春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(前)
東周襄王十七年(前636年)、晋の重耳が帰国しました。
ここでは『史記・晋世家』の記述を紹介します。
晋文公・重耳は晋献公の子です。
若い頃から士を愛し、十七歳で五人の賢士と交わりがありました。趙衰、狐偃咎犯、賈佗、先軫、魏武子です。このうち、狐偃咎犯は文公の舅(母の兄弟)にあたります。
晋献公が太子だった頃に重耳は既に成人になりました。献公が即位した時、重耳は二十一歳でした。
献公十三年、驪姫のために重耳は蒲城に送られ、秦に備えるように命じられました。
献公二十一年、献公が太子・申生を殺しました。この時、重耳は晋都に帰っていましたが、驪姫が讒言したため、恐れた重耳は献公に別れを告げず、蒲城に逃げて守りを固めました。
献公二十二年、献公が宦者・履鞮(勃鞮。寺人・披)を派遣して重耳を殺そうとしました。重耳は壁を越えて逃走します。宦者は重耳を追撃し、服の袖を切りました。
重耳は狄(翟)に出奔しました。狄は重耳の母の国です。この時、重耳は四十三歳で、五賢士の他に名が知られていない数十人の者が従いました。
狄が咎如(赤狄。隗姓)を討伐して二女を得ました。長女(年上の娘)は重耳に嫁いで伯鯈と叔劉を産み、少女(年下の娘)は趙衰に嫁いで盾を産みます(『春秋左氏伝』では年上の叔隗が趙衰に嫁ぎ、年下の季隗が重耳に嫁いでいます)。
狄に住んで五年で晋献公が死にました。
里克が奚斉と悼子を殺し、人を送って重耳を迎え入れようとします。しかし重耳は殺害を恐れて固辞しました。
晋朝廷は重耳の弟・夷吾を迎え入れて即位させます。これを恵公といいます。
恵公七年、恵公は重耳の存在を恐れ、宦者・履鞮と壮士を送って重耳を殺そうとしました。
それを知った重耳は趙衰等と謀ってこう言いました「以前、私が狄に奔ったのは、ここで振興するためではなく、近くて交通が便利なので暫く休めると思ったからだ。しかしすでに久しく休息した。これから大国に向かうつもりだ。斉桓公は好善で、志は霸王にあり、諸侯を大切にしている。最近、管仲と隰朋が死んだと聞いた。賢佐を求めているはずだ。斉に行くべきではないか。」
一行は斉に行くことにしました。
重耳が妻に言いました「二十五年待っても帰ってこなかったら、他の者に嫁げ。」
妻は笑ってこう言いました「二十五年も経ったら冢(墓)の上の柏も大きくなっているでしょう。それでも妾(私)は子(あなた)を待ちます。」
重耳は狄に十二年間滞在して去りました。
一行が衛を通りました。しかし衛文公が礼を用いなかったため去りました。
一行は五鹿(衛地)で食糧がなくなったため、野人(郊外に住む民)に食を乞いました。すると野人は器に土を盛って重耳に進めました。重耳が怒ると趙衰がこう言いました「土は土地を有するという意味です。拝礼して受け取るべきです。」
斉に入りました。
しかし重耳は斉に滞在し続けました。五年が経ちましたが、重耳は斉女を愛していたため、去ろうとしません。
ある日、趙衰と咎犯が桑の木の下で斉を去る相談をしました。この時、斉女の侍者が桑の木の上で密談の内容を聞いてしまい、主(斉女)に報告しました。
すると主は秘密が漏れることを恐れて侍者を殺し、重耳に斉を出るように勧めました。
ところが重耳はこう言いました「人生とは安楽を求めるものだ。他の事は関係ない。私はここで死ぬつもりだ。去ることはできない。」
斉女が言いました「子(あなた)は一国の公子ですが、困窮してここまで来ました。従っている数人の士は子を命としています。それなのに子は速やかに国に帰って労臣に報いようとせず、女徳を忘れることができません。子のことを考えると恥ずかしくなります。そもそも、追及することがないのに、いつになったら功を得られるというのですか。」
斉女は趙衰等と謀り、重耳を酔わせて車に乗せ、斉を発たせました。
斉から遠く離れた場所で目が覚めた重耳は、激怒して戈を持ち、咎犯(子偃)を殺そうとします。
咎犯が言いました「臣を殺して子(あなた)が成就するのなら、それは偃(私)の願いです。」
重耳が言いました「事が成らなかったら舅氏(咎犯)の肉を食ってやる。」
咎犯が言いました「事が成らないとしても、犯(私)の肉は腥臊(生臭いこと)なので、食べるには値しません。」
重耳は怒りを収めて旅を続けました。
次回に続きます。