春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(後)

史記・晋世家』から晋の公子・重耳の帰国について書いています。前回の続きです。
 
重耳一行がに入りました。しかし曹共公は礼を用いず、重耳駢脅(肋骨がつながっているという奇相)を観ようとしました(沐浴を覗き見ました)
大夫釐負羈が諫めて言いました晋の公子才で、しかも曹と同姓です。困窮して我が国に来たのに、無礼をはたらいてはなりません。
しかし共公は諫言を聴きません
負羈は個人的に重耳に食事を贈り、その下にを隠しました。重耳は食事だけ受け取ってを返しました
 
では宋襄公に敗れてで負傷したばかりだったため、重耳才を聞き、国礼(国君に対する礼)を用いて重耳をもてなしました
司馬公孫固咎犯と親しくなり、こう言いました「宋国で、しかも最近敗戦したばかりです。公子の帰国を援助することはできません。改めて大国に向かうべきです。」
重耳一行は宋を去りました
 
に入ると、鄭文公も礼を用いませんでした
叔瞻が鄭を諫めて言いました晋の公子才で、その従者は、国に匹敵します。しかも公子は鄭と同姓です。鄭厲王から生まれており、晋は武王から生まれています。」
鄭君が言いました「諸侯公子で亡命したの多くがここを通る。全てに礼を尽くすことはできない。
叔瞻が言いました主公が礼を用いないのなら殺すべきです。の国となります。」
鄭君は諫言を聴きませんでした
 
重耳は鄭を去ってに行きました。
楚成王諸侯(国君)に対する礼と同等の礼でもてなそうとしましたが、重耳は謙遜して辞退しました。
すると趙衰が言いました「子(あなた)は亡命して国外に十余年もおり、国ですらを軽視しています。国ならなおさらでしょう。しかし国でありながらを厚遇しようとしています。は辞退するべきではありません。これはのために道を開いているのです。」
重耳は礼によって楚王に会いました
成王重耳を尊重し、重耳は謙恭な態度をとります
成王が問いました「子(あなた)が国に帰ることができたら、どのように寡人に報いるつもりですか?」
重耳が言いました「羽毛、歯玉帛といったものは君王が所有して余りあります。何によって報いるべきかはわかりません。」
が問いましたそうだとしても、かで不穀に報いるつもりでしょう?」
重耳が答えましたもしもやむなく君王兵車をもって平原広沢で会うことになったら(楚と戦をすることになったら)、王を避けて三舍(九十里)撤退しましょう。」
の将・子玉が怒って言いました「王は晋の公子をこれほど厚く遇しているのに、重耳は不遜です。殺させてください。」
成王が言いました晋の公子才だが、国外で困窮して久しい。その従者は、国(国を支える器)であり、これはが授けたものだ。どうして殺せるだろう。そもそも言を変えることはできない(「言何以易之」。既に話したことは変えられない)
重耳がで生活して数か月後、人質として秦にいた晋の太子から晋に逃げ帰りました。はこれを怨み、重耳にいると聞いて迎えの使者を送ります。
成王が重耳に言いました「楚は遠く、数国を越えなければ晋に行けません。と晋は国境が接しています。それに秦君人です。(あなた)は勉めて秦に行くべきです。
成王はい礼物を重耳に贈って送り出しました
 
重耳に入ると秦繆公(穆公)宗女五人重耳に嫁がせました。子圉の元もその中にいます。重耳が辞退しようとすると、司空季子胥臣臼季が言いました彼の国子圉の国。晋)を討伐しようとしているのです。元を得るのをためらう必要はありません。それに、受け入れれば情を結んで国に帰ることができます。(あなた)礼にこだわって大醜(羞恥)を忘れるのですか。
重耳は納得して子圉の元妻も娶りました
喜んだ繆公重耳と酒を飲みます。趙衰が『黍苗詩経・小雅)』のを歌うと、繆公が言いました「子(あなた)が急いで帰りたいと思っていることはよく知っています。」
趙衰重耳は席を離れ、再拝して言いました「孤臣(我々君臣)(秦君)を仰ぎ見るのは、百穀時雨を望むのと同じです。」
これは晋恵公十四年秋の事です
この年の九月、晋恵が死んで子圉が即位しました
十一月、恵が埋葬されます
十二月、晋国の大夫氏やが、重耳にいると知り、秘かに重耳趙衰等に帰国を勧めました。晋の大夫達が内応を約束します
そこで秦繆公を発して重耳を帰国させました
晋朝廷は秦兵が来たと知ってを出しました。しかし国人は秘かに公子重耳を支持しており、重耳が帰国して政権を握ることになると信じていました。重耳の即位を望まないのは恵に仕えていた貴臣呂甥郤芮の徒党だけです。
重耳は亡命して十九年で晋に帰りました。既に六十二歳になっていました。