第二回 褒人が美女を献じ、幽王が烽火で戯れる(中編)

*『東周列国志』第二回中編です。
 
褒洪徳はまず金銀を虢公に贈って関係を作りました。虢公が褒洪徳に代わって幽王に謝罪の上奏を行います「臣・珦(父)は自分の罪が万死に当たることを理解しています。しかし珦の子・洪徳(私)は父の死を痛哀し、褒姒という名の美女を探し出しました。これを献上して父の罪を贖い、我が王の赦宥(寛大な赦し)が得られることを切望します。」
上奏を聞いた幽王は、すぐに褒姒を上殿させました。拝舞(叩頭拝礼)が終わり、幽王が褒姒の頭を挙げさせると、その姿態は今までに見たことがなく、美しい目が動くと光艶が人を照らすようでした。龍顔(帝王の顔)は大喜に包まれ、内心「四方から貢献する者がいるが、褒姒の万分の一にも及ばない」と思い、申后(正妻)に伝えず褒姒を別宮瓊台)に住ませることにしました。褒珦は釈放され、元の官爵に戻ります。
その夜、幽王と褒姒は共に魚水の楽しみを得ました。その日から幽王が座る時はいつも褒姒がその膝の上に座り、立つ時は肩を並べて立ち、酒を飲む時は杯を交わし、食事をする時は同じ器を使うようになりました。幽王は瓊台に入り浸って十日間も入朝せず、群臣は朝廷の門をうかがっても王に会えないため、皆、嘆息して帰りました。
幽王四年の事です。
 
幽王は褒姒を得てからその美色に没頭し、瓊台に住んで約三カ月の間、申后の宮に入ることがありませんでした。
この事をある人が申后に報告しました。申后は憤りを抑えることができず、ある日突然、宮娥(侍女)を連れて瓊台を見に行きました。するとちょうど幽王と褒姒が膝を合わせて坐っていました。二人とも申后を迎え入れようともしません。申后は怒りにまかせて褒姒を罵りました「どこの賎婢が宮闈後宮を汚し、乱しているのですか!」
幽王は申后が手を挙げることを恐れ、褒姒の前に自分の身を置いて言いました「これは朕が新たに得た美人だ。位次(地位。席次)が定まっていないから、まだ朝見させていなかった。怒る必要はない。」
申后はひとしきり罵倒すると、怨みを抱えたまま去っていきました。
褒姒が幽王に「あれは誰ですか」と聞くと、幽王は「王后だ。明日、汝は王后を謁見せよ」と命じました。
しかし褒姒は答えず、翌日になっても正宮(王后の宮殿)を朝見しませんでした。
 
申后は宮中で憂悶が収まりませんでした。それを見た太子・宜臼が跪いて問いました「母は六宮の主という貴い立場に居ながら、なぜ楽しめないのですか?」
申后が答えました「汝の父が褒姒を寵幸してから、全く嫡妾(正妻)を顧みなくなりました。将来、あの婢女が志を得たら、我々母子は足を置く場所もなくなってしまいます。」
申后は褒姒が朝見に来ないこと、王后を迎え入れようとしなかったこと等を詳しく太子に話し、知らず知らずに涙を流しました。
太子が言いました「難しいことではありません。明日は朔日(月の初め)なので、父王は必ず朝廷に行きます。母は宮人に命じて瓊台で花を摘ませてください。その賎婢が台から出てきたところを、私が毒打(強く殴打すること)して母の気を晴らしてみせます。父王が怒ったとしても罪責は私にあり、母には関係ありません。」
申后が言いました「軽率なことをしてはなりません。慎重に再考するべきです。」
太子は怒ったまま宮を出て、一晩を過ごしました。
 
翌朝、幽王が朝廷に出ました。群臣が朔を慶賀します。
その間に太子が数十の宮人(宮女)を瓊台の下に送り、理由を言わず花を乱摘させました。
すると一群の宮人が台から出て道を塞ぎ、「この花は万歳(王)が育てており、褒娘娘(娘娘は妻、母の意味)と一緒にいつも賞玩しているのです。摘んではなりません。大きな罪を得ることになります」と言いました。
しかし太子が送った宮人はこう言いました「私達は東宮(太子)の令旨を受けており、正宮娘娘(王后)に花を捧げるために来ました。誰にも邪魔をさせません。」
双方が言い争いになりました。
騒ぎに驚いた褒妃が外に出て様子を覗い、怒りが爆発しそうになった時、突然、太子が現れました。褒妃にとっては思いもよらないことです。
太子は仇人の姿を見ると目を吊りあげ、素早く近寄って褒妃の烏雲寶髻(漆黒の髪。寶髻は女性の髪型)をつかみ、大声で罵って言いました「賎婢!無名無位のくせに『娘娘』を称すとは、眼中に人がいないのか!今ここで私がいることを教えてやろう!」
太子が拳で褒妃を殴り始めました。
数回殴った時、宮娥達が幽王の罪を得ることを恐れたため、一斉に跪いて叩首し、叫んで言いました「千歳(太子)!赦してください!万事は王爺の顔を立てなければなりません!」
太子も褒妃の命に関わることを恐れて手を止めました。褒妃は恥辱と痛みを我慢して台に戻ります。
褒妃は太子が母親のために行った暴行だと知り、両眼から涙を流して泣きました。すると宮娥が慰めて言いました「娘娘、泣くことはありません。王爺が手を打ってくれます。」
言い終わらないうちに幽王が退朝(朝廷を出ること)し、直接、瓊台に入りました。髪が乱れ、涙を流している褒妃を見て言いました「愛卿よ、今日はなぜ梳妝(化粧)をしないのだ?」
褒姒は幽王の袍の袖をつかむと、大声をあげて泣き、こう訴えました「太子が宮人を連れて台下の花を摘みに来ました。賎妾(私)は一度も太子の罪を得たことがないのに、太子は賎妾を一目見ると罵って殴打しました。もしも宮娥が必死に諫めてくれなかったら、性命を保つこともできなかったでしょう。どうか王が裁いてください。」
言い終わるとまた痛哭します。
幽王は事の原因を理解しているため、褒姒にこう言いました「汝が太子の母を朝見しないからこうなったのだ。これは王后がやったことであり、太子の考えではない。誤って人に罪を着せてはならない。」
すると褒姒が言いました「太子は母の怨みを晴らすために来ました。その意志は、妾(私)を殺すだけではありません。妾の一身だけなら死んでも惜しくありませんが、妾は王の愛幸を受けてから、すでに身懐六甲(妊娠)して二カ月が経ちます。妾の一命は二命に値します。妾を王宮から出して、母子の二命を守らせてください。」
幽王が言いました「愛卿よ、もう言うな。朕に考えがある。」
即日、幽王が命を発しました「太子・宜臼は勇を好んで無礼であり、恭順にすることができない。よって暫く申国(母の実家)に送り、申侯の教訓を受けさせる。東宮の太傅、少傅等の官は太子の教育が行き届かなかったので、全て罷免する。」
太子は入宮して釈明しようとしましたが、幽王が宮門に「通報を許すな(受け継いではならない)」と命じたため、やむなく馬車に乗って申国に向かいました。
暫くして、久しく太子が進宮しなくなったため、申后が不思議に思って宮人に確認しました。そこで始めて太子が申国に送られたと知ります。一人になった申后は終日、夫を怨んで子を想い、涙を流す日々を送るようになりました。
 
褒姒は妊娠して十カ月が経ち、一子を産みました。幽王は赤子を珍宝のように寵愛して伯服と名付けます。やがて廃嫡立庶(嫡子を廃して庶子を立てること。庶子は正妻以外の姫妾が産んだ子)を考えるようになりましたが、太子を廃位する理由がないため、公言しませんでした。
ところが虢石父が幽王の意志を見抜き、尹球と相談して秘かに褒姒に言いました「太子は外家(母の実家)に放逐されたので、伯服が後嗣になるべきです。内に娘娘(褒姒)の枕辺の言があり、外では我々二人が協力して助け合えば、成就しない事はありません。」
褒姒が大喜びして言いました「全て二卿の尽力が頼りです。もしも伯服が位を継ぐことができたら、天下を二卿と共にしましょう。」
この日から褒姒は心腹の者を使って日夜、申后の欠点を探らせるようになりました。宮門の内外に褒姒の耳目が置かれ、風が吹いて草が動いただけでも、褒姒に報告されました。
 
申后は毎日一人さびしく泣いていました。
 
*『東周列国志』第二回後篇に続きます。