春秋時代287 東周敬王(五十六) 魯・斉講和 前480年(1)

今回は東周敬王四十年です。二回に分けます。
 
敬王四十年
480年 辛酉
 
[] 春正月、魯の成邑が叛して斉に頼りました。
魯の仲孫彘(孟武伯)が成を討伐しましたが、勝てませんでした。
仲孫彘は輸に城を築きました。
 
[] 夏、楚の子西と子期が呉を攻撃し、桐汭(桐水)に至りました。
 
陳閔公が公孫貞子(司城貞子)を呉に送って慰労しようとしましたが、公孫貞子は良(呉都周辺)で死んでしまいました。陳人は公孫貞子の霊柩を呉に運ぼうとします。
しかし呉王・夫差は太宰・嚭(伯嚭)を送って陳の使者を慰労し、こう言いました「水潦(雨)が調和していないので、大水(洪水)によって大夫(公孫貞子)の尸(霊柩)を損なう恐れがある。それは寡君の憂いを重ねることになるので、寡君は(貴国の聘問を)敢えて辞退する。」
陳の上介(副使の筆頭)を勤める芋尹・蓋(芋尹は官名。蓋が名)が言いました「寡君は楚が不道(無道)によってしばしば呉国を侵し、民人を失わせていると聞いて、蓋(私)を使者の列に加え、貴君の下吏(官吏)を慰問させました。しかし不幸にも使臣が天の慼(憂)に遭い、大命を落として良で世を去りました。我々は時間を費やして葬礼の準備を整えながら、君命を廃さないために日々住む場所を変えて貴国に向かっています(廃日共積,一日遷次)。ところが今、貴君は使臣に対して『尸(霊柩)が城門に至る必要はない』と伝えました。これは寡君の命を草莽(草叢)に棄てるようなものです。『死者に仕える時も生者に仕えるようにするのが礼である(事死如事生,礼也)』といいます。だから朝聘の途中で使臣が命を落としても、尸を奉じて朝聘を行う礼があり、朝聘の途中で(朝聘を受ける国に)喪があったら、喪に遭遇した時の礼(郊外での出迎えや礼物の贈答がない等、通常の朝聘の礼とは異なります)を行うのです。使臣が尸を奉じて使命を完遂しないのは、(朝聘を受ける国に)喪があったために引き返す時だけです(朝聘する国の使者が道中で死に、朝聘を受ける国でも喪があった場合は、使者の死体を奉じて朝聘するべきではありません。今回は使者が死んだだけで呉には喪がありません)(朝聘を受ける国である呉に喪が無いのに、正使が死んだからといって我々が引き返すのは)相応しくありません。礼によって民を防いでも(抑えても)、礼を越える者は出てきます(礼を用いても礼を守らない者は出てきます。礼を棄てたらなおさらです)。今、大夫は『死んだから命を棄てよ』と言いましたが、これは礼を棄てることです。礼を棄ててなぜ諸侯の主になれるでしょうか。先民はこう言いました『死者を汚らわしい物とするな(無穢虚士)。』私は尸を奉じて命を完遂します。もし寡君の命が貴君のいる場所に達するようなら(呉が陳の使者を受け入れるようなら)、たとえ深淵に落ちたとしても(大水に遭って命を落としても)、それは天命なので貴君や渉人(津吏。船着き場の官吏)の過ちではありません。」
呉は陳の使者を受け入れました。
 
[] 五月、斉の高無●(「不」の下に「十」)北燕に出奔しました。これは『春秋』経文の記述です。『春秋左氏伝』に記述が無いので、事件の詳細は分かりません。
史記・越王句践世家』では、高無●は東周敬王三十六年(前484年)に呉と戦って敗れ、捕えられています。しかし『春秋』の記述を見ると、『越王句践世家』の誤りのようです。
 
[] 鄭声公が宋を攻めました。
 
[] 秋、斉の陳瓘(子玉。陳恒の兄)が楚に向かいました。
陳瓘が衛を通った時、仲由子路孔子の弟子)が陳瓘に会って魯のためにこう言いました「あるいは天が陳氏を斧斤として公室を削り、他人に所有させようとしているのかもしれません。最後は(陳氏が)それを享受することになるかもしれません。魯との関係を改善して時を待つのも、良いものではありませんか。なぜ敢えて関係を悪くするのですか。」
陳瓘が言いました「その通りです。私はあなたの命(言)を受け入れます。子(あなた)は人を送って私の弟(陳恒)にそれを伝えてください。」
 
[] 八月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 晋の趙鞅が衛を攻めました。
 
[] 冬、晋定公が鄭を攻めました。
 
[] 魯と斉が講和しました。
 
魯の子服何(景伯)が斉に入りました。子贛(子貢。端木賜。孔子の弟子)が介(副使)になります。
子贛が魯から斉に帰順した成邑の宰・公孫宿(公孫成)に言いました「人は皆、他の人の臣下という立場にいますが、主に背こうとする心を持つ者もいます。斉人は子(あなた)のために力を貸していますが、二心を持たないといえますか?子(あなた)は周公の子孫であり、大利を享受して来たのに、不義を考えています。利を得ることができず、逆に宗国を失うことになって、どうするつもりですか?」
公孫宿が言いました「その通りです(善哉)。早くあなたの命を聞いていればよかった。」
 
斉の陳恒が賓館で魯の使者に会って言いました「寡君は恒(私)にこう伝えさせました『寡人は衛君に仕えているように魯君にも仕えたい。』」
景伯何が子贛に揖礼し、子贛を前に出して答えさせました「それは寡君の願いでもあります。昔、晋人が衛を攻めた時、斉は衛のために晋の冠氏を攻撃し、車五百を失いました(東周敬王十九年・前501年)。しかし斉は衛に領地を割き、済水以西、媚・杏以南の書社五百(書は戸籍、一社は二十五戸)を与えました。ところが、呉人が敝邑に乱を加えた時は(東周敬王三十三年・前487年)、斉は敝邑の病(困難)につけこんで讙と闡を奪いました。寡君はこれによって寒心(失望)したのです。もし衛君のように貴君に仕えることができるのなら、それはもとより敝邑の願いです。」
陳恒は羞じて成邑を魯に還すことにしました。
成の宰・公孫宿は兵甲(兵器と甲冑)を持って(もしくは士兵を連れて)(斉の邑)に移りました。
 
 
 
次回に続きます。