春秋時代288 東周敬王(五十七) 衛荘公即位 前480年(2)
今回は東周敬王四十年の続きです。
衛の孔圉(孔文子)は太子・蒯聵の姉(孔姫。孔伯姫)を娶って孔悝を産みました。
孔氏の豎(童僕。小臣)・渾良夫は背が高く美しかったため、孔圉が死んでからその妻(孔姫。孔伯姫)と姦通するようになります。
太子・蒯聵は当時、戚にいました。孔姫が蒯聵の住居に渾良夫を送ると、蒯聵はこう言いました「もし私を国に入れることができたら、汝に冕(大夫の服)を着せ、軒(大夫の車)に乗せ、三回死罪を赦す特権を与えよう。」
閏十二月、渾良夫と蒯聵が衛都・帝丘に入り、孔氏の外圃(家の外の菜園)に住みました。
日が暮れてから二人は頭から布をかぶって車に乗ります。布をかぶって顔を隠すのは女性が外出する時の姿です。
寺人(宦官)・羅が車を御して孔氏の家に行きました。
孔氏の老(家老)・欒寧(欒甯)が誰かと問うと、「姻妾(婚姻関係にある家の婢妾)」と答えます。欒寧は蒯聵と渾良夫を中に通しました。
蒯聵と渾良夫は孔姫に会い、食事をしました。その後、孔姫が戈を持って部屋に入ります。蒯聵と部下の五人が甲冑を身につけて部屋を出ました。豭(盟約の犠牲に使う豚)を載せた車が後に続きます。
孔悝を見つけた蒯聵等は、孔悝を厠(楊伯峻の『春秋左伝注』によるとこの「厠」は壁際の意味)に追いつめて盟を結ぶように強制し、孔氏の家に建てられた台に登りました。
同時に獲(人名)に車を御させ、車上で酒を飲み炙を食べながら公宮に向かいました。車上での飲食は恐れを抱いていないことを現します。欒寧は衛出公を奉じて魯に出奔しました。
子路が言いました「それでも行ってみようと思う。」
子羔が言いました「行っても間に合わない。わざわざ難を受ける必要はない。」
子羔は城から離れ、子路は中に入りました。
ちょうど家の中から使者が外に出ました。子路はその隙に突入して台上の蒯聵に言いました「太子(蒯聵)が孔悝を用いることができますか?たとえ彼を殺しても、必ず後に続く者がいます(孔悝を脅迫していますが、太子には孔悝をうまく用いることはできません。また、たとえ孔悝を殺したとしても、孔悝の後に続いて太子を害そうとする者が出てきます)。」
子路が火をつけると聞いて恐れた蒯聵は、石乞と盂黶(または「盂黶」「壺黶」)を台の下に送って子路を攻撃させました。甲冑を着けていない子路は戈で撃たれ、纓(冠の紐)が切れます。子路は「君子は死ぬ時でも冠を脱がないものだ(当時の礼です)」と言うと、纓を結び直して死にました。
孔悝は蒯聵を国君に立てました。これを荘公といいます。
出奔した出公の在位年数は十三年になります。
荘公は出公に仕えていた群臣を信用できなかったため、全て除こうとしました。そこでまず司徒・瞞成(子還成。恐らく子還は氏)に言いました「寡人は難のため国外にいて久しかった。子(汝)にも経験させてやりたい。」
瞞成は退出してから褚師比にこの事を告げ、荘公を攻撃しようとしましたが、実行する機会がありませんでした。
『史記・衛康叔世家』は荘公が大臣を皆殺しにしようとたところ、群臣が乱を起こそうとしたため、あきらめたとしています。
[十一] 衛の公孟彄が斉に出奔しました。
公孟彄は蒯聵の一党として出奔していましたが、蒯聵を裏切って先に帰国しました(東周敬王三十五年・前485年)。
しかし蒯聵が即位したため、公孟彄は再び出奔することになったようです。
宋景公三十七年、楚恵王が陳を滅ぼしました(実際は翌年の事です)。
この頃、熒惑が心宿を守りました。心宿は宋の分野です(古代は天体を分割し、各国にあてはめていました)。
景公がそれを憂いると、司星(天体を観測する官)・子韋が言いました「禍を国相の身に移すことができます。」
景公が言いました「相は我が股肱である(禍を移すことはできない)。」
子韋が言いました「禍を民に移すことができます。」
景公が言いました「国君とは民に頼るものだ(禍を移すことはできない)。」
子韋が言いました「禍を歳(収穫)に移すことができます。」
景公が言いました「歳飢(不作)となったら民が困窮する。そのようなことになって、わしは誰の国君だというのだ。」
子韋が言いました「天は高くにありますが、低い事を聞いています。国君に人の君となる三言があったので、熒惑は自然に動くでしょう。」
熒惑を観測すると三度移動しました。
次回に続きます。