西周時代29 宣王(三) 魯の内争(前807~796年)

今回も宣王の時代です。
 
宣王二十一年
甲午前807
 
[一] 魯懿公九年、公子・伯御が国人と共に懿公・戯を攻めて殺しました。伯御は懿公の兄・括(宣王八年、十二年参照)の子です。
伯御が魯君の位に即きましたが、周王室がその地位を認めなかったため、諡号がありません。
 
 
 
宣王二十二年
乙未 前806
 
[一] 宣王が弟の友(「王子・多父」ともいいます)を伯爵とし鄭邑(西鄭)に封じました。これを桓公といいます。都は棫林(または「咸林」)です。
『竹書紀年』(今本)には「王子・多父を洛に住ませた(王錫王子多父命居洛)」とありますが、この時の鄭は洛よりも西のはずです。
また、『史記・鄭世家』『帝王世紀』では、鄭桓公は厲王の少子で宣王の庶弟となっていますが、『史記・十二諸侯年表』では宣王の同母弟と書かれています。
 
[二] 『資治通鑑外紀』はこの年に宣王の后に関する話を載せています。
宣王の后は姜氏といい、斉侯の娘です。賢徳の女性で、礼から外れた言動を行うことはありませんでした。
ある日の朝、宣王がなかなか起きず、朝会にも間に合わなくなりました。姜氏は簪や珥(耳飾り)をはずすと永巷後宮の小路)に立ち、傅母(保母)を送って宣王にこう伝えました「王が色を楽しんで徳を忘れ、朝起きることもできず政治を乱すことになったのは、不才な妾(私)の罪です。いかなる罰でも受けます。」
宣王が答えました「寡人(私。帝王が使う言葉)の不徳が原因である。后の罪ではない。」
姜氏は后の地位に戻され、宣王は朝早くから起きて政治に励むようになりました。
そのおかげで宣王は中興の美名を得ることができました。
 
 
 
宣王二十三年
丙申 前805
 
[一] 晋穆侯七年、晋が條(晋地。恐らく戎族。宣王三十八年に「條戎」が出てきます)を攻めました。
 
この時、穆侯の夫人が長子を産みました。穆侯夫人は斉から娶った女性で姜氏といいます。
穆侯は條との戦いで苦戦したと思われます。長子に仇という名をつけました。
 
 
 
宣王二十四年
丁酉 前804
 
[一] 斉の文公・赤が在位十二年で死に、子の成公・説(または「脱」)が継ぎました。
 
 
 
宣王二十五年
戊戌 前803
 
[一] 大旱がありました。
宣王が郊廟で祈祷すると、雨が降ったといいます。
 
 
 
宣王二十六年
己亥 前802
 
[一] 晋穆侯十年、晋が千畝を攻めて戦果を挙げました。戎族との戦いのようです。
 
戦いの間に穆侯の夫人(姜氏)が少子(次子)を産みました。穆侯は千畝での勝利にちなんで成師と名付けました。
長子の名・仇(宣王二十三年参照)に対して少子を成師と命名したため、晋の大夫・師服が謗って言いました「主君の命名は奇妙なものだ。太子の名は『仇』であり、『仇』は『讎』である。少子の名は『成師』という大号で、成就するという意味だ。名とはそれぞれが命を持ち、事物はそれぞれが自ずから定まるものである(事物と名は乖離することができず、名によってその命運が表されるものである)。嫡庶の名が逆になってしまったのに、晋が乱を招かないはずがない。」
以上は『史記・晋世家』を参考にしました。
『春秋左氏伝桓公二年)』は少し異なります。
師服が言いました「国君が子につけた名は奇妙なものだ。名は義(道義)を表し、義は礼を生み、礼は政(政事)を体現し、政は民を正す。だから政が成功して民を服従させることができる。それができなければ乱れる。嘉耦(美しい姻縁の夫婦)は『妃』といい、怨耦(憎み合う夫婦)は『仇』という。これは古につけられた名だ。今、国君は太子に仇と名付け、弟に成師と名付けた。これは乱の兆しだ。兄は恐らくその地位を取って代わられるだろう。」 

 
 
宣王二十七年
庚子 前801
 
[一] 宋の恵公・覵が在位三十年で死に、子の哀公が継ぎました。
 
 
 
宣王二十八年
辛丑 前800
紀元前八世紀最初の年です。
 
[一] 宋の哀公が元年に死に、子の戴公が継ぎました。
この頃、宋の政治は衰えて商王朝の礼楽も散亡していました。戴公が即位すると、大夫・正考父が周太師のもとで商代の名頌十二篇を校正しました。『詩経・商頌』に収録されている詩がそれにあたるはずですが、現在の『詩経』には五篇しかありません。
正考父は宋の公族で、孔子の先祖に当たるといわれています。

尚、『史記・十二諸侯年表』を見ると、本年、宋恵公が在位三十一年で死んでおり、翌年を戴公元年としています。『年表』には哀公がいません。

[二] 楚子・熊徇(または「熊紃」)が在位二十二年で死に、子の熊(または「熊鄂」)が継ぎました。
 
 
 
宣王二十九年
壬寅 前799
 
[一] 宣王が初めて千畒(天子の耕地)での籍田の儀式(籍田は天子が天地・祖先に備えるための穀物を作る田。天子が鋤き入れの儀式を行う慣わしでした)を行いませんでした。
虢の文公文王の同母弟・虢仲の子孫。周王の卿士)が諫めて言いました「民の大事は農業にあり、上帝の粢盛(神に備える穀物はそこから作られ、人の繁栄はそこから産まれ、国事への供給はそこから行われます。こうして和睦し、財物の基礎ができ、強大な国力を維持できるようになるのです。だから稷(農業を掌る官。周の始祖・弃は后稷を務めました)は大官だったのです。今、先王の事績を修めようというのに、その大功を棄てたら神に備える穀物が不足し、民の財路を塞ぐことになります。このようなことでどうして福を求めて民を用いることができるでしょうか。」
王は聞き入れませんでした。
 
 
 
宣王三十年
癸卯 前798
 
[一] 兔が鎬京で舞い踊ったといいます。
宣王四十年のことともいわれています。
 
 
宣王三十一年
甲辰 前797
 
[一] 宣王が太原の戎を討伐しましたが、勝てませんでした。
これは『古本竹書紀年』の記述です。『今本竹書紀年』は宣王三十三年に書いています。
 
 
 
宣王三十二年
乙巳 前796
 
[一] 魯の伯御十一年春、王師(周王の軍)が魯を討伐しました。宣王二十一年に伯御が懿公を殺して即位したためです。周軍は伯御を殺しました。
宣王は魯の公子の中で諸侯を啓発して導くことができる者に魯国を継がせることにしました。樊穆仲(仲山父。穆仲は諡号が言いました「懿公の弟・称は恭しく神に仕え、長者を敬い、政治も刑罰も先王の遺訓と経験に則って行うことができます。」
宣王が言いました「それならば民を正しく治めることができるだろう。」
宣王は公子・称を夷宮に召して魯君に立てました。これを孝公といいます。
伯御の即位は周王室に認められていなかったため、この年は魯孝公十一年とされます。
 
宣王が諸侯の継承を乱したため、この後、多くの諸侯が王命に逆らうようになりました。
 
[二] 陳の釐公(僖公)が在位三十六年で死に、子の武公・霊が継ぎました。
 
[三] 曹の戴伯・蘇が在位三十年で死に、子の恵伯・兕(または「」「」「弟兕」「伯雉」)が継ぎました。
 
[四]『竹書紀年』(今本)によると、この年、周で馬が人に変化したといいます。『資治通鑑外紀』は宣王三十年のこととしています。



次回で宣王の時代が終わります。