東漢時代467 献帝(百四十九) 献帝譲位 220年(5)
今回で東漢時代が終わります。
当時は天下が安定したばかりで、(地方の政治はまだ混乱しており)刺史の多くが郡を統領できませんでした。
賈逵はこう言いました「州は本来、六條の詔書によって二千石以下を察(監察)した。だからその状(刺史の姿、様子)は皆、厳能(厳正で能力があること)・鷹揚(威武がある姿)で督察(監督観察)の才があると言い、安静・寛仁で愷悌の徳(親しみやすい徳)があるとは言わなかった(故其状皆言厳能鷹揚有督察之才,不言安静寛仁有愷悌之徳也)。今、長吏が法を軽視して(慢法)盗賊が公行(公然と横行)しているが、州はそれを知っても糾さない(正さない)。これで天下がどうしてまた正を取ることができるのだ(天下がどうして正しくなるのだ。原文「天下復何取正乎」)。」
そこで賈逵は、二千石以下で姦悪を庇護して法に則らない者(阿縦不如法者)を全て検挙・上奏して罷免しました。
また、外は軍旅(軍隊)を修め、内は民事を治め、陂田(山田)を興し、運渠を通したため、吏民に称賛されました。
賈逵には関内侯の爵位を下賜しました。
冬十月癸卯(初一日)、魏王・曹丕が令を発しました「諸将が征伐した際、士卒で死亡した者の中には、まだ收斂(棺に納めること)されていない者もいる。吾(私)は甚だこれを哀れむ。よって郡国に告げる。槥櫝(棺)を支給して殯斂(死体を棺に納めること)し、その家に送致して(送り届けて)官が設祭をなせ(官が祭品を準備して葬儀を行え)。」
左中郎将・李伏、太史丞・許芝が上表しました「魏が漢に代わるべきだということは、図緯(預言書)において見られ、この事例は甚だたくさんあります(魏当代漢見於図緯,其事衆甚)。」
冬十月乙卯(十三日)、漢帝(献帝)は衆望が魏にあると考え、群臣・卿士を召して高廟で告祠(報告の祭祀)し、行御史大夫(御史大夫代行。尚、「行御史大夫」としているのは『資治通鑑』で、『三国志・文帝紀』では「兼御史大夫」、『後漢書・孝献帝紀』の注では「太常」、『三国志・文帝紀』の注では「行御史大夫事・太常」です)・張音に符節を持って璽綬・詔册(皇帝の文書)を奉じさせ、魏に帝位を譲りました(禅位于魏)。
献帝が冊(詔書)によって曹丕にこう伝えました「ああ、汝、魏王よ(咨爾魏王)、昔、帝堯は虞舜に禅位(譲位)し、舜もまたこれを禹に命じた。天命は常ではなく(不変ではなく)、ただ徳がある者に帰すのだ。漢道は陵遅(衰退)し、代々秩序が失われ(世失其序)、朕の身に(天命が)降り及ぶと(降及朕躬)、大乱によってますます暗くなり(大乱茲昏)、群兇(群凶)が肆逆(放縦謀反)して宇内(天下)が顛覆した。しかし武王の神武に頼って(曹操の神武のおかげで)、四方においてこの難から救い(拯茲難於四方)、区夏(中華。中原)を清めることで我が宗廟を保ち安んじることができた(惟清区夏以保綏我宗廟)。予一人(天子の自称)だけが乂(安寧)を得たのだろうか。九服(天下全土)に対して実にその賜(恩恵)を受けさせたのである。今、王(曹丕)は謹んで前緒(先王の事業)を継承し(欽承前緒)、汝の徳を輝かせ(光于乃徳)、文武の大業を拡大し(恢文武之大業)、汝の父の偉業を明らかにした(昭爾考之弘烈)。皇霊が瑞(瑞祥)を降し、人・神が徵(吉兆)を告げ、(天命を)大いに明るくして(衆人が)朕に命(天命)を献言し(原文「誕惟亮采師錫朕命」。「亮采」には「政治を輔佐する」という意味がありますが、前後の内容とつながらないようなので、「亮彩」と解釈して「明るくする」と訳しました。誤りかもしれません。「師錫」は衆人が献言することです)、皆が汝(曹丕)の度量なら虞舜と同じようになれると言っている(僉曰爾度克協于虞舜)。よって我が『唐典(堯の故事、教え。漢帝は堯の子孫を名乗っていました)』に遵守し、恭しく汝に位を譲ろう(用率我唐典,敬遜爾位)。ああ(於戲)、天の歴数は爾躬(汝の身)にある。誠実に中庸を執れば、天禄(天の福)が永久になる(允執其中,天禄永終)。君は恭しく大礼に順じ、この万国を満足させ(饗茲万国)、そうすることで粛々と天命を受け入れよ(君其祗順大礼,饗茲万国,以粛承天命)。」
献帝はこう言いました「朕は位にあること三十二載(年)になり、天下の蕩覆(転覆)に遭ったが、幸いにも祖宗の霊に頼り、危機からまた存続に転じた(危而復存)。しかし天文を仰瞻し(仰ぎ見て)、民心を俯察するに(俯いて観察するに)、炎精の数(火徳の命数)は既に終わり、運気は曹氏において巡っている(行運在乎曹氏)。そのため、前王(曹操)は既に神武の績を樹立し、今王(曹丕)もまた明徳を光曜させることでその期(時期)に応じている。これによって、暦数の昭明は(暦数が明らかであることは)誠に知ることができるのである(信可知矣)。大道が行われたら、天下は公のものとなり(天下為公)、賢と能を選ぶものだ(大道が行われたら天下を私物化することがないので、賢才で能力がある者を選んで天子にするものだ)。だから唐堯は私情によってその子を立てることなく(不私於厥子)、(舜に帝位を譲ったので)名が無窮に伝えられた。朕はこれを羨み敬慕するので(羨而慕焉)、今、『堯典』の踵を追い(後を追い)、魏王に位を譲ることにする(禅位于魏王)。」
本文に戻ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、曹丕は南巡して潁川潁陰県に到ったところでした。曲蠡の繁陽亭に壇が築かれます。その地は許から南七十里の地にあり、東に高さ七丈・方五十歩の台を、南に高さ二丈・方三十歩の壇を造りました。この年、繁陽が繁昌県に改められました。
百官が陪位(同席)します。
また、『後漢書・皇后紀下』にこのような記述があります。
これが何回も繰り返されてから、皇后は使者を呼んで中に入れ、自ら譴責して璽を軒下に投げ、顔中に涙を流して「天は汝(魏)に福を与えないでしょう(天不祚爾)!」と言いました。
左右に仕える者で皇后を仰視できる者はいませんでした。
東漢時代 魏文帝即位(1)
次回から三国時代(魏)に入ります。