東漢時代467 献帝(百四十九) 献帝譲位 220年(5)

今回で東漢時代が終わります。
 
[三十] 『資治通鑑』からです。
魏王・曹丕が丞相祭酒・賈逵を豫州刺史に任命しました。
 
当時は天下が安定したばかりで、(地方の政治はまだ混乱しており)刺史の多くが郡を統領できませんでした。
賈逵はこう言いました「州は本来、六條の詔書によって二千石以下を察(監察)した。だからその状(刺史の姿、様子)は皆、厳能(厳正で能力があること)・鷹揚(威武がある姿)で督察(監督観察)の才があると言い、安静・寛仁で愷悌の徳(親しみやすい徳)があるとは言わなかった(故其状皆言厳能鷹揚有督察之才,不言安静寛仁有愷悌之徳也)。今、長吏が法を軽視して(慢法)盗賊が公行(公然と横行)しているが、州はそれを知っても糾さない(正さない)。これで天下がどうしてまた正を取ることができるのだ(天下がどうして正しくなるのだ。原文「天下復何取正乎」)。」
そこで賈逵は、二千石以下で姦悪を庇護して法に則らない者(阿縦不如法者)を全て検挙・上奏して罷免しました。
また、外は軍旅(軍隊)を修め、内は民事を治め、陂田(山田)を興し、運渠を通したため、吏民に称賛されました。
 
魏王・曹丕は「賈逵は真の刺史だ(真刺史矣)」と言って天下に布告し、豫州を法(規範。見本)にさせました。
賈逵には関内侯の爵位を下賜しました。
 
[三十一] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
冬十月癸卯(初一日)、魏王・曹丕が令を発しました「諸将が征伐した際、士卒で死亡した者の中には、まだ收斂(棺に納めること)されていない者もいる。吾()は甚だこれを哀れむ。よって郡国に告げる。槥櫝(棺)を支給して殯斂(死体を棺に納めること)し、その家に送致して(送り届けて)官が設祭をなせ(官が祭品を準備して葬儀を行え)。」
 
[三十二] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
丙午(初四日)曹丕が曲蠡に至りました。
 
[三十三] 『後漢書孝献帝紀』からです。
乙卯(十三日)、皇帝(献帝)が遜位(譲位)して魏王・曹丕が天子を称しました。
 
三国志・蜀書二・先主伝』は「魏文帝が尊号を称し、黄初に改元した」と書き、『三国志・呉書二・呉主伝』は「冬、魏の嗣王曹丕が尊号を称し、黄初に改元した」と書いています。
 
以下、『三国志・魏書二・文帝紀』と『後漢書孝献帝紀』の注および『資治通鑑』から詳しく書きます。
左中郎将・李伏、太史丞・許芝が上表しました「魏が漢に代わるべきだということは、図緯(預言書)において見られ、この事例は甚だたくさんあります(魏当代漢見於図緯,其事衆甚)。」
資治通鑑』胡三省注によると、李伏は『孔子玉板』から、許芝は『春秋漢含孳』『玉板讖』『佐助期』『孝経中黄讖』『易運期讖』から引用しています。
 
群臣がこれを機に上表し、魏王・曹丕に天人の望に順じるように勧めましたが、曹丕は同意しませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、曹丕に即位を進めたのは辛毗、劉曄、傅巽、衛臻、桓階、陳矯、陳群、蘇林、董巴で、司馬懿、鄭渾、羊祕、鮑勛もそれに続きました。
 
冬十月乙卯(十三日)、漢帝献帝は衆望が魏にあると考え、群臣・卿士を召して高廟で告祠(報告の祭祀)し、行御史大夫御史大夫代行。尚、「行御史大夫」としているのは『資治通鑑』で、『三国志・文帝紀』では「兼御史大夫」、『後漢書孝献帝紀』の注では「太常」、『三国志・文帝紀』の注では「御史大夫事・太常」です・張音に符節を持って璽綬・詔册(皇帝の文書)を奉じさせ、魏に帝位を譲りました(禅位于魏)
 
献帝が冊(詔書)によって曹丕にこう伝えました「ああ、汝、魏王よ(咨爾魏王)、昔、帝堯は虞舜に禅位(譲位)し、舜もまたこれを禹に命じた。天命は常ではなく(不変ではなく)、ただ徳がある者に帰すのだ。漢道は陵遅(衰退)し、代々秩序が失われ(世失其序)、朕の身に(天命が)降り及ぶと(降及朕躬)、大乱によってますます暗くなり(大乱茲昏)、群兇(群凶)が肆逆(放縦謀反)して宇内(天下)が顛覆した。しかし武王の神武に頼って曹操の神武のおかげで)、四方においてこの難から救い(拯茲難於四方)、区夏(中華。中原)を清めることで我が宗廟を保ち安んじることができた(惟清区夏以保綏我宗廟)。予一人(天子の自称)だけが乂(安寧)を得たのだろうか。九服(天下全土)に対して実にその賜(恩恵)を受けさせたのである。今、王(曹丕)は謹んで前緒(先王の事業)を継承し(欽承前緒)、汝の徳を輝かせ(光于乃徳)、文武の大業を拡大し(恢文武之大業)、汝の父の偉業を明らかにした(昭爾考之弘烈)。皇霊が瑞(瑞祥)を降し、人・神が徵(吉兆)を告げ、(天命を)大いに明るくして(衆人が)朕に命(天命)を献言し(原文「誕惟亮采師錫朕命」。「亮采」には「政治を輔佐する」という意味がありますが、前後の内容とつながらないようなので、「亮彩」と解釈して「明るくする」と訳しました。誤りかもしれません。「師錫」は衆人が献言することです)、皆が汝曹丕の度量なら虞舜と同じようになれると言っている(僉曰爾度克協于虞舜)。よって我が『唐典(堯の故事、教え。漢帝は堯の子孫を名乗っていました)』に遵守し、恭しく汝に位を譲ろう(用率我唐典,敬遜爾位)。ああ(於戲)、天の歴数は爾躬(汝の身)にある。誠実に中庸を執れば、天禄(天の福)が永久になる(允執其中,天禄永終)。君は恭しく大礼に順じ、この万国を満足させ(饗茲万国)、そうすることで粛々と天命を受け入れよ(君其祗順大礼,饗茲万国,以粛承天命)。」
 
三国志・文帝紀裴松之注は献帝が天下に向けた詔も載せています。
献帝はこう言いました「朕は位にあること三十二載()になり、天下の蕩覆(転覆)に遭ったが、幸いにも祖宗の霊に頼り、危機からまた存続に転じた(危而復存)。しかし天文を仰瞻し(仰ぎ見て)、民心を俯察するに(俯いて観察するに)、炎精の数(火徳の命数)は既に終わり、運気は曹氏において巡っている(行運在乎曹氏)。そのため、前王(曹操)は既に神武の績を樹立し、今王曹丕もまた明徳を光曜させることでその期(時期)に応じている。これによって、暦数の昭明は(暦数が明らかであることは)誠に知ることができるのである(信可知矣)。大道が行われたら、天下は公のものとなり天下為公、賢と能を選ぶものだ(大道が行われたら天下を私物化することがないので、賢才で能力がある者を選んで天子にするものだ)。だから唐堯は私情によってその子を立てることなく(不私於厥子)(舜に帝位を譲ったので)名が無窮に伝えられた。朕はこれを羨み敬慕するので(羨而慕焉)、今、『堯典』の踵を追い(後を追い)、魏王に位を譲ることにする(禅位于魏王)。」
 
本文に戻ります。
魏王・曹丕は三回上書して辞譲(謙譲・辞退)してから、繁陽故城に壇を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、曹丕は南巡して潁川潁陰県に到ったところでした。曲蠡の繁陽亭に壇が築かれます。その地は許から南七十里の地にあり、東に高さ七丈・方五十歩の台を、南に高さ二丈・方三十歩の壇を造りました。この年、繁陽が繁昌県に改められました。
 
辛未(二十九日)、魏王・曹丕が壇に登って璽綬を受け取り、皇帝の位に即きました。
百官が陪位(同席)します。
儀式が終り、壇を下りてから、天地・嶽瀆(五嶽と四瀆。五嶽は泰・衡・華・恒・嵩。四瀆は江・河・淮・済)の燎祭(祭器や犠牲を柴の上に載せて焼く祭祀)を視て、礼を成して儀礼を終わらせて)帰還しました。
 
漢の延康元年から魏の黄初元年に改元して大赦しました。
こうして漢が滅び、魏王朝が始まります。曹丕は魏文帝とよばれます。
 
尚、曹丕が帝位に即いた日を辛未(二十九日)としているのは『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』で、『三国志・文帝紀』は「庚午」としています。
資治通鑑』胡三省注によると、魏文帝が禅譲を受け入れたことを記念する石碑(受禅碑)があり、そこにも「辛未受禅」と書かれているため、『三国志』の「庚午」は誤りのようです。
 
また、『後漢書・皇后紀下』にこのような記述があります。
魏が禅譲を受けた時、皇后(曹氏。曹操の娘です)に使者を派遣して璽綬を求めました。しかし皇后は怒って与えませんでした。
これが何回も繰り返されてから、皇后は使者を呼んで中に入れ、自ら譴責して璽を軒下に投げ、顔中に涙を流して「天は汝(魏)に福を与えないでしょう(天不祚爾)!」と言いました。
左右に仕える者で皇后を仰視できる者はいませんでした。
資治通鑑』胡三省注は「これは前漢(西漢)の元后の故事である。そもそも、璽綬が曹后の所にあるはずがないので、この説は妄(妄言。道理がないこと)である」と解説しています。

三国志・文帝紀裴松之注が、魏文帝が即位するまでの経緯を更に詳しく書いているので、別の場所で紹介します。

東漢時代 魏文帝即位(1)




次回から三国時代(魏)に入ります。