西周時代19 恭王
今回は恭王の時代です。
恭王
穆王が死んで子の恭王が立ちました。恭王は共王とも書かれます。名を繄扈(または「伊扈」)です。
元年 甲寅。または乙亥。
[一] 春正月、恭王が即位しました。
四年
[一] 恭王が密を滅ぼしました。
恭王が涇水で遊んだ時、密国の康公が従いました。密は姬姓の国です。この時、三人の女性が密国に身を寄せました。
康公の母・隗氏が康公に言いました「三人を王に贈りなさい。獣が三匹集まったら『群』といい、人が三人集まったら『衆』といい、女が三人集まったら『粲』といいます。全て数が多いことを表します。帝王が狩りをする時は『群』を狩り尽くすことはなく、公(諸侯)が巡行する時は『衆』と共に議するものです。また、王の御(女官)は同じ一族から三人を用いないものです。『粲』とは美しいものです。美しいものが集まって汝に帰しましたが、汝には何の徳があるのですか。王にとってもそれは重荷になるものです。汝のような小醜(小人)ならなおさらでしょう。小醜なのに美しいものを私有したら、必ず滅亡を招きます。」
しかし康公は三人の女性を恭王に献上しませんでした。
一年後、共王が密を滅ぼしました。
九年
[一] 春正月丁亥、恭王が内史・良を送って毛伯遷に王命を伝え、政治を行わせました。
十二年
[一] 恭王が死にました。
恭王は昭王と穆王の過失(昭王は南征して死に、穆王は各地を遊行して政治を弛緩させました)を覆ってつぐなうことができたとして称えられています。そのため「恭」が諡号になりました。「諡法(諡号の決まり)」によると、「恭」には「芘親之闕」と解釈されています。「芘」は「庇」に通じて「覆い隠す」という意味、「闕」は「欠陥」という意味なので、「恭」は「親族の欠陥を(徳によって)覆い隠す」という意味をもつ諡号になります。
恭王の子・囏(または「堅」)が立ちました。これを懿王といいます。
次回は懿王の時代です。