春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(3)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。
 
『国語・呉語』の続きです。
越王・句践が宮内に入り、夫人に命令を出しました。越王は寝門前の屏(屏風。外と中を遮る小さい壁)を背にして立ち、夫人が屏に向いています。越王が北向き、夫人が南向きになります。
越王が言いました「今日以後、内政(家内、宮内の事)を外に出してはならず、外政(国事)を中に入れてはならない。内に辱(失敗。内政が外に出ること)があったら子(汝)の責任である。外に辱があったらわしの責任である。わしが子(汝)に会えるのはこの場所までだ(出征の覚悟を示します)。」
越王が門を出た時、夫人は王を送り出しましたが、屏を越えませんでした。左闔(門の左の扉)を閉じて土で固定し、開けられなくします。左は陽、右は陰を代表するので、左の扉を閉じたのは幽閉されたことを示します。
夫人は笄(簪)等の装飾品を取り外し、体を斜めにして坐りました。体を正面に向けず斜めにするというのは、憂いを表す礼のようです。また、門前の掃除もしなくなりました。装飾・清掃がなくなり、ありのままを保つのも憂慮を示すようです。
 
越王・句践が留守を命じた大夫達を集めました。越王が朝堂の門の檐(ひさし)を背にして立ち、大夫達が檐を向いて立ちます。
越王が大夫達に命じて言いました「食土(田地)の分配が不平等で土地が治められず、国内で辱(失政)があるようなら、子(汝等)の責任である。軍士が命をかけず、国外で辱(敗戦)があったら、わしの責任である。今日以後、内政の事が外に出てはならず、外政(軍旅)の事が中に入ってはならない。わしが子(汝等)に会うのはこの場所までだ。」
越王が朝堂を出た時、大夫達は越王を見送りましたが檐から出ませんでした。左闔を閉めて土で固定し、斜めに座って掃除をしなくなりました。
 
越王・句践が郊野に壇を築き、戦鼓を叩いて出発しました。
越王は陣に入ると罪人を処刑して見せしめとし、こう言いました「彼のように環瑱(金玉・装飾)を賄賂にして軍を乱すようなことはしてはならない。」
翌日、越軍が陣を移動させると、越王は別の罪人を処刑し、見せしめにして言いました「彼のように伍の令(軍令)に逆らってはならない。」
更に翌日、陣を移動させてから越王が三人目の罪人を処刑し、見せしめにして言いました「彼のように王命に逆らってはならない。」
翌日、越軍は禦児(北境)に至りました。そこでも罪人を処刑し、見せしめにして言いました「彼のように淫逸(放縦)で制御できないようになってはならない。」
 
越王・句践が有司(官員)を使って全軍に告げました「父母が耆老六十歳が耆。七十歳が老)で兄弟がいない者は報告せよ。」
該当する者が集まると、越王が自らこう言いました「わしは大事を行おうとしている。子(汝等)は耆老の父母がいるのに、わしのために死のうとしている。しかしそれでは子の父母は溝壑(深い谷間。苦難。苦境。もしくは死)に陥ってしまうことになる。子がわしのために行った礼(父母から離れて駆けつけたこと)は既に充分重い。子は帰って父母を最期まで見送れ。もしも後にまた大事があったら、改めて子と図ろう。」
 
翌日、句践が有司を使って全軍に告げました「兄弟が四五人おり、全てここにいる者は報告せよ。」
該当する者が集まると、越王が自ら言いました「わしは大事を行おうとしている。子(汝等)は四五人の兄弟がおり、皆、ここにいる。しかしもし事が成功しなかったら、全滅することになる。帰りたい者を一人選んで帰らせよ。」
 
翌日、句践が有司を使って全軍に告げました「眩瞀の疾(視力が悪いこと。目の病)をもつ者は報告せよ。」
該当する者が集まると、越王が自ら言いました「わしは大事を行おうとしている。子(汝等)には眩瞀の疾がある。汝等はここで帰れ。もしも後にまた大事があったら、改めて子と図ろう。」
 
翌日、句践が有司を使って全軍に告げました「筋力不足(虚弱)のため甲兵(従軍)に堪えることができない者、志行不足(知力が劣り行動が鈍い)のため命を聞けない者は帰れ。報告の必要はない。」
 
翌日、全軍を移動させ、罪人を処刑して見せしめにし、こう言いました「彼は志行(心と行動)を勇敢にできなかった。彼のようになってはならない。」
越の将兵は決死の覚悟を決めました。
そこで越王は有司を使って全軍に宣言しました「二三子(諸君)の中で、帰るように命じても帰らず、留まるように命じても留まらず、進むべき時に進まず、退くべき時に退かず、左に進ませても左に進まず、右に進ませても右に進まない者がいたら、その身を斬って妻子を売り払うことにする。」
 
越の出兵を知った呉王・夫差も兵を起こして松江北に駐軍しました。越王は松江南に駐軍します。
越王は中軍を左右の二軍に分け、私卒君子(越王の近臣、禁衛)六千人を中軍にしました。
翌日、松江で両軍の舟師が戦います。
夕方、越王が左軍に枚(声を出さないために人馬の口にくわえさせた箸のような道具)を噛ませ、松江を五里さかのぼった場所で待機させました。また、右軍にも枚を噛ませ、松江を下って五里の場所で待機させました。
夜中、左右両軍に命じて松江に入らせ、川の中腹で戦鼓を敲かせます。
それを聞いた呉軍は驚いて「越人は二師に分かれて我が師を挟撃するつもりだ」と言い、朝になるのを待たずに中軍の兵を左右に分けて越軍に対抗しました。
それを見届けた越王は中軍に枚を噛ませて秘かに松江を渡ります。戦鼓を敲かず喚声も挙げず、呉軍を急襲しました。
呉軍が破れて奔走すると、越の左軍と右軍も松江を渡って攻撃に参加します。
その後、呉軍は没(地名)でも大敗し、郊外(外城の外)でも破れました。三戦三敗して呉都に還ります。
越軍も呉都に入り、王台姑蘇)を包囲しました。
 
呉王・夫差は恐れて使者を派遣し、講和を求めました。
使者が越王・句践に言いました「昔、不穀(国君の自称)が越君の制御を受けましたが(実際は呉が越を服従させました。謙遜して敢えて逆の表現をしています)、貴君が孤(国君の自称)に講和を求め、男女(奴婢。または国民)を率いて服したので、孤は越の先君との友好を考え、天の不祥(不吉。凶兆)を恐れ、越の祭祀を絶たずに貴君と講和し、今に至りました。しかし今、孤が不道によって君王の罪を得たため、君王が自ら弊邑に訪れました。孤は敢えて講和を求め、男女を服従させて貴君の臣御(奴隷。従者)にすることを望みます。」
越王が言いました「昔、天が越を呉に与えた時、呉はそれを受け取らなかった。今、天が呉を越に与えたが、孤が天の命を聞かず、貴君の令を聞くことができると思うか?」
講和は拒否されました。
 
越王が使者を送って呉王に伝えました「天が呉を越に与えたので、孤はそれを受け入れないわけにはいかない。民(人)の生とは長くないので、王は簡単に死を選んではならない。民が地上に生きるのは寓(寄生)と同じだ。それがどれだけ続くだろう。寡人は王を甬句東(越東境の地)に送り、夫婦三百(男女各三百人)を与えるつもりだ。王が彼等と安らかに暮らし、王の寿命を終えることを願う。」
しかし夫差は辞退して言いました「天が既に呉国に禍を降した。それは前でも後ろでもなく、孤の身に起き、宗廟・社稷を失うことになった。呉の土地と人民は全て越が有するようになった。孤には天下に会わせる顔がない。」
夫差は死ぬ前に使者を派遣し、伍子胥を祭らせてこう言いました「死者が知ることができないのならそれでいい。しかしもし知ることができるのなら、わしはどの面目が会って員(伍員)に会えばいいのだ。」
夫差は自殺しました。
 
越は呉を滅ぼしてから、北上して上国(中原諸侯)を攻めました。
宋、鄭、魯、衛、陳、蔡の国君が玉器をもって越に入朝しました。
これは句践が群臣にへりくだり、智謀を集めることができた結果です。逆に呉王・夫差は伍子胥の諫言を聞くことができず、太宰嚭の讒言を信じて禍を招きました。
 
 
 
次回に続きます。