春秋時代66 東周襄王(二十六) 晋文公の三徳 前633年

今回は東周襄王二十年です。
 
襄王二十年
633年 戊子
 
[] 春、杞桓公が魯に来朝しました。
桓公が夷礼を用いたため、『春秋』は「杞桓公」ではなく、「杞子」と書いています(東周襄王十六年、前637年参照)
魯釐公は杞国を軽視しました。
 
[] 夏六月庚寅(十八日)、斉孝公が在位十年で死にました。
衛公子・開方(啓方。斉桓公の寵臣の一人)が孝公の子を殺したため、孝公の弟・潘(『資治通鑑前編』では「潘父」)が即位しました。これを昭公といいます。
昭公桓公で、葛嬴です
 
魯は斉と敵対していましたが、礼に則って弔問しました。
 
秋八月乙未(二十四日)、斉が孝公を埋葬しました。
 
[] 九月乙巳(初四日)、魯の公子・遂が軍を率いて杞を攻めました。杞桓公が魯に入朝した時、夷礼を用いて恭敬ではなかったためです。
 
[] 楚成王が宋を包囲しようとし、元令尹・子文と現令尹・子玉に兵を訓練させました。
寛大な子文は睽で訓練し、日が明けてから朝食を採るまでの時間で終わらせました。死者は一人もいません。一方、厳格な子玉は蔿で終日かけて訓練し、七人を鞭打ち三人の耳を矢で貫きました。
国老は皆、子玉が立派に軍務を行ったことに感服し、子玉に令尹の職を譲った子文(東周襄王十六年、
637年参照)を称賛・祝賀しました。賢才を推挙したら祝賀を受けるのは古代の礼です。
子文は国老や群臣のために宴を開きました。
ところが、まだ若い蔿賈(字は伯嬴)は遅れて宴に参加し、子文を祝おうとしませんでした。子文がその理由を問うと蔿賈が言いました「何を祝うというのですか。あなたは子玉に令尹を譲った時、こう言いました『国を安定させるためだ。』しかし国内を安定させながら国外で失敗したら、どれだけの利があるというのでしょうか。将来、子玉が招く失敗はあなたの推挙が原因です。推挙して国の失敗を招くというのに、なぜ祝賀しなければならないのですか。子玉は剛強無礼で民(兵)を治めることができません。指揮する兵車が三百乗を越えたら帰国できないでしょう。出征して帰ることができてから祝賀しても遅くはありません。」
 
冬、楚子(成王)と陳侯(穆公)・蔡侯(荘侯)・鄭伯(文公)・許男僖公)が兵を出して宋を包囲しました。
 
[] 十二月甲戌(初五日)、魯公(釐公)が宋を包囲中の諸侯(楚・陳・蔡・鄭・許)と会盟しました。
 
[] 宋の公孫固が晋に危急を告げました。
晋の先軫が文公に言いました「恩に報いて患憂から救い、威信を得て霸を定める、今こそその機会です。」
狐偃が言いました「楚は最近、曹を帰順させ、衛とも婚姻関係を結びました。もし我が軍が曹や衛を攻めたら、楚は必ず二国を援けるために兵を退くでしょう。斉(前年、楚の申公・叔侯が兵を率いて斉の穀に入りました)と宋を救うことができます。」
晋文公は被廬で蒐(狩猟。閲兵式。軍事演習)を行い、上下二軍を上中下の三軍に拡大しました。
 
文公が誰を中軍の元帥にするか謀りました。中軍の元帥は上卿であり、国政の中心に立つことになります。趙衰が言いました「郤縠(大夫)がいいでしょう。彼は五十になりますが、ますます学問に励んでおり先王の法志政令典籍)を学んでいます。その話を聞くと礼楽を楽しみ詩書を重視していることがわかります。先王の法志や詩書は義の府(倉庫)であり、礼楽は徳の則(基準)です。徳と義は民利の本です。学問に勉めることができる者は、民を忘れることもありません。『夏書尚書・益稷)』にはこうあります『益のある言は全て採用し、功績を試して明らかにし、車服によって褒賞する(賦納以言,明試以功,車服以庸)。』主君も試してみるべきです。」
文公は郤縠を中軍の将とし、郤溱に補佐させました。
 
文公が趙衰に上軍を指揮させて卿(下卿)に任命しようとしましたが、趙衰はこう言いました「三徳(周襄王の地位を安定させて民に義を示し、原を討伐して民に信を示し、大蒐によって民に礼を示したこと。後述します)は狐偃の意見によるものです。彼は徳によって民を治め、大きな功績を立てたので、用いないわけにはいきません」
文公が狐偃を卿に任命しようとしましたが、狐偃はこう言いました「毛(狐毛。狐偃の兄)智謀も賢才も臣を越えており、歳も毛が上です。毛が卿の位にいないのに、臣が命を聞くわけにはいきません。」
文公は狐毛に上軍を率いさせ、狐偃がそれを補佐しました(『史記・晋世家』には狐偃上軍の将、狐毛になったとしていますが、恐らく誤りです)
 
文公が趙衰に下軍を指揮させて卿(下卿)に任命しようとしましたが、趙衰が言いました「欒枝(欒賓の孫、欒共叔の子。欒賓は東周平王二十六年、前745年。欒共叔は東周桓王十一年、709年参照)は忠貞かつ慎重で、先軫は謀があり、胥臣は見識があります。この三人なら主君を輔佐できるでしょう。臣は彼等に及びません。」
欒枝が下軍を指揮して先軫がそれを補佐することになりました。
翌年のことですが、先軫の謀によって晋は衛の五鹿を占領します。また、郤縠の死後は先軫が中軍の元帥となり、胥臣が下軍を補佐することになります。
 
荀林父が文公の戎車を御し、魏犨が車右になりました。

史記・晋世家』はこの年の冬十二月に晋山東に向かい、(地名)趙衰に封じたとしています。しかし恐らくこれは前年の出来事です。
 
[] 上述の趙衰の進言に「三徳」という言葉がありました。
以下、『春秋左氏伝僖公二十七年)』と『国語・晋語四』から紹介します。
晋文公は即位(東周襄王十七年、636年)してから民の教化を行い、二年経って民を徴集しようとしました。すると子犯(狐偃)が言いました「民はまだ義を知らず、その居を安定させることもできていません。天子を周都に入れて義を示すべきです。」
そこで文公は国外で襄王の地位を確立させ(東周襄王十八年、前635年)、国内に帰って民の利を図りました。民の生活が安定します(一徳)
文公が民を徴集しようとすると、子犯がまた言いました「民はまだ信を知らず、その作用が明らかにされていません。原を討伐して信を示すべきです。」
そこで文公は原を討伐して信を示しました(東周襄王十八年、前635年)。民は売買で暴利を求めず、貪婪にならなくなりました(二徳)
文公が「民を用いることができるか?」と聞くと、子犯が言いました「民はまだ礼を知らず、恭敬が生まれていません。大蒐によって威信を示し、師(軍)を備えて礼を尊ぶべきです。」
そこで文公は被廬で大蒐を行って礼を示し(本年)、三軍を定めて威信を強化し、執秩の官を作って爵位・秩禄および官制を正しました。郤縠が上卿として政治を行い、郤溱が補佐します。民は命令を聞いても惑わなくなりました(三徳)
こうして文公はやっと民を徴用しました。
 
翌年、文公は穀の戍(守備兵。楚軍)を駆逐し、宋を包囲した楚軍を退かせ、楚と一戦して(城濮の戦い)霸を称えます。全て文公の教化が成功したおかげです。
 
資治通鑑外紀』は東周襄王十八年(前635年)に晋文公の教化に関する記述を紹介しています。元は『尹文子・大道上』(戦国時代に書かれた書)の内容です。
当時の晋は奢侈の気風があり、財政を困窮させていました。そこで文公は自ら質素倹約に勤め、衣服は帛を重ねず(「衣不重帛」豪華な服を着ないという意味)、食事は二種類以上の肉を食べませんでした(食不兼肉)
暫くすると晋の国人は大布の服(麻製の粗末な服)を着て、脱粟の飯(精米していない飯)を食べるようになりました。
 
漢書・刑法志(巻二十三)』も晋文公について記述しています。但し、少し厳しい評価になっています。
周王室が衰退すると、聖王が定めた法も守られなくなりました。そこで斉桓公はまず国内を教化し、教えが広まって国内が治まってから、外では夷狄を討伐し、内(中原)では天子を尊重して、諸夏(中原諸国)を安定させることができました。斉桓公の死後、晋文公が覇業を継ぎました。晋文公もまず自国の民を安定させ、「被廬の法」を作り被廬は蒐を行った場所です)、諸侯を率いて盟主になりました。しかし晋文公の礼は本分を越えたところがあり、また、目先の功績・利益を求めるため、状況によって変更が加えられることもありました。そのため王制(聖人帝王が定めた制度)とみなされることはありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。