東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)
今回は東漢最後の年です。
庚子 220年
春正月、魏王・曹操が雒陽に至りました。
関羽が死んだのは前年ですが、正月に首が雒陽に送られたようです。
まずは『世語』からです。
曹操が漢中から雒陽に至り、建始殿を建築しました。濯龍祠で木材を伐採したところ、樹から血が出ました。
次は『曹瞞伝』です。
蘇越がこれを報告しました。
曹操は自ら見に行って嫌悪し、不祥なことだと考え、還ってから病のため臥してしまいました。
本文に戻ります。
曹操は遺令を残しました「天下はまだ安定していないので、古の制度を遵守することはできない(未得遵古也)。よって葬儀が終わったら、皆、喪を解け(葬畢皆除服)。将兵で屯戍(駐軍・守備)している者は、皆、屯部(駐屯地)を離れてはならない。有司(官員)はそれぞれ自分の職責を尽くせ(各率乃職)。斂(「斂」は死体を棺に納めることですが、ここでは葬儀を指します)は時服(平時の服)をもってし、金玉珍宝を副葬してはならない(無藏金玉珍宝)。」
曹操は善く人を観察してその能力を知ることができ、偽りによって惑わすのは困難でした(知人善察,難眩以偽)。奇才を見極めて抜擢し(識抜奇才)、微賎な身分に拘ることなく、能力に基いて任用したため、皆が相応しい場所で用いられて能力を発揮できました(皆獲其用)。
敵と対陣したら意思が安閑として(気持ちが安寧静寂で)戦いを欲していないようでしたが、ひとたび機が決して勝ちに乗じたら、気勢が満ち溢れました。
賞すべき勲労には千金も惜しみませんでしたが、功がないのに施しを望む者には分豪(分毫。極めて少ないこと。ここでは「わずかな金額」です)も与えませんでした。
法を用いたら峻急(厳格)で、罪を犯す者がいたら必ず罰し(有犯必戮)、罪を犯した者に対して涙を流すこともありましたが、最後はやはり赦しませんでした。
もともと節倹な性格で、華麗を好みませんでした。
このようであったため、群雄を滅ぼして海内をほぼ平定することができました(能芟刈群雄幾平海内)。
東漢時代 曹操
群僚は曹操の死を隠して喪を発しないように欲しましたが、諫議大夫・賈逵が隠すべきではないと判断したため、やっと喪が発せられました。
ある人が「諸城の守(守将)を換えて、全て譙や沛の人を用いるべきだ」と言いました。
魏郡太守・広陵の人・徐宣が厳しい口調で言いました(厲声曰)「今は遠近が一統し、人々が效節(忠誠を尽くそうという気持ち)を抱いています(人懐效節)。なぜ譙・沛(の人)に専任して、宿衛者の心を損なう必要があるのでしょう(何必専任譙沛,以沮宿衛者之心)。」
この件は中止されました。
青州兵が勝手に鼓を撃って雒陽から引き上げ始めました。
衆人は青州兵を制止して従わない者は討つべきだと考えましたが、賈逵は「そのようにしてはならない(不可)」と言い、長檄(遠路を通行する者に与える各種の文書。証明書や許可書)を作って各地で官府の食糧を提供させました(令所在給其稟食)。
しかし賈逵は色を正してこう言いました「国には儲副(副君。太子)がいます。先王の璽綬は、君侯(あなた)が問うべきことではありません。」
中庶子・司馬孚(『資治通鑑』胡三省注によると、太子中庶子は秩六百石で、職責は侍中とほぼ同じです)が諫めて言いました「君王が晏駕(死去)し、天下は殿下が命を為すことを恃みにしています。上は宗廟のため、下は万国のためにあるべきなのに、なぜ匹夫の孝を真似るのですか(当上為宗廟,下為万国,柰何效匹夫孝也)。」
そこで、司馬孚が朝廷において厳しい口調(厲声)で言いました「今は君王が違世(死去)して天下が震動しているので、早く嗣君(太子)を拝すことによって万国を鎮めるべきだ。それなのにただ哀哭しているだけなのか(而但哭邪)!」
司馬孚は群臣を解散させ(罷群臣)、禁衛を備えて喪事を治めました(宮廷の警備を手配して葬事を処理しました)。
司馬孚は司馬懿の弟です。
『晋書・巻一・高祖宣帝紀』は曹操の葬儀に関して、こう書いています「魏武(曹操)が洛陽(雒陽)で死に、朝野が危懼したが、司馬懿が喪事を管理して(綱紀喪事)内外が粛然とした。こうして梓宮(皇帝の霊柩)を奉じて鄴に還った。」
『晋書・巻三十七・宗室伝(司馬孚伝)』には「司馬孚と尚書・和洽が群臣を解散させ(罷群臣)、禁衛を備えて喪事を具えた(準備した)」とありますが、『三国志・魏書二十三・和常楊杜趙裴伝』を見ても和洽が葬儀を行ったという記述はありません。
主に司馬懿と司馬孚の兄弟が葬儀を主催したのだと思われます。
本文に戻ります。
群臣は太子が即位するには詔命(漢帝の詔)を待つ必要があると考えました。
しかし尚書・陳矯がこう言いました「王が外で薨じ(死去し)、天下が惶懼(恐慌)している。太子は哀傷を抑えて即位し(割哀卽位)、そうすることで遠近の望を繋ぐべきだ(遠近の人々の望みを繋いで人心を安定させるべきだ)。しかも、愛子(曹彰)が(霊柩の)側にいる。彼が今変を生んだら、社稷の危機になってしまう(彼此生変則社稷危矣)。」
新王の即位にともなって大赦が行われます。
『三国志・文帝紀』裴松之注が献帝の詔を載せています「魏の太子・丕よ、昔、皇天が汝の顕考(亡父。曹操)を授けて我が皇家を輔翼させたので、群凶を攘除し(払い除き)、九州を拓定し(開いて安定させ)、大きく盛んな功績が宇宙(全空間)に輝いている(弘功茂績光於宇宙)。(そのおかげで)朕は二十余載(年)にわたって垂拱負扆(手をこまねいて屏風の前にいること。何もしない態度、姿勢)を用いてきた。しかし天は一老(曹操)を留めて余一人(天子の自称)を長く保全しようとは願わず(不憖遺一老,永保余一人)、(魏王が)早世して神(心霊。魂)が潜ったので(隠れたので)、哀痛悲傷している(早世潜神,哀悼傷切)。丕(汝)は奕世宣明なので(代々明徳を宣揚してきたので)、文武(の権)を握って前緒(先代の業績)を大いに継承するべきだ(宜秉文武紹熙前緒)。今、使持節御史大夫(符節を持った使者で御史大夫)・華歆に策詔を奉じさせ、丕に丞相の印綬と魏王の璽紱を授け、冀州牧を兼任させる(領冀州牧)。今は外に遺虜(残った敵)がおり、遐夷(遠くの異民族)がまだ賓せず(服従せず)、旗鼓がまだ辺境にあり、干戈が刃を隠すことができない(干戈不得韜刃)。これは洪烈(大業)を播揚(宣揚)して、立功垂名する秋(功を立てて名を残す時)である。どうして諒闇の礼(服喪の礼)を修めて曾・閔(曾参と閔子騫。孔子の弟子で、孝行によって知られています)の志を究められるだろう。よって謹んで朕の命に服し(敬服朕命)、憂懐を抑弭し(悲しんで憂いる気持ち抑え静め)、広く先代の業を敬い、いつも諸功を明らかにして、そうすることで朕の意にそえ(旁祗厥緒時亮庶功以称朕意)。ああ(於戲)、努力しなければならない(可不勉與)。」
次回に続きます。