第四回 秦文公が天を郊し、鄭荘公が母に会う(後編)

*『東周列国志』第四回後篇です。
 
鄭の太叔・段は母夫人・姜氏の密書を得てから、子の公孫滑と商議しました。公孫滑が衛に行って兵を借りることになり、衛に贈る重賂が準備されます。太叔・段自身は京城と二鄙(西と北の二境)の兵を総動員し、鄭伯(荘公)の命を受けて監国を命じられたと偽り、纛(恐らく軍神)を祭って将兵を労ってから、意気揚々と城を出ました。
これ以前に公子・呂が兵車十乗を送り、商賈(商人)に化けて京城に進入させていました。太叔の兵が動いたら城楼に火を放つことになっています。
太叔が兵を率いて城を出ると、城楼に火がつきました。それを見た公子・呂が城に殺到します。城内に潜んでいた者達が門を開けて迎え入れました。こうして公子・呂は労することなく京城を得ました。
公子・呂はすぐに民衆を安心させるための標札を立て、荘公の孝友と太叔が義に背いて恩を忘れた事を説明しました。城中の人々が太叔を非難します。
 
太叔は出兵してから二日も経たずに京城を失ったと知りました。心中慌てた太叔は昼夜兼行して京城に帰り、城外に陣を構えて攻城の準備をします。しかし部下の士卒達が互いに噂をし始めました。城中の家族が太叔の士卒にこう伝えたためです「荘公(「荘公」は死後につけられる諡号なので、実際には生前に「荘公」とよばれることはありません。便宜上、『東周列国志』の記述に従います)は徳が厚く、太叔は不仁不義である。」
噂は一人から十人へ、十人から百人へと伝わり、多くの将兵「正に背いて逆に従ったら、天理に許容されなくなる」と言って逃走しました。太叔が兵を数えると、大半が去っています。人心が離れたと知った太叔は急いで鄢邑に奔り、再び兵を集めようとしました。しかし鄢にも既に荘公の兵がいたため、太叔は「共はわしの故封(元食邑)だ」と言って共城に入り、城門を閉じて守りを固めました。
荘公は兵を率いて共城を攻撃します。
共城は小邑に過ぎないため、両路の大軍(荘公と公子・呂の軍)に抵抗することはできず、卵が泰山に押し潰されるように陥落しました。太叔は荘公が来たと聞き、嘆いて「姜氏が私を誤らせた。何の面目があって兄に会えるというのだ」と言うと、自刎しました。
 
荘公が段の死体を撫でながら大哭して言いました「癡児(愚かな子)よ、なぜこのようなことになってしまったのだ。」
段の衣服や持ち物を確認すると、姜氏が送った書がありました。荘公は姜氏の書と太叔の返書を一つにして鄭国に送り、祭足を通して姜氏に読ませました。姜氏は潁地に移されます。荘公は「黄泉に至らなければ(死ななければ)会うことはない」と誓いました。
二書を見た姜氏は慙愧し、荘公に会わせる顔もないため、即刻、宮門を離れて潁地に住みました。
荘公が国都に帰った時、既に姜氏はいませんでした。荘公は思わず良心が目覚め、嘆いて言いました「私はやむなく弟を殺したが、更に母を離れさせるとは忍びなくないのか。私は天倫に対する罪人だ。」
 
 
潁谷に一人の封人(国境を管理する官)がいました。名を潁考叔といい、正直無私で孝友の人物として名が知られています。潁考叔は荘公が姜氏を潁に送ったと聞いて、知人にこう言いました「たとえ母が母らしくなくても、子が子らしくないのは正しくない。主公の行いは教化を甚だしく損なうことだ。」
そこで潁考叔は鶚鳥(恐らく鷹の一種)を数羽準備し、野味(自然の味)を献上するという理由で荘公に謁見を請いました。
荘公が「これは何という鳥だ」と聞くと、潁考叔はこう言いました「この鳥は鶚といいます。昼は泰山を見ることもできないのに、夜は秋毫(秋になると生える禽獣の細い毛)を見分けることもできます。明るければ小さくなり、暗くなれば大きくなります。小さい時は母が餌を与えますが、成長したらその母をつついて食べてしまう、不孝の鳥です。だからこうして捕食するのです。」
荘公は黙ってしまいました。
ちょうどこの時、宰夫(調理の官)が蒸羊を運んできました。荘公は宰夫に命じ、羊の肩を割いて潁考叔に与えさせます。しかし潁考叔は肉を紙に包んで袖の中に入れました。荘公が不思議に思ってその理由を問うと、潁考叔はこう言いました「小臣の家には老母がいます。小臣の家は貧しく、毎日、野味(野生の味。高価な調味料が使われていない簡単な料理)だけで口を喜ばせています。このような厚味(御馳走)は食べたことがありません。今、国君が小臣にこれを賜りましたが、老母には一臠(小さく切った肉)の恵みもありません。小臣は老母を想うと喉も通らないので、持ち帰って羹(あつもの)にしてから母に進めようと思うのです。」
荘公は「卿は真の孝子だ」と言うと、悲しそうに長嘆しました。
潁考叔が問いました「国君は何をお嘆きですか?」
荘公が言いました「あなたには母がおり、その母を養って人の子としての心を尽くすことができる。寡人は諸侯という身でありながら、あなたにも及ばない。」
潁考叔が事情を知らないふりをしてまた問いました「姜夫人は堂におり、お変わりないでしょう。なぜ母がいないのですか?」
荘公は姜氏と太叔が共謀して鄭を襲おうとしたこと、それが原因で潁邑に置いたことを詳しく説明してから、「既に黄泉の誓いを立ててしまった。後悔しても取り返しがつかない」と言いました。
すると潁考叔はこう言いました「太叔は既に亡く、姜夫人の子は国君しかいないのに、それを養うことができないとは、鶚鳥と変わりがありません。黄泉に行かなければ会えないというのなら、臣に一計があります。」
荘公がどのような計か問うと、潁考叔が説明しました「まず泉が見えるまで地を掘り、地室(地下の部屋)を作ります。そこに姜夫人を迎え入れて住んでいただき、主公の思いを伝えます。夫人が子を想う気持ちは、主公が母を想う気持ちに劣るとは思えません。そこで主公が地室に行き、夫人と面会すれば、黄泉の誓いに背かなくてもすみます。」
喜んだ荘公は、潁考叔に命じて壮士五百人で地室を造らせました。曲洧(鄭地)の牛脾山の麓に深さ十余丈の穴を掘ると、泉水が湧き出ます。そこで泉の傍に木を組んで部屋を作り、長い梯をつけました。
準備が整うと、潁考叔が武姜を迎えに行き、荘公が後悔して孝養を尽くしたいと思っていることを伝えます。武姜は悲しみ喜び、潁考叔に連れられて牛脾山の地室に入りました。
荘公も輿に乗って牛脾山に到着し、梯で地下に降ります。下まで来ると地面に倒れて拝礼し、「寤生が不孝なため、久しく定省(子が父母にあいさつして変わりがないか尋ねること)を欠いてしまいました。国母のお赦しを請います」と言いました。
武姜が言いました「それは老身の罪です。汝の罪ではありません。」
武姜が荘公の手をとり、母子は頭を抱え合って大哭しました。
その後、二人は梯を登って穴から出ます。荘公が武姜を抱えて輦に乗せ、荘公自身は轡をもって母に侍りました。国人は荘公母子が共に帰る姿を見ると、皆、両手を額の前で組んでお辞儀をし(以手加額)、荘公の孝心を称えました。
荘公は潁考叔を感謝して大夫に任命し、公孫閼と共に兵権を掌握させました。
 
自殺した共叔の子・公孫滑は兵を借りるために衛に行きました。途中で共叔の死を知ったため、そのまま衛に出奔して「伯父が弟を殺し、母を捕えた」と訴えました。
桓公は「鄭伯は無道である。公孫のために討伐しよう」と言って兵を起こします。
 
衛と鄭の勝負はどうなるか、続きは次回です