春秋時代 柯の会盟

東周釐王元年(681)、柯という場所で斉と魯が会盟しました。『史記』や『管子』はこの会盟における魯の曹劌(曹沫)の活躍を描いています。

春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年


しかし魯国の史書である『春秋』も、その注釈書である『春秋左氏伝』も曹劌について触れていません。
楊伯峻による『春秋左伝注』に詳しい解説があるので抜粋・簡訳します。
 
魯荘公十年(東周荘王十三年、前684年)、斉が長勺で魯に敗れた。斉は宋と連合したが、宋軍も乗丘で魯に敗れた。その後、斉と魯は敵対関係にあったが、この年(前681年)になって講和した。
柯の盟と曹劌の事は『公羊伝』『史記・十二諸侯年表』『史記・斉世家』に書かれているが、『左伝』の記述と異なっている。
『斉世家』はこう書いている「桓公五年、斉が魯を討ち、魯が敗戦した。魯荘公は遂邑を譲ることで講和を求め、桓公はこれに同意して柯で会盟した。魯が盟を結ぼうとした時、壇上で曹沫が匕首を使って桓公を脅迫し、『魯から奪った地を返せ』と要求した。桓公はこれに同意した。こうして曹沫が三敗して失った地が魯に返還された。」
しかし『左伝』にはこの年に斉が魯を攻撃したという記述がなく、長勺の役も魯が勝ち斉が敗れたのであり、曹劌が三敗したという記述は見られない。
史記』の記述は戦国時代に流行した内容である。
『戦国策』は度々曹沫が桓公を脅迫したことを述べており(中略)、『荀子・王制篇』も「桓公が魯荘に脅迫された」と書き、『管子・大匡篇』および『呂氏春秋・貴信篇』の記述に符合する。
ところが諸書を見るといくつかの誤りを見つけることができる。例えば遂邑は斉に滅ぼされたので釐王元年、前681年、夏六月)、『斉世家』の「魯が遂邑を譲ることで講和を求めた」という記述は誤りである。
『管子』と『呂氏春秋』には「魯が斉の関内侯になることを請うた」とあるが、春秋時代には関内侯という名称がないので、これも誤りである。
『公羊伝』には曹劌が「汶陽の田を桓公に要求し、桓公が同意した」とあるが、汶陽の田は約百年後、東周定王十八年(魯成公二年、前589年)の戦いで始めて斉が魯に返還した地であり、『春秋』『左伝』および『史記』の『年表』『世家』にもそれが書かれているので、『公羊伝』のこの記述も誤りである。
葉適南宋時代)は『習学記言序目・巻十』で「東遷から百年も経っておらず、人材は陋悪であったとはいえ、まだ刺客になる者はいなかった(『史記』は曹沫を『刺客列伝』の筆頭に置いています。これに対する反論です)」と書き、盧文弨(清代)は『鐘山札記』で「曹沫が桓公を脅迫したという故事は戦国時代の人々によって作られ、広く伝えられて信じられるようになった」と言っている。
司馬遷が『左伝』に記述されている曹劌の論戦(戦を論じること。長勺の戦い前後)を書かず、斉桓公を脅迫した話を『年表』『斉世家』『魯世家』に載せ、しかも『刺客列伝』まで作ったのは、奇を好んだ結果による誤りであろう。なお、漢武梁祠東漢時代の祠堂)には曹沫が桓公を脅迫している場面が描かれている。
 
以上が『春秋左伝注』の解説です。
 
 
『春秋左氏伝』は長勺の戦いにおける曹劌の活躍を書きましたが、柯の会盟では曹劌が登場しません。逆に『史記』は『斉太公世家』をみても『魯周公世家』をみても長勺の戦い自体がありません。『十二諸侯年表』の魯荘公十年(東周荘王十三年、前684年)に「斉が我(魯)を攻める。糾のためでる」と書かれているだけです。しかし柯の会盟では曹沫という「刺客」を登場させ、その活躍を描いています。
こうしてみると、『春秋左氏伝』の曹劌と『史記』の曹沫は別人のようにも思えますが、『春秋穀梁伝』には魯荘公十三年に「冬、荘公と斉侯が柯で会盟した。曹劌の盟である」と書かれており、「曹劌」と「曹沫」がつながります。
 
史記』を書いた司馬遷は曹沫の活躍を書くにあたって、曹沫が斉に三敗して領土を失ったという大前提が必要になったため、敢えて曹劌の活躍によって斉を破った長勺の戦いを書かなかったのかもしれません。
 
 
後世の史書を見ると、例えば『資治通鑑外紀』北宋には長勺の戦いの記述がありますが、曹劌の活躍には触れず、魯が斉を撃退したとだけ書かれています。しかし柯の会盟では曹劌が斉桓公を脅迫して領土を取り返した故事が書かれています。「曹沫」ではなく「曹劌」となっているので、やはり「曹劌」と「曹沫」は同一人物と考えることができます。
 
資治通鑑前編』(宋末元初)は、長勺の戦いでは『春秋左氏伝』の内容を紹介して曹劌の活躍を書き、柯の会盟では『春秋左氏伝』『史記』等の内容を併記して曹沫の活躍も書いています。
但し、柯の会盟の原因を『春秋左氏伝』が「遂国が北杏の会盟釐王元年、前681年の春)に参加しなかったため、斉が遂を滅ぼした」と書いているのに対し、『資治通鑑前編』は斉が魯への進攻を開始し、済水北にあった魯の附庸国・遂を滅ぼしたために柯で会盟が行われたとしています夏六月に遂が斉に滅ぼされ、冬に柯の会盟が行われました)ここからは斉の南進によって魯の領土が削られていた可能性も考えられます。
曹沫については、曹劌と同一人物かについては言及せず、曹沫の故事を記述した理由を説明しています「曹沫の事は『左伝』には書かれていないものの、世の多くの人がこの故事を語っているので、参考として記述した(今存之以待参考)。」
資治通鑑前編』を編纂した金履祥も曹沫の故事には懐疑的だったのかもしれません。
 
 
以上、「曹劌」と「曹沫」および柯の会盟についていくつかの記述を並べてきました。
史記』等が描いて広く伝えられてきた曹沫の故事は虚構だった可能性が大きいと考えられます。