第六回 衛石碏が大義滅親し、鄭荘公が宋を討つ(後編)

*『東周列国志』第六回の後編です。
 
この頃、周桓王は鄭伯から政権を奪って虢公・忌父に代えようとしていました。しかし周公・黒肩が強く諫めたため、忌父を右卿士に任命して政治を行わせ、鄭伯には左卿士という虚名を与えました。
それを知った鄭荘公が笑って言いました「周王にはわしの爵位を奪うことができないのだ。」
後に斉と宋の会盟を聞いた荘公は、祭足に相談しました。祭足が言いました「斉と宋は元々親交が深くありません。衛侯が間で糾合したから斉も参加したのです。同盟は本心ではないでしょう。主公は既に王命を斉・魯に発しています。魯侯を頼って斉侯を招き、宋討伐に協力させましょう。魯と斉は隣接しており、代々婚姻関係にあります。魯侯が事を共にすれば、斉が逆らうことはありません。また、蔡、衛、郕、許諸国にも檄を送って招き、主公の討伐の意思を示すべきです。もし応じなかったら師(軍)を移して彼等を討伐しましょう。」
荘公は祭足の計に従い、魯に使者を送りました。用兵の日に宋の地を奪ったら全て魯国に譲ることを約束します。
魯の公子・翬は貪欲の徒なので鄭の申し出に快諾し、魯君に上奏してから斉侯に伝えました。三国は中邱で合流することになります。
斉侯は弟の夷仲年を将とし、車三百乗を動員しました。魯侯も公子・翬を将とし、車二百乗を出して鄭を援けます。
 
鄭荘公は自ら公子・呂、高渠彌、潁考叔,公孫閼等の将士を率いて中軍となり、一面の大纛(大旗)を立てました。この旗は「蝥弧」と名付けられ、「奉天討罪(天を奉じて罪を討つ)」という四大字が書かれており、輅車(天子や国君の車)に乗せられています。また、彤弓弧矢も車上に懸けられ、鄭荘公が周王の卿士として討伐に行くことを示しました。
斉の夷仲年が左軍を指揮し、魯の公子・翬が右軍を指揮します。各軍が武威を振るって宋国に殺到しました。
公子・翬が真っ先に老挑地方(『春秋左氏伝』では「老桃」。華夏出版社の『東周列国志』では「老挑」)に至りました。宋の守将が兵を率いて迎え討ちましたが、公子・翬の奮勇を目の当たりにすると、宋兵は一戦しただけで甲冑を棄て、武器を引きずって逃走しました。二百五十余人が捕虜になります。
公子・翬はすぐに捷書(戦勝の報告書)を鄭伯に送り、老挑に鄭軍を迎え入れて営寨を築きました。
鄭荘公が到着すると、公子・翬は奪った捕虜を献上します。喜んだ荘公は公子・翬を称賛し、幕府に命じて第一功として記録させました。
その後、牛を殺して士卒を労い、三日間休憩してから兵を分けて進軍しました。潁考叔と公子・翬が郜城を攻め、公子・呂が援けます。公孫閼と夷仲年が防城を攻めて高渠彌が援けます。
荘公は老挑に老営(本陣)を構えて戦勝の報告を待ちました。
 
宋殤公は三国の兵が国境に進攻したと聞き、驚いて顔を土色にしました。急いで司馬・孔父嘉を招きます。
孔父嘉が言いました「臣が王城に人を送って確認しましたが、宋討伐の王命は降されていません。鄭は命を奉じたと言っていますが、真命ではありません。斉と魯はその術中に陥っているのです。しかし三国が既に合流したので、その勢いと争うことはできません。一つだけ策があり、戦わずに鄭を退かせることができます。」
殤公が言いました「鄭は既に利を得た。退くと思うか?」
孔父嘉が言いました「鄭は王命を偽って列国を招きましたが、今従っているのは斉・魯両国のみです。東門の役では宋、蔡、陳、魯が行動を共にしましたが、魯は鄭の賄賂を貪り、陳は鄭と和平したため、どちらも鄭の党に入りました。まだ鄭に従っていないのは蔡と衛です。今、鄭君自らここに居るので、車徒(車兵と歩兵)が盛んなはずです。国内はきっと空虚でしょう。主公が使者を衛に送り、重賂を使って急を告げ、蔡国と合流して軽兵で鄭を襲わせれば、本国が攻撃されたと聞いた鄭君は必ず旆(旗)を還して援けに行きます。鄭師が退いたら斉・魯がここに留まるはずがありません。」
殤公が言いました「卿の策は素晴らしいが、卿が自ら赴かなければ衛兵が動くとは限らない。」
孔父嘉が言いました「臣が一支の兵を率いて蔡(衛の誤り?)の郷導(先導)となりましょう。」
 
殤公は車徒二百乗を選んで孔父嘉を将に任命し、黄金・白璧・綵緞等の財物を持たせました。孔父嘉は昼夜兼行して衛国に向かい、鄭を急襲するための兵を請います。
礼物を受け取った衛宣公は右宰・醜に兵を指揮させ、孔父嘉と共に間道から鄭の不意を襲わせました。宋・衛連合軍が鄭都・滎陽を直撃します。
鄭都を守る世子・忽は祭足と共に急いで命令を発し、城の守りを固めましたが、すぐに宋・衛連合軍に包囲されました。郭外(外城の外)が襲撃され、人や家畜、輜重が多数奪われます。
右宰・醜が攻城を開始しようとしました。すると孔父嘉が諫めて言いました「人を襲う兵とは敵に備えがない時に乗じ、利を得たら止めるものです。堅城の下で足止めされている間に、もし鄭伯が戻ってきたら、我々は腹背から攻撃を受けることになります。坐して困窮を待つ必要はありません。戴に道を借りて全軍を還すべきです。我々の兵が鄭を去る頃には、鄭君も宋を去っているでしょう。」
右宰・醜はこの言に従い、人を送って戴に道を借りることにしました。
ところが戴人は宋・衛が戴国を襲いに来たと思い、城門を閉じて兵に武器を配り、陴(城壁)を守りました。
孔父嘉は激怒し、戴城から十里離れたところで陣を構えました。右宰・醜と前後に分かれて営寨を築き、攻城を準備します。
戦いが始まると、戴人は城を固守しながら、しばしば城を出て戦いました。双方とも戦果を挙げましたが、決着がつきません。
孔父嘉は蔡国に使者を送って援軍を求めました。
 
その頃、鄭軍は、潁考叔等が郜城を落とし、公孫閼等も防城を攻略し、それぞれ鄭伯の本陣に戦勝の報告をしました。そこに世子・忽の急を告げる文書が届きます。
 
鄭伯はどう対処するか、続きは次回です。