春秋時代290 東周敬王(五十九) 白公の乱(前) 前479年(2)

今回は東周敬王四十一年の続きです。
 
[] 六月、衛荘公が平陽(衛都外)で孔悝と酒を飲み、厚い褒賞を与えました。諸大夫にも贈物が下賜されます。
孔悝が酔ったため荘公が送って帰りましたが、夜半に孔悝を追放しました。
孔悝は母の孔姫を車に乗せて平陽を発ち、西門(平陽門)まで来た時、貳車(副車)を西圃(孔氏の廟がある場所)に送って祏(神主を保管する石箱)を運ばせました
 
子伯季子はかつて孔悝の家臣でしたが、荘公が即位してから抜擢されて荘公の臣になりました。
その子伯季子が孔悝追撃を請いました。荘公は同意します。
子伯季子は途中で祏を運ぶ副車に遭遇したため、孔悝の家臣を殺してその車に乗りました。
孔悝は副車がなかなか戻って来ないので心配して許公為(許為)を送りました。
許公為が子伯季子に遭遇します。許公為が言いました「不仁の者と明(優劣)を争って勝てないはずがない。」
許公為は子伯季子に先に矢を射させました。子伯季子は三発の矢を射ましたが、どれも許公為から遠くはずれます。
逆に許公為が矢を射ると、一発で子伯季子を殺しました。
孔悝の家臣が許公為の車を追って合流し、子伯季子が乗っていた車の袋から祏を探し出しました。
孔悝は宋に出奔しました。
 
[] 以前(東周景王二十三年・前522年)、楚平王の太子・建(字は子木)が讒言に遭って城父から宋に奔りました。しかし宋は華氏の乱で混乱していたため、鄭に遷りました。鄭人は太子・建を厚遇します。
ところが太子・建は晋に行った時、晋人と鄭を襲う計画を立てました。太子・建は計画を実行するために鄭に戻ります。それを知らない鄭人は以前のように厚遇しました。
やがて、晋人が間諜を送って太子・建と連絡を取り、期日を決めて鄭襲撃の約束をしました。しかし太子・建は自分の邑で暴虐な態度をとっていたため、邑人が太子・建の陰謀を訴えました。鄭が調査すると晋の間諜が発見されます。
鄭は太子・建を処刑しました。
 
太子・建には勝という子がおり、難を避けて呉に亡命しました。
後年、楚の令尹・子西(王子・申。太子・建の兄弟)が勝を招こうとしましたが、葉公・子高(沈諸梁。楚の左司馬・沈尹戌の子が反対して言いました「勝は詐(狡猾)で乱を好むといいます。害になるでしょう。」
子西が言いました「わしは勝には信があり勇であると聞いた。不利になることはない。辺境に置けば衛藩(守り)となる。」
葉公が言いました「仁にかなっていることを信といい、義を行うことを勇といいます。勝は復言(言ったことを必ず守ること)を好み、死士(死を恐れない勇士)を求めていると聞きました。これは私心があるからでしょう。復言は非信です(復言は仁に合わないことでも口にしたら必ず実践するので、本当の信ではありません)。決死とは非勇です(義に合わないことにでも命をかけるのは勇ではありません)。子(あなた)は必ず後悔します。」
子西は忠告を聞かず、勝を招いて呉との国境に置きました。勝は白公とよばれます。白は国境の県のようです東周敬王三十三年・前487年参照)
 
後日、白公・勝が父の怨みを晴らすために鄭討伐を求めましたが、子西は「楚の政治が定まっていない。そうでなければ、忘れることはない」と言って拒否しました。
また暫くして白公が鄭討伐を請うと、子西は同意しました東周敬王三十七年・前483年参照)
しかし晋が鄭を攻撃したため(恐らく前年冬)、本年(『史記・楚世家』は楚恵王八年としていますが、恵王十年の誤りです。『十二諸侯年表』も「恵王十年」としています)、楚は鄭を援けて盟を結びました。『春秋左氏伝』にはありませんが、『史記・楚世家』は子西が鄭から賄賂を受け取ったとしています。
白公・勝が怒って言いました「鄭人はここにいる。讎は遠くない。」
鄭を援けた子西も鄭人と同じ仇讎だという意味です。
 
白公・勝が自分で剣を磨きました。
司馬・子期子綦王子・結。子西の弟)の子・平がそれを見て問いました「王孫(勝。平王の孫)はなぜ自ら剣を磨いているのですか?」
白公が答えました「勝(私)は直(率直。隠し事をしないこと)で名を知られている。汝に教えなかったら、直とはいえない。汝の父を殺す準備をしているのだ。」
勝にとっては子西が仇となったので、その弟の子期も敵の一人になります。
 
平はこれを子西に報告しました。父の子期ではなく子西に言ったのは、子西が令尹だったからです。
子西が言いました「勝は卵のようなものだ。わしの翼で彼を成長させている。それに、楚国でわしが死んだら、令尹や司馬は勝でなくて誰がなるというのだ。」
子西は白公が自分を感謝していると信じています。また、子西の死後、令尹や司馬になるのは白公しかいないので、敢えて子西を殺して位を奪う必要もないはずだと考えています。白公の目的が位を得ることではなく、仇を討つことにあるとは気がついていません。
これを聞いた白公・勝はこう言いました「令尹は狂ったか。彼が善い死を得たら、私ではない(子西が天寿を全うできるようなら、私は人ではない。必ず私が子西を殺す)。」
しかし子西は白公の殺意を察することができませんでした。
 
白公・勝が部下の石乞(または「石乙」)に言いました「王と二卿(子西と子期)の士は五百人の士で当たれば充分だ。」
石乞が言いました「(五百人の士は)得られません。しかし市の南に熊宜僚という者がいます。彼を得れば、五百人に匹敵します。」
白公と石乞は熊宜僚に会いに行き、話をしてみました。二人はとても満足します。そこで挙兵の計画を話しました。しかし熊宜僚は協力を断りました。石乞が剣を首に向けても熊宜僚は動きません。
白公が言いました「利を示しても誘惑されず、威を恐れることもなく、人に言を漏らして媚びるようなこともしない。自由にしてやれ。」
 
この頃、呉が慎を攻撃しました。
白公が兵を率いて呉軍を撃退します。
白公が戦利品の武器を献上すると願い出て、恵王が同意しました。これを機に乱を起こすつもりです。
 
 
 
次回に続きます。