』は改元を三月の事としています(再述します)
 
 
 
次回に続きます。