春秋時代31 東周恵王(十) 魯の内争 前662年

今回も東周恵王の時代です。
 
恵王十五年
己未 前662
 
[] 春、魯が小穀に築城しました。小穀は穀ともいい、斉の邑のようです。『春秋左氏伝』は管仲のために穀に城を築いたと書いています。斉桓公が諸侯に命じて築城に協力させたのかもしれません。
 
[] 四年前に楚が鄭を攻撃したため(東周恵王十一年、前666年)、斉桓公が楚を討伐するために諸侯を集めました。先行して宋桓公が斉桓公に会うことになりました。
夏、宋桓公と斉桓公が梁丘(宋邑)で会いました。
 
[] 神が莘(虢地)に降りたという報告がありました。
東周恵王が大夫・内史過(内史は官名。過が名)に原因を問うと、内史過はこう答えました「国が興る時には明神が降り、その徳を監視します。国が亡ぶ時にも神が降りてその悪を観ます。だから神を得て興り、また亡ぶのです。虞(舜)、夏、商、周は皆それを経験しました。」
王が何の神か問うと、内史過が答えました「昔、昭王が房国から房后を娶りましたが、丹朱(帝堯の子)のように徳に欠けていました。そこで丹朱は房后の身を借りて穆王を産みました。これは神が周の子孫の前に現れて禍福を操った一例です。神は一カ所に降りたら遠くに遷らないといいます。今回の神も恐らく丹朱の神でしょう。」
恵王が聞きました「誰がその神を受けることになるだろう。」
内史過が答えました「神は虢の地に降りました。虢が受けることになるでしょう。」
恵王がなぜ虢なのかと問うと、内史過はこう言いました「道があれば神を得て福に会います。淫(乱れている)ならば神を得て禍を受けます。今、虢は荒淫です。滅びないはずがありません。だから神が降りたのです。」
恵王が聞きました「わしはどうすればいい。」
内史過が答えました「太宰(王卿。祭祀をつかさどる官)に命じ、祝(太祝)、史(太史)と狸姓(丹朱の子孫)を率いさせ、犧牲・穀物・玉帛を献上するべきです。神に要求してはなりません。また、祭祀はその神にあった物を用いて行うべきです。神が到った日の祭物が、その神を祀るにふさわしい祭物です(十干によって祭りに用いる物が異なりました。例えば甲乙の日は青い玉と服、丙・丁の日は赤い玉と服等です)。」
恵王が最後に聞きました「虢はいつ滅ぶだろう。」
内史過が答えました「昔、堯は五年に一回巡行して民に臨みました。今現れたのは堯の子です。神の力が発揮するのに、その数を超えることはありません。よって虢国の滅亡まで五年を超えることはないでしょう。」
恵王は太宰・忌父(周公)に傅氏(狸姓の子孫。周代になって傅氏を名乗ったようです)および祝と史を率いて犧牲・玉鬯(祭祀で用いる酒)を神に献上させました。
内史過も太宰に従って虢に入りました。この時、虢公も虢国の祝祝応)、史史嚚)を派遣し、神に土地を求めました。
史過が帰国してから恵王に報告しました「虢は必ず滅びます。神に対して誠実に祭祀を行うことなく、福を求めました。神は必ず禍を降します。また、虢公は民に親しむことがないのに民の力を用いようとしています。民は必ず離反します。誠心誠意、神を祀ることを『禋』といい、仁慈によって民を守ることを『親』といいますが、今の虢公は百姓の財力を用いて私欲を満足させ、民から離れ、神を怒らせて利を追求しています。」
 
神は莘の地に六カ月いたといいます。
虢公が祝応、宗区、史嚚を送って祭祀を行うと、神は土田を虢に与えることを約束しました。しかし史嚚が言いました「虢は亡ぶ。国とは、興る時は民の声を聞き、亡ぶ時は神の声を聞くという。神は聡明正直かつ一心であり、人に合わせて行いを変える。虢に足りないのは徳だ。土田を得て何ができるというのだ。」
 
以上、『春秋左氏伝(荘公三十二年)』と『国語・周語一』を参考にしました。
虢国は四年後(東周恵王十九年、前658年)に晋に攻められて都・下陽を失い、その三年後に完全に滅ぼされることになります。
 
[] 以前、魯荘公が楼台を築いた時、黨氏(魯の大夫。任姓)の屋敷を眺めることができました。そこで荘公は孟任(黨氏の女性)を見つけて目で追いましたが、孟任は門を閉ざして隠れました。
孟任の美貌に惹かれた荘公は孟任を夫人に立てると誓って娶りました。
『春秋左氏伝』には記述がありませんが、『史記・魯周公世家』は魯荘公が(腕)を切って誓いを立てたとしています。
やがて孟任は子般(または「斑」)を産みました。
 
ある年、雩祭(雨乞いの儀式)を開く前に大夫・梁氏の屋敷で予行演習が行われました。女公子がその様子を観ています。すると圉人(馬を養う職人)・犖が壁の外から女公子に戯れました。子般が怒って犖を鞭で打つと、荘公が言いました「鞭打つくらいなら殺すべきだ。それができないのなら、鞭打ってはなららない。犖には力がある。稷門(魯城正南門)の蓋(門扉)を投げることができるほどだ。」
 
ここに登場する「女公子」というのは『春秋左氏伝』の記述です。恐らく魯荘公の娘、子般の妹を指すと思われます。しかし『史記・魯周公世家』は「梁氏女(梁氏の娘)」と書いています。子般が梁氏の娘を愛していたため、圉人・犖に怒ったというのが『史記』の解釈です。
 
この年(東周恵王十五年)、荘公が病に倒れました。荘公には慶父(共仲)、叔牙僖叔)、季友(成季)という弟がいます。荘公は哀姜という斉の女性を娶って夫人(正夫人)に立てていましたが、子ができませんでした。しかし哀姜の妹・叔姜が啓(または「啓方」「開」)という子を産みました。荘公自身は孟女(孟任)を愛していたため、その子・般を後継者に立てたいと思っています。
荘公がまず叔牙に後継者を誰にするべきか問うと、叔牙はこう言いました「父が死んだら子が継ぎ、兄が死んだら弟が継ぐ、これは魯国の常です。慶父は優秀な人材です。彼が後嗣になれば心配いりません。」
叔牙が退出してから荘公が季友に問うと、季友は「臣は命をかけて般(公子般)を奉じます」と答えました。
荘公が言いました「先ほど、(叔牙)は『慶父が人材だ』と言った。どうすればいいだろう。」
 
秋七月癸巳(初四日)季友は国君の名義で叔牙を大夫・鍼巫(鍼季。巫は恐らく官職名)の家に行かせ、同時に鍼季に命じて叔牙を酖毒(毒酒)で殺させました。季友が叔牙にこう伝えました「これを飲めばあなたの子孫は魯国で安泰だ。しかし拒否したら、あなたが死ぬだけでなく、子孫も途絶えることになる。」
叔牙は酖を飲んで家に帰り、逵泉という場所で死にました
叔牙の子は家系を継ぐことを許されました。子孫を叔孫氏といいます。
 
八月癸亥(初五日)、荘公が路寝で死にました。在位年数は三十二年です。
寝は寝室を意味します。国君は通常、燕寝(小寝)で起居しますが、斎戒や疾病の時は路寝に住みました。路寝で死んだというのは、病死したという意味です。
季友が子般を即位させました。子般は黨氏の家(母・孟任の実家)に住んで喪に服します。
 
これ以前から慶父は哀姜と私通していました。そこで慶父は哀姜の妹が産んだ啓を即位させることにしました。
冬十月己未(初二日)、慶父が圉人・犖を使って黨氏の家で子般を殺しました。季友は陳に奔ります。
こうして啓が即位しました。湣公(閔公)といいます。
哀姜が荘公に嫁いだのは恵王七年(魯荘公二十四年、前670年)であり、妹もこの時一緒に魯に入ったはずです。すぐに湣公が生まれたとしても、即位した時の歳は八歳を超えないはずです。
 
[] 魯の慶父が斉に行きました。哀姜の妹の子が即位したことを報告したのだと思います。
 
[] 狄が邢(姫姓の国)を攻撃しました。
 
[七] この年、曹釐公(僖公)が在位九年で死に、子の昭公・班が即位しました。
以下、『毛詩正義(巻七)』から曹国の状況です。
曹国には成陽と雷沢という場所がありました。成陽は帝堯が埋葬された場所で、雷沢は帝舜が漁をした場所です。そのため、曹国はもともと堯舜の遺風を受け継ぎ、君子(立派な人物)が多く、民は農業に励み、衣食を節約して豊富な物資を蓄えてきました。曹国は魯と衛(どちらも同姓の国で、曹よりは大きな国ですが斉・晋・秦のように覇権を狙う国ではありませんでした)の間にあり艱難が少なかったため、時代が経って春秋の世になっても豊かでした。しかし次第に驕慢奢侈になり、堯舜の教えが失われていきます。
東周恵王の時代、曹昭公が奢侈を好み小人を信任したため、曹国の政治はますます衰えていきました。『詩経・曹風』はこの頃から作られました。



次回に続きます。