第十一回 宋が賄賂を貪り、祭足が主を逐う(中編)

*『東周列国志』第十一回中編です。
 
宋荘公は魯侯が怒っていると聞いて歓好の関係が長く続かないと判断ました。また、斉侯には子突(鄭霊公)を援ける気がないと知ります。そこで、公子・游を斉に送って友好関係を結び、子突が徳に背いた事を訴えてこう伝えました「寡君は子突を即位させたことを後悔しています。斉君と協力して子突を攻め、故君・忽の位を戻し、併せて燕伯との和平を求めたいと思っています。」
 
宋の使者(公子・游)が斉から戻る前に、宋の疆吏が荘公に報告しました「魯・鄭二国が兵を興して攻めて来ました。その勢いは鋭く、既に睢陽に迫っています。」
驚いた宋公はすぐに諸大夫を招き、敵を迎撃する計を問いました。しかし公子・御説が諫めて言いました「師(軍)の老壮(老弱と強壮。優劣)は曲直にあります(道理がある軍は強く、道理が無ければ劣ります)。我が国は鄭の賄賂を貪り、魯との友好を棄てました。相手に詞(言葉。名分)があります。罪を認めて和を求め、兵を収めて戦を避けることこそ上策です。」
南宮長万が反対して言いました「兵が城下に至ったのに、一矢を放って自分を援けようともしないのでは、弱さを見せることになります。これで国を保つことはできません。」
太宰・華督が「長万の言う通りです」と言って出兵に賛成しました。
宋公は御説の諫言を聞かず、南宮長万を将に任命しました。長万は猛獲を先鋒に推挙し、車三百乗を率いて出陣します。
 
両軍が陣を構えると、魯侯と鄭伯が並んで陣を出て宋の陣前に車を止めました。宋君と会話をするために誘い出そうとします。しかし宋公は後ろめたい気持ちがあったため、体調の不良を理由に姿を現しませんでした。
南宮長万が遠くに並ぶ二つの繍(馬車の傘)を見つけました。二国の君がいるはずです。長万が猛獲の背を叩いて言いました「今日、汝が功を立てなかったら、いつ立てるというのだ。」
猛獲は命に応じると手に渾鉄点鋼矛を握り、車を指揮して直進します。魯・鄭の二君は敵の勢いが凶暴なのを見て車を後退させました。代わりに左右から二人の上将が現れます。魯の公子・溺と鄭の原繁です。それぞれ戎車に乗って猛獲の行方を遮りました。
二将が宋将に姓名を問うと、猛獲が答えました「わしは先鋒の猛獲だ!」
原繁が笑って言いました「無名の小卒よ、我が刀斧の汚れにするには足りない。汝の正将と交代して生死を決めさせろ。」
猛獲は怒って矛を持ち挙げ、原繁の車に突進します。原繁は刀を振るって応戦しました。子溺も魯軍を率いて密集します。しかし猛獲は二将を相手に力戦し、全くひるむ様子を見せません。そこで魯の将・秦子と梁子や鄭の将・檀伯も一斉に襲いかかりました。暫くしてさすがの猛獲もついに力尽きます。
梁子が放った一矢が猛獲の右臂(腕)に刺さり、矛を落とした猛獲の両手を鄭と魯の兵が縛りました。
宋軍先鋒の兵車も甲士も全て鄭・魯両軍に奪われ、逃げ帰ったのは歩卒五十余人だけでした。
 
南宮長万は猛獲の敗戦を聞くと、歯ぎしりして言いました「猛獲を取り戻さなければ、城に帰る面目がない。」
南宮長万は長子の南宮牛に車三十乗を率いて敵を誘わせることにしました。長万が言いました「わざと負けたふりをして敵軍を西門まで誘い出せ。その後はわしに計がある。」
南宮牛は命に応じて陣を出ると、戟を横に持って鄭・魯両軍を罵りました「鄭突は義に背く賊だ!自ら死にに来たが、なぜ速く投降しない!」
ちょうどこの時、鄭の一将が弓弩手数人を率いて単独で陣内を巡視していました。鄭将は南宮牛が若いのを見て勝負を挑みます。
南宮牛は三合もせずに車の向きを変えて逃走しました。鄭将がその後を追います。
しかし鄭将が西門に迫った時、砲声が鳴り響き、南宮長万が退路を絶ちました。南宮牛も向きを変え、前後から挟撃します。鄭将は立てつづけに数矢を放ちましたが、一発も南宮牛に中らず動揺しました。そこに南宮長万が接近し、鄭将の車上に飛び移って捕虜にしました。
 
鄭の将・原繁は本営の偏将が単独で敵陣に赴いたと聞き、損失が出ることを恐れ、檀伯と共に兵を率いて助けに向かいました。すると宋の城門が大きく開かれました。太宰・華督が自ら大軍を指揮して鄭軍を迎え討ちます。そこに魯将・公子溺も秦子と梁子を率いて参戦し、それぞれ火炬を持って奮戦しました(既に日が暮れています)。戦いは朝鶏が鳴く頃まで続き、宋兵に大きな損傷が出ました。
 
戦いの後、南宮長万が鄭将を宋公に献上し、鄭営に使者を送って猛獲と交換することを願い出ました。宋公はこれに同意します。
宋の使者が鄭営に行き、捕虜交換の説明をしました。鄭伯も同意したため、両軍が檻車を陣前に出して捕虜を交換しました。鄭将は鄭営に帰り、猛獲も宋城に帰ります。
この日は両軍とも兵を休ませました。
 
 
これより前、宋公の使者として斉を訪ねた公子・游が斉僖公に謁見しました。僖公が言いました「鄭突は兄を逐って即位した。これは寡人が憎んでいることだ。しかし寡人は紀との間に問題があり、鄭の事に関わっている暇はない。もし貴国が出師して寡人の紀討伐を援けるのなら、寡人も鄭討伐を援けよう。」
公子・游は斉侯に別れを告げると急いで帰国して宋公に報告しました。
 
魯侯と鄭伯が営内で宋攻撃の策を練っていると、報告が入りました「紀国の者が急を告げています。」
魯侯が紀人を接見しました。紀人は国書を献上します。そこにはこう書かれていました「斉兵が紀を攻めており、亡国は旦夕に迫っています。婚姻世好(魯との代々の婚姻関係)に念じ、一旅(一軍)を派遣して水火(危難)から救ってください。」
桓公が驚いて鄭伯に言いました「紀君が急を告げているので、孤(私)は援けないわけにはいきません。宋城は今すぐに攻略できる城ではないので、とりあえず撤兵するべきです。宋公も今後は賄賂を強要することがなくなるでしょう。」
鄭厲公が言いました「貴君が兵を動かして紀を救うのなら、寡人も敝賦(自国の軍)を全て率いて従いましょう。」
魯侯は大喜びし、すぐに営寨を撤去するように命じてから紀国に向かって出発しました。魯侯が三十里先を進み、鄭伯が後ろで宋軍の追撃に備えます。
 
宋公は公子・游の報告を聞きいてから鄭・魯両軍が移動を始めたと聞きましたが、誘兵の計を恐れて追撃せず、間諜に探らせました。
暫くして間諜が戻って報告しました「敵兵は既に全て国境を出ました。やはり紀国に向かっています。」
宋公はやっと安心します。
太宰・華督が上奏しました「斉が既に鄭討伐に同意したのですから、我が国も斉を助けて紀を攻めるべきです。」
南宮長万が言いました「臣に行かせてください。」
宋公は兵車二百乗を動員することにしました。再び先鋒に任じられた猛獲が昼夜兼行し、南宮長万が本軍を率いて後に続きます。
 
斉僖公は衛侯と会見を約束し、燕にも出兵を要求しました。しかし衛が兵を出そうとした時、衛宣公が病にかかって死んでしまいました。世子・朔が即位します。これを恵公といいます。
恵公は喪中でしたが斉の要求を断ることができず、兵車二百乗を送りました。
燕伯も斉に併吞されることを恐れていたため、これを修好の機会と考え、自ら兵を率いて合流します。
三国の大軍を見た紀侯は、濠を深くし壁を高くして守りを固めました。
数日後、突然報告が入りました「魯・鄭二君が紀を助けに来ました。」
紀侯は城壁に登って魯・鄭二軍を確認し、大喜びして迎え入れる準備をしました。
 
先に到着した魯侯は陣前で斉侯と会いました。魯侯が言いました「紀は敝邑(魯)と世姻の関係にあります。上国(斉)の罪を得たと聞いたので、寡人が自ら赦しを請いに来ました。」
斉侯が言いました「我が先祖の哀公は紀の讒言によって周で煮殺された西周夷王の時代の事です)今に至るまで八世になるが、その仇にまだ報いていない。貴君は自分の親族を守ればいい。わしは自分の仇に報いるだけだ。今日の事は、決戦あるのみだ。」
魯侯は激怒して公子・溺に出陣させました。
斉は公子・彭生に応戦させます。
彭生は万夫不当の勇(万人に匹敵する勇)を持っていたため、公子・溺だけはかないません。それを見た秦子と梁子の二将も出陣しましたが、やはり刃が立ちませんでした。
衛と燕の二主も斉と魯の戦いが始まったと聞いて参戦しました。そこに後続の鄭伯が大軍を率いて到着します。原繁が檀伯等の諸将を指揮して斉侯の本営を直撃しました。紀侯も弟の嬴季を出撃させます。喚声が天を振るわせました。
公子・彭生は本営が急襲されたと知り、戦いをあきらめて急いで車の向きを変えました。
六国の兵車が大混戦を繰り広げます。
 
魯侯が燕伯に遭遇して言いました「穀邱の盟では宋、魯、燕の三国が協力することを誓った。しかし口元の血(会盟で殺した犠牲の血)もまだ乾いていないのに、宋人が盟に背いたから寡人が討伐したのだ。貴君も宋の真似をして、目先の事だけを考えて斉に媚びているが、なぜ国家の長計を考えないのだ!」
燕伯は自分の行動に信がないと知っていたため、頭を垂れてその場を去り、自国の兵が破れたと称して逃走しました。
衛には優れた大将がいなかったため、鄭・魯の攻撃を受けて早々に壊滅します。
最後まで残った斉侯の軍も敗れました。死体が野を埋め、血が河のように流れています。
彭生は矢に中って瀕死の状態に陥りました。
魯・鄭両軍が敗残の斉軍を掃討している時、斉を援けに来た宋軍が現れたため、魯・鄭両軍はやっと兵を退きました。
 
ところが、戦場に到着した宋軍が一息する間もなく、魯・鄭がそれぞれ一軍を出撃させました。宋軍は陣営を構える前に大敗して撤退します。
斉と衛も残った兵を集めて引き上げました。
この時、斉侯が紀城を顧みてこう誓いました「我(斉)が存続するのなら紀は存続できない。紀が存続するのなら我が存続できない。決して両立することはない!」
 
紀侯が魯・鄭二君を城に招き、宴を開いてもてなしました。軍士にも厚い賞が与えられます。
嬴季が言いました「斉兵は利を失い(敗戦し)、ますます紀を恨んでいます。今、両君が堂に集まったので、保全の策を求めたいと思います(恐らく同盟したいという意味です)。」
しかし魯侯がこう言いました「今はその時ではありません。後日、改めて考えましょう。」
翌日、紀侯は城から三十里も離れた場所まで二君を送り出し、涙を流して別れを惜しみました。
 
魯侯が帰国してから、鄭厲公が改めて使者を送って修好を求め、武父の盟で結んだ友好を再確認しました。この後、魯・鄭が一党となり、宋・斉が一党となります。
この頃、鄭国の櫟を守る大夫・子元が死んだため、祭足が厲公に上奏して檀伯を後任にしました。周桓王二十二年の事です。
 
 
 
*『東周列国志』第十一回後編に続きます。