春秋時代 重耳の帰国(4)

晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。今回で最後です。

東周襄王十六年(前637年)十月(本編では九月)、晋恵公が死にました。
十二月(本編では翌年正月)、秦穆公が重耳を晋に入れます。一行が黄河まで来た時、狐偃が重耳に璧玉を還して言いました「臣は主公に従って天下を巡りましたが、その間に多くの無礼を犯しました。臣自身がそれを理解しています。主公はなおさら覚えているでしょう。しかし主公は臣を殺すことを忍びないと思うかもしれません。今のうちに臣が去ることをお許しください。」
重耳は「舅氏(狐偃)と同心であることを河水に誓おう」と言って璧玉を黄河に沈めました。
 
晋の大夫・董因(史官)黄河の沿岸まで迎えに来ました。重耳が董因に問いました「わしは成功するだろうか?」
董因が言いました「歳星が大梁にいます。天行(天道)に符合しているので必ず成功します。主公の即位元年には歳星が大梁を離れて実沈星の位置に移ります。実沈星は晋の地にあたるので、これから晋は興隆します。主公の大業が失敗するはずがありません。主公が出奔した時、歳星は大火にいました。大火は閼伯の星であり、大辰といいます。辰は農祥であり、周の祖・后稷は辰(大辰。農祥)を観察して農事を成就させました。また、晋の祖・唐叔は辰の時(歳星が大火にいる年)に封じられました。瞽史(盲目の史家)はこう記録しています『晋の子孫は祖先を継承し、穀物のように繁栄する(嗣続其祖,如穀之滋)。』よって主公は必ず晋国を興隆させることができます。臣が筮で占ったところ、『泰』の八の卦が出ました。これは天地(陰陽)が交わって通じ、小子圉)が去って大(重耳)が来る天地配亨,小往大來)という意味です。今こそその時です。失敗する理由がありません。しかも主公は辰(歳星が大火にいる時)に出奔し、参(参宿。参伐。実沈は参宿の神。歳星が実沈にいる時という意味)に帰国しました。どちらも晋にとって吉祥の星であり、天の時に符合しています(大火と参伐はどちらも季節を測るために観測された星で、大辰とよばれました。二つの大辰が出奔と帰国に符合しています。尚、位置を確認するために観測された北辰も大辰の一つとされました)。主公は黄河を渡って国を手に入れ、必ず諸侯に覇を称えることができるでしょう。そして子孫は主公の大功による恩恵を得ることができます。主公が恐れることはありません。
 
重耳は秦軍に守られて黄河を渡ると令狐・臼衰・桑泉の長を招きました。三邑は帰順します。
晋人は重耳を恐れ、懐公は高梁(晋地)に逃げました。
甲午、呂甥と冀芮(郤芮)が兵を率いて廬柳に駐軍しました。
秦穆公が公子・縶を晋陣に送って説得すると、呂甥と冀芮は兵を退いて郇に移ります。
辛丑、狐偃が秦と晋の大夫と郇で盟を結びました。
壬寅、重耳が晋の陣営に入りました。
甲辰、秦穆公が秦に帰りました。
丙午、重耳が曲沃に入りました。
丁未、重耳が晋都・絳に入り、武宮(武公廟)で即位しました。これを文公といいます。
戊申、文公が高梁で懐公を殺しました。
 
かつて献公が寺人・勃鞮寺人・披。宦官)を蒲城に送って重耳を暗殺しようとしました。重耳は宮殿の壁を越えて逃走します。追いかけた勃鞮は重耳の袖を斬りましたが逃げられました。
重耳が帰国して即位すると勃鞮が謁見を求めました。
この頃、呂甥と冀芮は恵公の一党だったため、文公に害されることを恐れて乱を謀りました。三月己丑に公宮を焼き、火を消すために公宮を出た文公を殺すという計画を立てます。
勃鞮は陰謀を知ったため文公に報告しようとしましたが、文公は謁見を拒否してこう伝えました「驪姫の讒言によって汝はわしを屏内(宮内)で害そうとし、蒲城でわしの服の袖を斬った。その後も汝は恵公のために渭浜まで追ってきた重耳が狄君に従って渭浜で狩りをしていた時、勃鞮が暗殺に来ました)。恵公は汝に三日の時間を与えたが、汝は一宿(一晩)で現れた。汝は二君の命を受けてわしを殺そうとし、わしは伯楚勃鞮の字)のために何度も困窮した。何の怨みがあってのことだ。帰ってよく考え、後日また会いに来い。」
勃鞮が言いました「わたしはあなたが君臣の道を理解したから帰って来たと思いましたが、まだ理解できていないのでは、再び出奔することになるでしょう。臣下とは主君に仕えたら二心を持たないものであり、主君とは私情による好悪によって態度を変えないものです。主君は主君らしくし、臣下は臣下らしくする(君君臣臣)、これは明訓(明確な教え)です。明訓を守ることができる者が、民の主になれるのです。二君(献公と恵公)の時代、あなたは蒲人(蒲への亡命者)であり、狄人(狄への亡命者)であったので、私とは関係がありませんでした。主君が嫌う者を力を尽くして除くことが、二心を抱くことになるのですか。今、あなたが即位しましたが、蒲人や狄人がいないというのですか(「献公や恵公に反対した蒲人や狄人のような存在がいないというのですか。」「あなたに反対する者がいないというのですか」という意味です)。伊尹は太甲を放逐することで、太甲を明王にすることができました。管仲桓公を害そうとしましたが、後に桓公を侯伯(覇者)に立てました。乾時の役(東周荘王十二年、685年)申孫の矢申孫は矢の名)桓公の帯鉤に中りました。帯鉤は袖よりも危険です。しかし桓公は怨みを言わず、死ぬまで管仲を相として自分を補佐させたので名声を得ることができました。あなたの徳は寬裕を知らないのですか。国君が好むべきこと(忠誠)を嫌って長続きすると思いますか。あなたは明訓を行うことができず、民の主としての道理を棄てようとしています。私は罪を得た者閹士。去勢された宦官)なので心配はいりません。しかしあなたは私に会わなかったことを後悔するでしょう。」
文公は勃鞮を引見して言いました「汝が話した道理はわしも理解している。しかし確かに私情の好悪によって寛大になれなかった。今後は改めよう。」
勃鞮は呂甥と冀芮の陰謀を文公に話しました。
恐れた文公は馹(駅車。早馬)に乗り、下道(小道)を通って秦の王城に逃げました。陰謀の内容が秦穆公に伝えられます。
己丑、公宮に火が放たれましたが呂甥と冀芮は文公を得ることができず、黄河まで行きました。そこで秦
穆公が二人を誘い出して殺しました。
 
晋文公元年春、文公と夫人・嬴氏が秦の王城から晋に入りました。
秦穆公は衛士三千人を与えました。全て紀綱の僕(管理の能力がある有能な僕人)です。
 
文公はまず百官を引見して官職を整理し、能力があっても官が低い者を抜擢し、功績がある者を選んで用いました。旧臣や功臣の家族・子孫を称揚し、親族を愛し、貴臣を尊重し、功労を称え、耇老(老人)を敬い、賓客を礼遇し、公子だった頃の旧知と親しく接します。胥・籍・狐・箕・欒・郤・柏・先・羊舌・董・韓の十一氏が朝廷の官職に就きました。同姓(姫姓)で優秀な者は中官(内官。宮内の官)に任命し、異姓で有能な者は遠官(県等の地方官)に任命しました。
 
政策においては、旧債を廃して税を軽くし、禁令を解き、困窮する者を救済しました。
商業の振興を図って関税を軽減し、交通を妨害する盗賊を捕えて交易を盛んにしました。
農民には農事に影響する労役を命じず、農業を奨励しました。国の出費を抑え、不作の年に備えて蓄えを作ります。農具を改良し、民の徳を養いました。
公族は貢(既定の田賦)で生活し、大夫は食邑の税で生活し、士は自分に与えられた公田の収穫で生活し、庶人は自分の力で収穫を得ます。工商の官は国庫から食糧が与えられ、皁隸(身分が低い労役に従事する者や奴隷)はその職に応じて食禄を与えられ、官宰(大夫の家臣)は加(大夫の加田)から得る税を与えられました汚職や法から外れた搾取がなく、国民が皆自分の立場をわきまえて生活したことを表しています)
政令が明確で民は安定し、国庫が満たされます。
 
こうして晋の政治は混乱を収束させ、文公は覇業を成就させることができました。