春秋時代217 東周景王(三十九) 叔向と叔魚 前528年

今回は東周景王十七年です。
 
景王十七年
528 癸酉
 
[] 春、魯の季叔意如が晋から帰国しました。
 
[] 魯の南蒯が費邑で挙兵した時(東周景王十五年・前530年参照)費の官吏に協力を求めて盟を結ぼうとしました。しかし司徒(季氏の小司徒。一説では老祁の姓が「司徒」)・老祁と慮癸は病と称して南蒯に使者を送り、こう伝えました「臣は盟を受けたいと思っていますが、疾(病)が起こりました。もし君(あなた)の霊(福)によって死ななくてすむなら、回復してから盟を結ばせてください。」
南蒯は同意しました。
 
老祁と慮癸は民の力を借りて南蒯に対抗する方法を考えていました。
この年、二人の下に民が集まります。人々は協力を誓って盟を結びました。
二人は民を率いて南蒯を捕え、こう言いました「群臣は主君(季子)を忘れたことがありません。しかし子(あなた)を恐れて三年間も命を聞いてきました。子はよく考えるべきです。費人は主君に背くことができないので、時間が経てば子を恐れなくなるでしょう。子の願いがかなうことはありません。子を送り出させてください。」
南蒯は五日間待つように請い、その間に費を棄てて斉に出奔しました。
 
ある日、斉景公が南蒯と酒を飲んだ時、景公が戯れて「叛夫(叛徒)」と呼びました。
南蒯は「臣は公室を大きくしたいと考えただけです」と応えます。
すると大夫・子韓晳(恐らく公孫晳。子韓は字)が言いました「家臣が公室を大きくしようとすることほど、大きな罪はありません(家臣は卿大夫の臣下なので、公室を大きくするのは直接の主に対する裏切りになります)。」
 
南蒯が挙兵した時、南蒯は費邑を挙げて斉に帰順する意思を伝えていました。
しかし南蒯が出奔したため、老祁と慮癸は魯に帰順します。斉景公も鮑国(鮑文子)を魯に送って費邑の返還を伝えました。
 
[] 三月、曹武公が在位二十七年死に、子の須が立ちました。平公といいます。
 
[] 夏、楚平王が然丹を上国(国の西部。川の上流に当たることから「上国」といいます。逆に東部は「下国」といいます)の宗丘に派遣し、精兵を選んで訓練させました。
然丹は自分が鍛えた精鋭部隊を使って楚西部の民を鎮撫しました。
 
平王は貧困の者に施しを与えて救済し、孤幼(年少の孤児)を養育し、老疾(病を患う老人)を養い、介特(独身者)を集めて生活させ(婚姻のために人材が国外に出て行くことを防ぐのが目的です)、災患を救い、孤寡(孤児や寡婦の税を軽くし、罪を犯した者に寛大になり、姦慝(姦邪)を厳しく取り締まり、淹滞(能力があるのに官位に就いていない者)を抜擢し、新(新たに楚に来た者)を礼遇し、旧(元から楚にいる者)と親しく接し、勲(勲功)を記録して褒賞し、親族と和睦し、賢良を探して官を与えました。
 
屈罷も東国の精兵を召陵で選んで訓練し、民を慰撫しました。
辺境が安定したため、長期間、民を休ませることができました。
 
[] 秋、曹が武公を埋葬しました。
 
[] 八月、莒の著丘公(去疾)が死に、子のが継ぎました。これを郊公といいます。
しかし郊公には悲哀の様子がなかったため、国人は著丘公の弟・庚輿(または「庚與」)を立てようとしました。庚輿はこの時、斉にいます。
 
莒の大夫・茲夫(蒲餘侯)は庚輿と親交があり、公子・意恢を嫌っていました。
郊公は意恢と親交があり、公子・鐸を嫌っていました。
公子・鐸が茲夫に言いました「汝が意恢を殺したら、私が君(郊公)を追い出して庚與を迎え入れましょう。」
茲夫は同意しました。
 
[] 楚の令尹・蔓成然成然。子旗)は平王を即位させた功績を自負して節度を失い、養氏(養由基の子孫)と与して貪婪を尽くしました。平王はこれを憂います。
九月甲午(初三日)、平王が蔓成然を殺し、養氏の族を滅ぼしました。
但し、平王は蔓成然の子・辛を鄖に住ませて家系を継承させ、蔓成然と氏の旧功を忘れませんでした
 
[] 冬十二月、莒の茲夫が公子・意恢を殺しました。郊公は斉に奔ります。
公子・鐸が庚輿を斉から迎え入れました。斉の隰党と公子・鉏が庚輿を送ります。莒は斉に感謝して一部の田地を割譲しました。
即位した庚輿を共公といいます。
 
資治通鑑外紀』はここで『呂氏春秋・恃君覧』から莒敖公の故事を紹介しています。敖公は共公と同一人物という説があるようです。
柱厲叔は莒敖公に仕えていましたが、才能を理解されなかったため、敖公から離れて海上に住むようになりました。夏は菱芡(菱角と芡実。植物の名)を食べ、冬は橡栗(どんぐり)を食べて過ごします。
後に敖公が難に遭って殺されると、柱厲叔も友人に別れを告げて死のうとしました敖公と共公が同一人物だとしたら、東周敬王元年・前519年に共公は国君の地位を逐われます。但し、殺されたのではなく、魯に出奔しました)。柱厲叔の友人が言いました「(あなた)は自分が理解されていないと思ったから去った。しかしこれから死にに行くのなら、理解されていてもいなくても同じではないか。」
柱厲叔が言いました「そうではない。私は莒君に理解されていないと思ったから去ったが、莒君が死んだのに私が死ななかったら、莒君は私を理解していたことになってしまう。私が死ぬのは、後世の人主が自分の臣下を理解できないことを恥と思わせるためだ。私が死ねば、人主の正しい行いが奨励され、人主の節を磨かせることができる。人主の正しい行動が奨励されてその節が磨かれれば、忠臣が理解されるようになるだろう。忠臣が理解されれば、君道(国君の道理)を固めることができる。」
 
[] 晋の邢侯(巫臣の子)と雍子(元楚人)が鄐の地を巡って争いましたが、長い間解決できませんでした。鄐の地は二人に領有されています。分割する境界が問題になったようです。
 
理官(法官)・士彌牟(士景伯)が楚を訪問している間、叔魚が代わりに政務を行いました。
韓起(韓宣子)が叔魚に古い訴訟を処理するよう命じます。
そこで叔魚は鄐の問題を調査し、雍子に否があると判断しました。雍子が一方的に所有地を拡大しようとしたようです。
ところが、雍子が娘を叔魚に嫁がせたため、叔魚は雍子の罪を隠して邢侯に責任があるとしました。
怒った邢侯は朝廷で叔魚と雍子を殺してしまいました。
 
韓起が叔向(叔魚の兄)にどう裁くべきか問うと、叔向はこう言いました「三人とも同罪です。生きている者を処刑し、死んだ者の死体と共に晒せばいいでしょう。雍子は自分に罪(否)があると知って賄賂を贈り、直(勝訴)を買いました。鮒(叔魚)は鬻獄(賄賂によって判決を曲げること)をしました。刑侯は勝手に人を殺しました。彼等の罪は同じです。自分に罪悪があるのに美名を得ようとするのは『昏()』です。貪によって職責を棄てるのは『墨(清廉ではないこと)』です。平気で人を殺すのは『賊』です。『夏書(佚書)』にはこうあります『昏、墨、賊は死刑(昏墨賊、殺)。』皋陶が定めた刑なので、これに従うべきです。」
こうして邢侯も処刑され、雍子、叔魚の死体と一緒に市に晒されました。
 
孔子は弟でも庇うことなく公正な刑を用いた叔向を称え、「古の実直な気風を持っている(古之遺直也)」と評しました。
 
この出来事は『国語・晋語九』にも書かれています。
理官・士景伯(士彌牟)楚を聘問した時、叔魚が賛理(理官の補佐)として政務を行いました。
当時、邢侯と雍子が田(土地)を争っていました。自分に非があることを知っている雍子は娘を叔魚に嫁がせて、裁きを有利にしようとします。
断獄(裁き)の日、叔魚は邢侯の訴えに否があるとしました。
怒った邢侯は朝廷で叔魚と雍子を殺してしまいました。
韓宣子(韓起)がこの事件の処置に困っていると、叔向が言いました「三姦は同罪です。生きている者を殺し、死んだ者を晒すべきです。」
宣子が更に詳しい意見を求めたため、叔向が言いました「鮒(叔魚)は鬻獄し、雍子は娘を使って買収し、邢侯は司寇の官でもないのに勝手に人を殺しました。賄賂という姦邪によって国の法を曲げ、家族を棄てて直を買い、司寇でもないのに人を殺すのは、同じ罪です。」
邢侯はこれを聞いて逃走しました。邢侯の家族が処刑され、叔魚と雍子の死体と共に市に晒されました
 
叔魚が産まれた時の事が『国語・晋語八』に書かれています。
叔魚が産まれた時、その姿を見た母が言いました「この子は虎目(虎のような目)・豕喙(豚のように尖った口)、鳶肩(鷹のように高い肩)・牛腹(牛のように出っ張った腹)をしています。川や溝は水によって満たすことができますが、この子を満足させることはできないでしょう。必ず賄賂によって死ぬことになります。」
母は叔魚を自分で育てなかったといいます。
 
資治通鑑外紀』はここで『国語・晋語八』から晋の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。
 
 

次回に続きます。